連休間近、この四月半ばから下旬にかけての街並みときたら、まるで、ジョルジュ・スーラの絵画のようです。桜にはピンクと翠とが点描のように混じりあい、やがて翠が勝っていきます。空の青さも青みが増していきますし、道行く人も軽装になったり、また冬らしいコートを羽織り返したりする。
新生活がはじまってほぼ一箇月立つ頃合。
しかし、この時期は木の芽時ともいわれて、心身が不安定になりやすい時期ともされます。新しい学校、職場。新しい業務や部署や学級、役割。最初は期待され、がんばってがんばってやり抜いていたのに、ふとした瞬間に気が緩みやすい時期でもあります。連休中の予定にわくわくしている人もいれば、連休も何もあったものでなく、ただ生活のために労働を強いられている、受験のために休みを楽しむことすらない方もいます。
最近、気になった新聞記事は、子どもの自殺がここ数年増加傾向という報道。
昨年、全国で320名もの中高生がみずから命を絶っています。子どもが自死を選ぶ背景として考えられがちなのは、学校のいじめですが、実は親子関係など家庭のトラブル、学業不振など自身の将来性を悲観してのものも含まれます。
いじめについては、数年前に話題を呼んだ男子中学生の自殺の現場であったあの大津市で、教師が被害者の訴えを無視したために、生徒が不登校になっているという問題が発覚しています。いじめといえば子どもだけの問題と思えるが、ようはモラハラやパワハラ。職場や家庭、夫婦間そして地域社会でも生じやすいものですね。
「どこの世界にもいじめはある」「いじめられるのはお前が弱いから、悪いから」と責任を転嫁され、泣き寝入りさせられた人間がみずから死を選ぶのは不思議な話ではありません。ひとの能力に差があるように、ひとのものの感じ方や心の持ちようにもそれぞれがあるわけですから。
新しい組織やグループになじめず、浮き上がってしまう。信頼できるひとがおらず、相談もできない。どんなに頑張って成果をあげても認められない。不真面目でさぼっていて、他人を陥れてばかりの人が得をしている。独りで生きていくことはできず、どこかで所属する限りは、理不尽なことを目撃しつづけねばならない。
私がいままで生きてきたなかで感じたことは、どんなに精いっぱい努力して、才を発揮しようとしても、足を引っかけてくる人はいますし、また、時期によっては、相談したらその相談者にすらひどい暴言を浴びせられることすらあるということ。世の中にはひとの弱みにつけこんで商売をする輩もいます。たとえば、宗教関係や美容健康、医療ビジネス。すべてがそうだとは言い切れませんが、人間が商っているものですから、当然に好き嫌いもでてくるわけです。教師や医者や占い師やなどといった、いわゆる人助けの職業が心無い言葉で苦しめることもありうるのです。
最終的に何に救われるかといえば、それは趣味でしかないのでしょう。
私の場合は読書と創作ですが、これも場合によりけりで、その趣味を極めていくうちに付き合いでいざこざがあったりで、よけいにストレスになったりしますよね。
子どもが死に急ぐのは、子どもを保護すべきはずの大人ですら、自分の心を制御できなくなっているからです。子どもの成績やら部活動の成果を誇り、競うように着飾らせているのに、忙しさにかまけて子どもの話に耳を傾けてくれない親や教師や周囲の大人。子どもは身近にこのひとみたいに生きたいな、あるいはこのひとといると楽しいな、というロールモデルがいないので、自分が成長して大きくなることに期待が持てません。親や老人に対する不信感が根強いので、年金を払っていこうとか、働いて税金を納めていこうという自覚も湧かないでしょう。いくらそれが義務だよといっても、自分を理解してくれない世の中の決まりなんぞクソくらえと思ってしまいます。
子どもは幼稚で能力が足りず、馬鹿だ。あるいは、可愛ければそれでいい、と大人は思っていますが、子どもは大人以上に世の中のことをひろく観察しています。真剣に叱ってくれるひとにはなつきますが、見栄や体裁で、感情をぶつけるために怒る大人にはやがて反抗します。長じれば、親や学校の教師、職場の上司とて欠陥があることに気づき、それを受け入れることができますが、しかし、そうした欠陥のある人間に自尊心を傷つけられたり、痛みを逆撫でされる仕打ちを受けた子どもは、人間を信用しなくなります。
どんなに身近にモノが溢れていても、身近に支えてくれる人がいなければ不幸です。しかし、仲間が欲しいからといって、自分のこころを奴隷にして、今いる組織や人間関係に従する必要もない。しんどかったら、逃げてもいいのですし、休んでもいいのです。
現代の社会は、ひとの価値が生産性で図られすぎています。また、自分の能力が埋もれてしまわないために、わざと不当に気に入らない人間の評価下げを行う者までいます。日本は高齢化社会、いずれ人口の何割かは「役に立たない」といわれ続けるお年寄りになります。ついこの前も、七十代の鉄道自殺を図った男性を引き留めようとした正義感ある男性が、いっしょに轢死するという事故があったばかり。世の中をよくしよう、ひとを救いたい、という高い志ある人が犠牲になっていく事実に胸がふさがる思いです。
身近に救いとなるような人物がいなければ、物語のキャラクターや歴史上の偉人の話などに触れてみるのもいいのではないでしょうか。弱い人間を救うためにたちあがったヒーローや、苦難をのりこえて成功した事業家などの物語は、ひじょうに勇気づけられます。時間に余裕があれば読み返したいとストックしておく小説や本などはいくつかありますが、そうした人生の楽しみを増やしていくことで、すこしずつ、自分を生きながらえさせていくのです。いまはしんどいけれど、ひょっとしたら、明日、あさって、一か月後、一年後、すばらしいことが待っているかもしれない。そう考えて生きていってほしいのです。
新生活がはじまってほぼ一箇月立つ頃合。
しかし、この時期は木の芽時ともいわれて、心身が不安定になりやすい時期ともされます。新しい学校、職場。新しい業務や部署や学級、役割。最初は期待され、がんばってがんばってやり抜いていたのに、ふとした瞬間に気が緩みやすい時期でもあります。連休中の予定にわくわくしている人もいれば、連休も何もあったものでなく、ただ生活のために労働を強いられている、受験のために休みを楽しむことすらない方もいます。
最近、気になった新聞記事は、子どもの自殺がここ数年増加傾向という報道。
昨年、全国で320名もの中高生がみずから命を絶っています。子どもが自死を選ぶ背景として考えられがちなのは、学校のいじめですが、実は親子関係など家庭のトラブル、学業不振など自身の将来性を悲観してのものも含まれます。
いじめについては、数年前に話題を呼んだ男子中学生の自殺の現場であったあの大津市で、教師が被害者の訴えを無視したために、生徒が不登校になっているという問題が発覚しています。いじめといえば子どもだけの問題と思えるが、ようはモラハラやパワハラ。職場や家庭、夫婦間そして地域社会でも生じやすいものですね。
「どこの世界にもいじめはある」「いじめられるのはお前が弱いから、悪いから」と責任を転嫁され、泣き寝入りさせられた人間がみずから死を選ぶのは不思議な話ではありません。ひとの能力に差があるように、ひとのものの感じ方や心の持ちようにもそれぞれがあるわけですから。
新しい組織やグループになじめず、浮き上がってしまう。信頼できるひとがおらず、相談もできない。どんなに頑張って成果をあげても認められない。不真面目でさぼっていて、他人を陥れてばかりの人が得をしている。独りで生きていくことはできず、どこかで所属する限りは、理不尽なことを目撃しつづけねばならない。
私がいままで生きてきたなかで感じたことは、どんなに精いっぱい努力して、才を発揮しようとしても、足を引っかけてくる人はいますし、また、時期によっては、相談したらその相談者にすらひどい暴言を浴びせられることすらあるということ。世の中にはひとの弱みにつけこんで商売をする輩もいます。たとえば、宗教関係や美容健康、医療ビジネス。すべてがそうだとは言い切れませんが、人間が商っているものですから、当然に好き嫌いもでてくるわけです。教師や医者や占い師やなどといった、いわゆる人助けの職業が心無い言葉で苦しめることもありうるのです。
最終的に何に救われるかといえば、それは趣味でしかないのでしょう。
私の場合は読書と創作ですが、これも場合によりけりで、その趣味を極めていくうちに付き合いでいざこざがあったりで、よけいにストレスになったりしますよね。
子どもが死に急ぐのは、子どもを保護すべきはずの大人ですら、自分の心を制御できなくなっているからです。子どもの成績やら部活動の成果を誇り、競うように着飾らせているのに、忙しさにかまけて子どもの話に耳を傾けてくれない親や教師や周囲の大人。子どもは身近にこのひとみたいに生きたいな、あるいはこのひとといると楽しいな、というロールモデルがいないので、自分が成長して大きくなることに期待が持てません。親や老人に対する不信感が根強いので、年金を払っていこうとか、働いて税金を納めていこうという自覚も湧かないでしょう。いくらそれが義務だよといっても、自分を理解してくれない世の中の決まりなんぞクソくらえと思ってしまいます。
子どもは幼稚で能力が足りず、馬鹿だ。あるいは、可愛ければそれでいい、と大人は思っていますが、子どもは大人以上に世の中のことをひろく観察しています。真剣に叱ってくれるひとにはなつきますが、見栄や体裁で、感情をぶつけるために怒る大人にはやがて反抗します。長じれば、親や学校の教師、職場の上司とて欠陥があることに気づき、それを受け入れることができますが、しかし、そうした欠陥のある人間に自尊心を傷つけられたり、痛みを逆撫でされる仕打ちを受けた子どもは、人間を信用しなくなります。
どんなに身近にモノが溢れていても、身近に支えてくれる人がいなければ不幸です。しかし、仲間が欲しいからといって、自分のこころを奴隷にして、今いる組織や人間関係に従する必要もない。しんどかったら、逃げてもいいのですし、休んでもいいのです。
現代の社会は、ひとの価値が生産性で図られすぎています。また、自分の能力が埋もれてしまわないために、わざと不当に気に入らない人間の評価下げを行う者までいます。日本は高齢化社会、いずれ人口の何割かは「役に立たない」といわれ続けるお年寄りになります。ついこの前も、七十代の鉄道自殺を図った男性を引き留めようとした正義感ある男性が、いっしょに轢死するという事故があったばかり。世の中をよくしよう、ひとを救いたい、という高い志ある人が犠牲になっていく事実に胸がふさがる思いです。
身近に救いとなるような人物がいなければ、物語のキャラクターや歴史上の偉人の話などに触れてみるのもいいのではないでしょうか。弱い人間を救うためにたちあがったヒーローや、苦難をのりこえて成功した事業家などの物語は、ひじょうに勇気づけられます。時間に余裕があれば読み返したいとストックしておく小説や本などはいくつかありますが、そうした人生の楽しみを増やしていくことで、すこしずつ、自分を生きながらえさせていくのです。いまはしんどいけれど、ひょっとしたら、明日、あさって、一か月後、一年後、すばらしいことが待っているかもしれない。そう考えて生きていってほしいのです。