玉川上水43km再探索、いよいよ最終回です。
葵橋跡を見て、甲州街道沿いを歩きます。
交通量も多く、歩道も多くの人が歩いています。
新宿駅南口前を進みます。
新宿駅より東の玉川上水は関東大震災後に暗渠化され、敷地は都市開発の一部を担い、面影はありません。
「新宿」の発祥は「内藤新宿」から
江戸時代に整備された甲州街道は、日本橋を出て一つ目の宿場は高井戸であった。
その距離が長く不便な為、元禄11年(1698)、幕府は内藤家の広大な下屋敷の一部を返還させて、
町屋と共に馬継ぎの施設を設けて宿場にし、内藤家の敷地に作った新しい宿ということで「内藤新宿」と呼んだ。
明治18年(1885)、鉄道(現在の山手線)が敷かれた際、駅が内藤新宿の外れに作られたので内藤を外して「新宿駅」と命名。
「天龍寺」
天和3年(1683)建立。江戸城・裏鬼門鎮護の寺。
家康の側室でえある西郷局の父の菩提寺で、遠江国の法泉寺が移されたもの。
現在は大分縮小しているが、かつては玉川上水に面しており、上石橋、下石橋、その間に二つの板橋が架けられていたらしい。
また、境内には池があり、そこからの流れが渋谷川の源流になっていた。
屋根には葵の御紋。
時の鐘
さらに進むと、
新宿高校構内にある「旭橋」の石樋
下見の時にはネオ一だったのでフェンス越しにしか撮れませんでしたが、
例会時にはコンデジ。フェンスの隙間から手を伸ばして全景を撮りました。
逆からも。
遺構の石樋は、玉川上水の上に架けられていた悪水吐(下水の樋)。
玉川上水を汚さない為に、甲州街道と青梅街道が分岐する追分一帯の雨水などの下水を、
千駄ヶ谷の谷の池に落としていた。
このあたりは天龍寺辺から一面、水浸しになったらしい。
さらに進んで、新宿御苑脇の散策路を歩きます。
「玉川上水 内藤新宿分水散歩道」
平成24年、新宿御苑100周年を記念して、環境庁・新宿区・地域が一体となり、
新宿御苑脇に玉川上水をイメージした親水路(540m)が造られた。
水路には新宿御苑トンネル内の湧水が引き込まれている。
散歩道は、新宿御苑の外なので無料です~
途中、暗渠になっていて、またここから水が出ています。
遊歩道を過ぎて、脇道を進み、直角に曲がります。
さらにまた曲がりますと・・・
こんな場所に出ます。
新宿御苑トンネル脇です。
暗渠化された玉川上水路の地下に、平成3年(1991)、甲州街道の新宿4丁目交差点と四谷4丁目交差点とを結ぶ全長840mのトンネルが貫通。
かつての上水路は車の路に大変身しました。
右に見える建物は東京都水道局。
道路を渡って、左に行くと、
最終地点、四谷大木戸跡です。
その左側が通り抜け出来て、こんな場所に出ます。
右の裏から中が見えます。水道弁
ここで解散。
去年4月から始まった再探索。 ついに最終地点に到着しました~
四谷大木戸(現在の四谷4丁目交差点)
元和2年(1616)、甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まる為、関所が設けられた。
路の両側に石垣を築き、木戸を設けて番屋を置いたことから、「四谷大木戸」と呼ばれる。
寛政4年(1792)には、この木戸も番屋も撤去され、自由に往来出来るようになった。
石垣は明治9年(1876)に撤去された。
解散後、私達は交差点の反対側に行って見ました。
ここが、本来の四谷大木戸地点のようです。
石で囲ってあり、裏側の通路から交差点方向を見ますと、
先ほどの場所が見えています。(新宿御苑トンネル、水道局のビル、其の前に碑)
『注:青字はSさん作成の貴重な資料より引用しました』
Sさん、長い間、下見の実踏・資料作り・当日の案内と、本当にお疲れ様でした
楽しく探索し、玉川上水の偉業がよく分かりました。
これからもさらに探索を続けたいと思います。
ありがとうございました
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