月に一回はアップしていこうといいながら、二月、三月とさぼってしまった。
まあ、読んでくれる人がいるとは思えないが、そろそろ再開しなければならない。
梶井さんは自身が熱中した野球について次のように書く。
〈「野球には人生がある」などと、通俗的なことはいいたくないけれども、現実の試合では、弱いチームが強い相手に勝つことさえまれではない。みじめなほどの打率の打者が九回裏に逆転打を打つこともありうる〉
う〜む、梶井さんちょっと待ってほしい。梶井さんが存命でこれが酒席での発言なら、ワタシはたぶん梶井さんにそう言うだろう。では、マラソンはどうなのよ、サッカーはどうなんすか?ありとあらゆるスポーツに「人生がある」のではないのですか、と酔ったふるをして絡んでみせる。スポーツに人生があるなど信じていないすれっからしのワタシの言い草である。
梶井さんはなんと答えるだろう。「マサさんは野球のことがわかってないよ」とタバコのケムリを吹き出しながら言うだろう(笑)。
いやいや、わかってはいるのです。
11年ほど前の写真だろうか。本郷のサイゼリヤでの梶井さん。本郷仙人とワタシの三人で安ワインを呑んだ楽しいひととき。梶井さんはワタシを「マサさん」と呼んでいた。ワタシは梶井さんを足立区のヘミングウェイとひそかに呼んでいた
野球というスポーツ(ゲームと言ってもいいが)と、ほかのスポーツとの大きな違いは、個人がプレーする時間が全体に占める割合は非常に少ない。とくに攻撃のときはバッターボックスに立つ打者と、もしかするとヒットや四球で出塁した走者しかゲームをしていない。
守備についても積極的にというか、必然的に身体を激しく使っているのは、投手と捕手の二人である。投手が一球投げて、捕手が投手に球を返すまでの時間の長いこと。その間野手は緊張感をもって守備位置にいるのだろうが、やはり考えごとをしているかもしれない。もちろん打球が飛べば、いちばん近い守備位置にいる野手が動いて打球の処理に向かうし、そのほかの野手もカバーや連携プレイのために動かなければならない。
それでもひとつの試合のなかでひとりの選手が身体を動かす時間は、ほかのスポーツに比べて短い。
つまりその当事者以外はバッターボックスに立つ選手に応援を送るしかないのだ。あるいは守備につく野手は投手になんとか抑えてくれよと、心のなかで応援する。応援というより祈りや願いのようなものであろうか。そこに人生論が登場する。
サッカーやラグビーという展開の早いスポーツにおいて、そういったシーンは少ない。もちろんペナルティキックや、フリーキック、あるいはPK戦においては応援があり祈りがある。しかしそれは例外的なものでしかない。野球は言ってしまえば意外とヒマなスポーツなのである。そこに人生論が侵入してくる。
こう言うと梶井さんはまたタバコを口にくわえたまま、「マサさんは野球のことがわかってないよ」と言うだろう。「野球は組織プレーの集積なんだよ、そのあたりの微妙な感覚が実際に野球をやったことのない人間にはわからないのかもしれない」とまで言われそうである。
続けて〈数百試合しかないわたしの貧しい体験のなかでも、それに類することはいくらでもあった。連盟の公式戦で最終回にリードされていて、二死でスコアリングポジションにランナーが出た。次打者が一割にも達しない低打率では、期待するほうが無理だとわかっている。しかし、打ってくれというより、ふだん試合に出してもらえないようなアイツにはなんとか打たせてやりたいと思う。「打たせてやってくれ」と、対象がだれなのかわからない願いをおくる。そして、かれはタイムリーを打った。こういうときのうれしさは、格別のものになる。もちろん、これと逆にためいきで終わるケースはなんどもある。いや、野球の話はもうよしにしよう〉と話は終わったのかと思ったらすぐに〈こういいかえてもいい。野球は、たしかに人生のようにおもしろいのだ。寺田ヒロオも、それを知っていたはずだった〉と続くのである。
野球と人生についてワタシはなんとも言えない。子どものころ野球はやっていた(やらない子どもが珍しいのだが)が、運動神経のにぶいワタシはヘタだったし、ケガをしたこともあってあまり楽しい思い出はない。
梶井さんの言う寺田ヒロオと野球の関係は理解できるし、寺田ヒロオの野球マンガの面白さも子どものころからファンだったワタシはとてもよくわかる。
生涯で数百試合をというのはアマチュアとしては多い方なのかどうか、ワタシにはにわかに判断できないが、若いときから野球に親しんで、セミプロのレベルにまで達した寺田ヒロオとはおそらく梶井さんは同士的なシンパシーもあったのかもしれない。寺田ヒロオのインタビューのさいに、梶井さんが自身の野球体験を寺田ヒロオに話したのかどうかはわからない。
たとえば『トキワ荘の時代』のこのページに掲載されている寺田ヒロオの絵と、梶井さんのキャプションを読むと、おそらく寺田ヒロオは梶井さんに対して野球の同志として心を許していた部分があるのではないだろうかという気がする。それにしてもこの三枚の絵を選んだ梶井さんの眼力は、野球をこよなく愛しまた野球の中に人生の面白さを見つけた者でなければ不可能な鋭くも暖かな視線があることは間違いない。
寺田ヒロオのセンスのよさがよくわかる絵である。寺田ヒロオのいちばんの理解者だった梶井さんの指定によるものだろう