陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

国民選挙エイティーン(後)

2014-06-01 | 政治・経済・産業・社会・法務
ですので、投票権を広げるのは大賛成なのですが、有効な一票を投じられるように、学校なり地域なり、ご家庭なりで話し合う機会を設ける必要があります。
公民や政治経済といった科目は制度や仕組み、その歴史については教えてくれても、ではそれで社会をどう良くすればいいかは教えてくれませんでした。私が子どものころ、少子高齢化が進み、働く世代1人が背負う高齢者の数は1になる、国の財政は借金だらけ、という悲観的状況を「知識として」知らされただけで、ではその解消のためにどうしたらいいか、ということの答えは教科書にもなければ、教師が話すこともありませんでしたし、学生同士が論じ合うこともありませんでした。そして、それは、現在のように子どもたちがあっさりと知りたい情報をネットから引き出せる時代でも変わらないでしょう。

投票権が十八歳から可能という報道があっても、十代による新聞の投稿論には、それに関する文書が寄せられたのを見かけたことはありません。そもそも、若い年代ほど新聞を読まなくなっています。若者は権利が広げられても、知らないままなのです。人知れず派遣法が改悪されて、雇用環境が悪化していった十数年前のように。投票権を与えてやったぞ、と飴をばらまいておいて、次に政治家が狙うのは、ひょっとすれば国民年金の納付年齢の引き下げなのかもしれませんし、若者を徴兵制へと誘う道徳教育の洗脳なのかもしれません。

投票権は十八歳というよりも、むしろ中卒で働いている十五歳からでも構いませんし、十代で結婚して子どもを産んでいる若い夫婦になら賦与してもいいのではないでしょうか。
学歴のない労働者は、法律違反の悪い労働環境に置かれていることが多いもの。若くして子育ての苦労を知った、もしくは望まれない妊娠をしてしまった母親は、公立の保育園に通うのに役所で手続きせねば成らないことも知りません。子どもを抱えてシングルファザーになってしまった若い父親も知らないでしょう。昔だったら、隣近所や親戚のおせっかいなおじさん、おばさんが世話してくれたようなことが、とても難しい。そのような困ったひとの声を救い上げるために選挙があるならば、労働や人口増加に寄与している若年者には投票権を与えてもいいけれど、口先の上手い老獪な大人たちに利用されないように、学ぶ機会を与えるべきです。

そしてまた、選挙について、もっと学ぶべきなのは現に有権者たるわれわれでもあります。
AKBの総選挙やキャラクター人気投票さながらに、わたしたちは「お気に入り」の政治家をポチ押す=推すことに馴れています。でも、飽きたらいつでもアンフォローすればいい、では済まされないのがやっかいなところ。政治家は国民の民意を「代表して」いるだけに過ぎないのに、いつのまにか、反していることがある。それを批判したり毛嫌いすることはたやすいし、気持ちがいい(現に私もブログでやっていますが)。けれど、嫌になったからとただ罵倒したり、無視だけして黙り込んだりして、その人を選んだ責任を取らないのは、オトナのすることではなくて、コドモでしかない。現在、ひじょうに問題なのは、この選んだ代表者に任せたらなんとかなるわ、という庇護本能のある「コドモ」国民が多いせいで、選挙が有意義に機能していないのではないか、ということです。

働きざかり世代であっても、残業続き、休日出勤の多い職場では、まともに選挙に行ける体力気力もないという方がほとんど。
労働基準法には第七条に「公民権行使の保障」が明記されています。

「使用者は、労働者が労働時間中に、選挙権その他公民としての権利を行使し、
又は公の職務を執行するために必要な時間を請求した場合においては、拒んで
はならない。」


使用者=会社は従業員が選挙の投票に行ったり、裁判の証人になるための時間を請求されたら、それを拒むことはできません。しかし、業務に支障がない時間に変更することができますし、それを有給扱いにすることまでは法律は義務づけていません。職場を離れた時間分の賃金をカットしてもいいということです。つまり、必然的に、時間給で働いてる非正規労働者(とくに土日も出勤せねばならないサービス系は)投票権を奪われたも同然です。正社員と同じように働き、納税もしているのに、自分たちの苦境を改善する声を政府に届けることができない。
正社員であっても仕事に加え子育てや介護、もろもろ家事で忙しい現役世代では、投票から足が遠のく人もいるでしょう。しかし、いちばん、政策で置き去りにされてきたのが、こうした投票に行けない人の困った問題=労働、介護、育児ではありませんか?

この状況をなんとかしなければ、いくら学生さんの多い十代に投票権を広げたとしても、まったく無意味ではありませんか?

現在、いちばん社会構造の歪みとして問題視されねばならない労働酷使や人材育成の課題が、そうした問題の救済者たる人を抜きにして施策されているのです。百年程まえ、度重なる労働争議と自由民権運動の高まりはひとつであり、多くの国民がより人間らしい暮らしを求めて、やっと普通選挙権をもぎとったというのに。いま、その権利がまったく無効の空くじのようなものとして、配布されているに過ぎない。ネット選挙の解禁について取り沙汰もされたけれど、より多くの人が投票に行きやすい環境づくりも大事です。

印象派の画家たちは、夜な夜な、パリの夜の酒場やカフェなどで、新しい表現とはなにか、をケンケンガクガク論じ合っていました。明治大正時代のデモクラシー気運の高まったときも、集会が開かれたことでしょう。
マックやサイゼリアなどで、高校生や大学生たちが「政治家の〇〇って、ウザくない?」とか「今度さあ、変えるっていう労働なんとか規制、あれ、マジやばいよ」とか、アイドルや流行りのゲームについて語り合うような感じで、ダベりあってる風景は理想なのではないかと思われるのです。


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国民選挙エイティーン(前)
十八歳からの投票権。だが、しかし。権利の間口をひろげたとしても、使えなくなる怖れがあるのです。


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