陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ひとを犯罪に向かわせるものは何か

2022-07-10 | 政治・経済・産業・社会・法務

7月8日、日本のみならず世界じゅうを震撼させたニュースが駆け巡った。
憲政史上最長の在職期間を誇る元首相・安倍晋三氏が凶弾に斃れたという。私はこの知らせを職場のネットで経理システムを動かしているあいだに知ったが、心肺停止でも、その復活を疑わなかった。

いちど病魔で政権返上し、その後、悪態をつかれながらも首相に返り咲き、日本を世界の真ん中で咲き誇る国にした、といってもよいこの彼は、まぎれもなく、我が国がいま失ってはならない人物だった。ヤジを飛ばすなどの政治家としての失態もあったが、コロナが襲うまでは、世界はアベノミクスで経済復興を果たした日本に羨望を抱いていたほどだった。就職氷河期世代の救済策が進んだのも、女性の輝く社会への推進をうたったのも、彼の政権時代ではあった。

この事件については、二、三のややお説教がましい記事を書いたが、世論が騒がしいのでしばらく期間をおいての公開とする。

私がショックだったのは、現行犯逮捕された容疑者が40代の、就職氷河期世代だったことだ。
令和に入ってすぐの凶行が頭をよぎった御仁もおられたことだろう。

何某かの事件が生じたとき、被害者の業績には哀惜の念が募る一方、加害者の生い立ちが暴かれる。下手をしたら加害者の親族にまでプライバシー侵害となりうることもある。私も不安になって、無駄に検索したりしてしまう。

しかし、どこそこの出身であるとか、妻子がいないとか、片親家庭だったとか、不安定な雇用だったとか、学歴が低かったとか、どこそこの国籍だったとか、そうしたレッテル張りは何らかの意味があるのだろうか。公務員や大企業勤めだったが、魔が差して…なんてことはいくらも聞かれるだろうに。

今回の事件では、犯人の母親がのめりこんだ宗教団体への怨みが、安倍氏へと転化されたという。
では、その宗教の信者すべてが悪いのか。子が道を踏みはずせば(あるいは事故死すれば)、父親は免責され、いつも母親だけの育て方が悪いのか。

犯人の属性探しをしても何も解決策が出てくるわけではない。
無職の人間でも、エリートの人間でも、危険運転で轢死させることは、過去のニュースが教えてくれたではないか。

私は過去に日雇い派遣者に関するやや批判めいた記事を書きなぐったことがある。
現在、その被用者であるゲストにはさぞやご不満だったことだろう。しかし、私にもそれを書いて気を紛らわしたい腹立たしいことがあったのだ。無論、その相手を殴りたいなどとは思わず、面と向かって反論すると角が立つからである。

現在は、こうした鬱屈をネットにバラまく手段がいくらでもある。
間違った悪意はSNSで拡散され、自称正義漢があっというまに、その敵をいっせいに叩こうとする。たとえ中学生でも芸能人のスキャンダルにつき、暴言を吐けば、罰を受けないわけではない。

誰でも生きていく上で、なんらかの不平不満を抱え込んでいる。
身近な人間に漏らすことでガス抜きをしたり、おいしいものを食べたり、趣味で気晴らししたり。なんとか、かんとか、悪意を絶望を胸の底にひた隠しにしつつ、ご機嫌でいようとする。それが、悲しいことにいっぱしのオトナというものだからだ。子どもから見たら、相当かっこ悪い。

個人の生活環境に基づく悪感情はあくまで、一身上のものである。
それを理由として自分が優遇されたり、慰められたり、感情剥き出しにして反論したり、あるいは話題を大きくして時論のおもむくところにすることは、厳しくその正当性と公益性とが問われることになるだろう。

今回のケースで言えば、就職氷河期だからこんな復讐をしてもやむをえないだとか、救済しなかった政府が悪かったとか、そういった諦念を不特定多数の意思であたかも国民すべてがそうであるかのように思いなすことは、とても恐ろしいことではないだろうか。

ドストエフスキーの『罪と罰』では、主人公の法律学を修めた青年が金持ちの老婆を撲殺する。
主人公には狂気にしか思えぬ信念があるのだが、服役後には、彼を支える献身的で慈愛に満ちた女性の存在がほのめかされ、一縷の望みで幕を閉じる。

だが現実は過酷だ。
いちど過ちをおかした者、とくに中高年になってからの再起の道は厳しい。石垣はあらかじめ組まれ、後からそこへ入るのは容易ではない。安定した組織や家庭という居場所に恵まれなかった者は、捨て鉢になるほど、悪い結果が待っている。

環境がその犯罪者としての人格を作り上げてしまうのか。
武器を遠ざけ、規制すれば防げたのか。そもそも、小さなナイフひとつでも、誰かを死なせることはできるのに。

もしも、ひとを犯罪に向かわせないものがあるとしたら。
それは自分自身の人生を愛することなのではないだろうか。たとえ、しがない仕事であってもそれを楽しみ、逆恨みをせず、他人が自分の悲しさのすべてがすべてを理解してくれるなどと思わないことだ。自分の幸せは、誰かのそれと比較しての優劣で決まるものではない。衣食住整い礼節を知る、とはいうものの、何を与えても、あるいは乏しくても、それに鼻持ちならない状態である限りは、私たちはなんらかの罪を犯す者へいつでも転がり落ちてしまう用意ができているのである。

不満を抱えたとして、それを暴力で解消しようとしても、事件沙汰にしたとしても、けっきょく何もよくはならなかったということはありがちなのだ。
経済不安があっても、国が、政治家が、役所や会社が、あるいは身近な家族や友人知人ができることは限られるだろう。不幸に陥ったときの自分の身の振り方が試されている難しい時代になったといえる。

(2022/07/10)






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