おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「世論」って何でしょう??-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑬-

2024-03-16 06:57:55 | 日記
サンクト・ペテルブルクにコレラが蔓延していた1893年、10月のある朝、
ピョートル・チャイコフスキー(1840~1893年)は、不機嫌な表情で朝食の席に着いていた。

かねてから、彼の様子をみていた作家であり、医者であり、友人であるアントン・チェーホフは
「ピョートル、君はただ単にペシミズムの発作を(また)起こしているだけさ。
君が第5交響曲で語ったように、僕たちは、生きなければならないのだよ。
それがどんなに悲惨でもね。」
などと言ってチャイコフスキーを慰めていたようである。

チャイコフスキーは、かつて、冬のヴォルガ川に身体を浸し、肺炎にかかるか、「賭け」をしたことがあった。

ロシア正教の教えと同性愛者であったチャイコフスキーの考えは齟齬をきたしており、チャイコフスキーの裡でも、つらい問題となっていたようである。

だからこそ、チャイコフスキーは、もしも神がロシア正教の教え通り、ソドムを滅ぼした同性愛を憎む神であるならば、必ず自分を肺炎にかからしめ、地獄の業火で身を滅ぼすはずである、と考えたのであった。

しかし、彼は「賭け」に勝ったことがあり、その勝利を第4交響曲、そして第5交響曲で謳い上げたのである。

しかし、やはりチャイコフスキーは、同性愛者についてまわる当時の社会の醜聞におびえることに苦しんでいた。

そこで、チャイコフスキーは、それらの記憶をすべて、第6交響曲に投影しようと考え、自分の人生のすべてを楽譜に表現したのである。

それが、よく(日本では)『悲愴』と呼ばれるチャイコフスキーの交響曲第6番ロ長調である。

いわゆるチャイコフスキーの『悲愴』は、
1楽章が幼年時代における音楽への漠然とした欲求を、
第2楽章が青春時代における上流社会の楽しいような生活を、
第3楽章はさまざまな意味での生活との闘いとさまざまな意味での名声の獲得を、
そして、最終楽章には、
「深淵より」そのような自分の人生から見つめたことを表現したのである。

自分の人生のすべてを作曲したかもしれないと考えたチャイコフスキーは、ある意味では、自分のすべてとも言うこともできるこの交響曲に、『悲愴』という標題を与えるまで、悩みに悩んだようである。

彼が言っていた「人生について」が、いつ『悲愴』に変わったのかは定かではないが、
彼が何気なく目をとめたシェークスピアのソネットの
「私は自分の書いたもので恥をさらした。
つまらぬものを愛すると、君もそうなるだろう」
と一節を見て、彼のいつもの不機嫌な感情がはじまり、『悲愴』になった、とする説もあるようである。

さて、標題が『悲愴』に決まり、訳もなく楽しい気分になったチャイコフスキーは、「また」あの「賭け」をしてみたくなったようであり、周囲に
「私は、欲望以外のすべてを神に委ねてきた。
今一度、神に問おう。
私は、生きるべきか、死ぬべきか」
と言っていたようである。
しかし、1893年11月6日、その「賭け」をする前に、ピョートル・チャイコフスキーは当時、サンクト・ペテルブルクで蔓延していたコレラにかかり、亡くなったのである。

ところで、
1945年にやっと、日本で女性が投票権を得た、ある意味、女性の公民権を日本にもたらしたアメリカでも、女性が公民権を得たのは、1920年であるのは驚きである。

1940年代のアメリカにおいて、多くの州とアメリカ陸軍では、厳しい人種差別が行われ、一部の州や自治体では、異人種間の結婚・同棲や同性愛は犯罪とされ、すべての州・自治体では恥ずべき行為と見なされていたのである。

現在の法律では、女性と男性は平等、黒人と白人も平等であり、性的指向および性自認は、市民としての権利にまったく影響しない、とされている。

しかし、ごく最近まで、権利を主張する戦いは続いていたのである。

いつでも、また世界のどこでも、すべての人間は法の下で平等、ではなく、
また、法の下での平等が保証されるまでの歩みは遅く不安定かつ不完全であり、さらに不平等なことも多く、ほぼいつも混乱を生んでいた。

日本でも先日、同性婚をめぐる現行法の規定についての動きがあったように、公民権をはじめさまざまな権利の、法的認定を求める戦いは続くのであろうが、世界において、19世紀には大敗北であった権利に関する戦いは、20世紀から21世紀にかけては成果を上げていると言っても良いようにも思う。

勿論、法的地位を獲得した成果が現れるのは、現実の世界よりも法律上の記載であることが、あまりに多いのであるが、それでも前進を否定すべきではない、と、私は思う。

現に、世界で見れば、100年前では、それも比較的最近まで考えられなかった法的地位を、女性、人種的少数派、LGBTの人々が、獲得したのである。

私の想像だが、チャイコフスキーならば、
「やるべきことはまだ多く残されてはいるが、すでに多くのことが成し遂げられているのも事実だ」
と今の世界を褒めてくれるかもしれない、とも、思う。

チャイコフスキーが気に病んだ世間の目、それはひとつの怪物ではなく、ひとりひとりの目の集合体であり、世論と言い換えられるのかもしれない。

世論というものは、固まって見えることが多いが、実は気まぐれで、世論こそ、いろいろと影響を受けやすいものかもしれないと、私は、思う。

正義と寛容さを保証することに関して、政治家や判事は世論を先導するよりも、世論に従うことがずっと多いようである。

かねてより、公民権を推進する個々の戦術は、時代や争点、政治状況、経済状況、人口動態、推進する人々のパーソナリティに応じて変わってきた。

しかし、そのもとになる戦略は常によく似ている。

メディア、一般大衆、法律家の注意を
差別の不当さ、差別されている側の基本的な人間性、差別をする側の基本的な非人間性に向けさせるのである。

認識や政策の変化を促す上で、言葉と行動はそうじょうこうかをもたらす。

それは、同じくらい重要で、切っても切れない関係にある。

公民権法の成立に向けて転機となったのは、レイシズムを終わらせようという、マーティン・ルーサー・キングの人々の心を奮い立たせる訴えだった。

リンカーン記念堂の階段で行われた彼の演説で
「私には夢がある。
それは、いつかこの国が起ちあがり、『すべての人間が平等に造られているということは、自明の真実であると考える』というこの国の信条を、本当の意味で実現することである」
と述べ、2万5000人の聴衆に加え、数千万人のテレビ視聴者の心を震わせた演説に、私も、また、触れるたびに感動を禁じ得ない人間のうちのひとりである、と思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

最近、日中は暖かくなってきましたね( ^_^)

春の足音がきこえてくるようですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「アメリカ」という理想が今までに経てきたこと(後編)-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑫-

2024-03-15 06:38:03 | 日記
アメリカ例外主義は、アメリカ特有の現象である。

2016年のトランプの大統領選出や今(2024年)の大統領選について、十分に理解したいと思うとき、私はアメリカ例外主義の起源、またアメリカ例外主義の高潔な部分も不名誉な部分も理解したいと思うようになった。

「例外」という言葉をアメリカに対して初めて使ったのは、1830年代にアメリカを訪れていたアレクシ・ド・トクヴィルであった。

トクヴィルは、(当時の)アメリカ人が異常なまでに営利の追求に熱を上げ、文化的なものに興味が無いことに対し、著書『アメリカのデモクラシー』では、皮肉を込めて
「アメリカ人の状況は、まったく例外的である......彼ら/彼女らの起源はまったく清教徒的であり、商売一辺倒、ヨーロッパと隣り合っているために、彼ら/彼女らは、学問、文学、芸術研究をせずとも野蛮に帰らなくても済むようになっている......数多くの要因が与って、アメリカ人の精神を純粋に物質的な事柄を考えるように異様なまでに集中させた」
と述べている。

トクヴィルは、アメリカの悪い部分だけでなく、善い部分にも目を向けていた。

当時のアメリカ人は世界が不愉快になるほど他を押しのけながら、貪欲に働き、貯蓄にいそしんでいたのかもしれない。

しかし、その一方で、当時のアメリカは世界の希望でもあったことにトクヴィルは目を向けている。

アメリカは、アメリカの独特の歴史、国土の広さ、国民の多様性、豊富な天然資源、地理的な独立性、民主主義、自由な経済活動、個人の自由、個人主義、新たなアイデアや発明に対する寛容さ、少ない事業規制、豊富な商取引経験、機会均等という点で例外的な存在であったのである。

リンカーンは、アメリカ例外主義のより高尚で、向上心にあふれた側面を、最もよく体現した人物のひとりであろう。

リンカーンは、国民は、自分の生活を模範的なものにするだけでは十分ではなく、自分たちがよりよい世界への道標となる光を灯そうとする決意を、ゲティスバーグの演説で、
「戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、私たちが、ここで、固く決意することである」
というように表明している。

歴史の皮肉が当てはまるという点では、リンカーンも同じだった。

1863年11月におこなわれたこの演説は、アメリカが不当な動機で残酷な内戦を戦った、流血の戦場の一角であった場所で行われた。

このときのアメリカは、よりよい世界を目指す手本とは言い難かったが、リンカーンは決して希望を捨てなかったのである。

リンカーンは、ひとたび各州が結束すれば、アメリカという国は、やがて戦争の傷を癒し、高い道徳基準を取り戻し、人々を救いに導くと考えていたのである。

彼は、宗教にとらわれずに演説をし、人間とアメリカが抱える実に悲しい欠点を常に認識していた。

しかし、リンカーンは、常に人間の善き本性を探し求めていたし、頻繁にそれを見出してもいたようである。

彼からすれば、アメリカ国民はある意味選ばれた者であり、選ばれた者であるなら、貪欲さではなく、善良さにおいて「例外的な」存在とならなければならなければならなかったのである。

しかし
「過去は消して死なず、過ぎ去ってもいない」
のであった。

奴隷を許したレイシズムは決して滅びることはなく、その様相が微妙に変わっただけであった。

歴史にも、「もし」は無いが、もし、リンカーンが生きていて、アメリカという国の再建を指導していれば、彼が思い描いていた「もっと公正なアメリカ」が実現していたのかもしれない、などと想像するのも虚しいことなのかもしれない。

なぜなら、彼のあとを引き継いだうちの数人は、解放を台無しにするようなことをしてしまったからであり、その結果は、今日もはびこるレイシズムにはっきりと見てとれてしまうからである。

約160年前、黒人は文書の上では自由とされたが、
まず、厳しい人種隔離政策であるジム・クロウ制度によって、暴力にさらされ、投獄され続けた。
現在も、また、さまざまな部分で人種的・経済的な不公平をもたらす仕組みのなかで生きることを強いられている。

アメリカで最も偉大な作家のひとりであるマーク・トウェインが書いた、アメリカ小説の中の最高傑作のひとつである『ハックルベリー・フィンの冒険』は、
「black lives matter(黒人の命は大切である)」として、白人の偽善を打ち砕いた。

しかし、アメリカ初の映画大作『國民の創生』は、KKK(クー・クラックス・クラン)の価値を高め、ある意味トランプはその類の熱狂的な支持を集めて大統領選に勝利したと言えるかも知れない。

「すべての人間は生まれながらにして平等」、だが、奴隷を除くという但し書きがついているという、独立宣言の偽善に取って変わったのは、黒人の生活に対する日常的な偽善であったのである。

実際は、黒人はたびたび隔離されてきたし、よく不平等な扱いを受け続けていて、十分に大切にされているとは、言い難い状況のように見える。

南北戦争は終わってなどいなかったのかもしれない。

トランプの選出により、南部連合軍が、このたびの戦いに勝ったかのようにすら、思えてくるのである。

マーク・トウェインは、宗教に名を借りた
「明白な運命」や
「文明化の使命」という宗教的偽善に隠されたアメリカの帝国主義を嫌っていた。

彼が嫌っていたのは、すべての人間は生まれながらにして平等ではあるが、アメリカ人は他者を征服する特権を神から与えられている、あるいは、そうした役割を自ら任じている、という考えである。

そして、そのような考えから、アメリカ人は西部への移動を阻むネイティブ・アメリカンを殺害し、メキシコ人を倒して広大な土地を得、アメリカが作り上げたスペインとの戦争で植民地を獲得してきたのである。

ジャクソンから、ポーク、セオドア・ルーズベルト、ブッシュに至る大統領たちは、進んでアメリカの主税を行使し、アメリカの願望を限界まで追求してしまった。

マーク・トウェインは、セオドア・ルーズベルトのことを
「南北戦争以来アメリカに降りかかった最も恐ろしい災難」と評し、
「神はアメリカ人が地理を学べるように戦争を生み出した」
とまでに痛烈な冗談を飛ばした。

多くのアメリカ人が、ベトナム戦争、アフガニスタン、イラク......と終わりの見えない戦争をアメリカがしていることを疑問に思うのと同様に、
トウェインはアメリカがフィリピンで戦争をしている理由など理解できなかったのだと思う。

アメリカ例外主義は、アメリカが関わったあらゆる戦争を、アメリカ人に対して、 正当化するための手段に使われるようになってきている部分は否定できないものがあるだろう。

アメリカだけでなく、どの国も例外主義のなかで生きているのかもしれない。

私たちは、物事とをあるがままに見ず、見たいように見ている。

それは世界共通の人間の性のようである。

また、私たちは、あるがままに物事を見ない代わりに、商業的感心というレンズを通して、さらに私たち自身の貪欲さを理想主義の薄い膜で覆い隠しながら物事を見ている、と、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

おかげさまで、「アメリカ」という理想が今までに経てきたことが、今回で(後編)と出来、終わることが出来ました^_^;

アメリカには、最近、よく触れてきたので次回からは、出来るだけ日本やロシアに触れてみたいと思っています。

また、よろしかったら、次回からも読んでやって下さいね( ^_^)

拙い文章が続きますが、よろしくお願いいたします(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「アメリカ」という理想が今までに経てきたこと(中編)-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑪-

2024-03-14 06:47:47 | 日記
多くの人たちがヨーロッパから上陸する前から、北アメリカ大陸がどの程度よい場所になるのかについては、対照的な見方が在ったようである。

16世紀初頭に、トマス・モアは楽観的視点から、「新世界」でさらに良い社会が出来ることを望んでいた。
(それから1世紀後、ウイリアム・シェークスピアは、例え住む場所を、変えたとしても、人間の本性にある欠陥を消し去ることは出来ない、と悲観的に予言した。)

モアは、コロンブスが亡くなってから10年後には、もう「ユートピア」という言葉を造り、直前に発見されたアメリカの沿岸部に近い架空の島をその場所として選んだのである。

今でこそ、よく、しかも自然に使われているが、「ユートピア」という言葉は語呂合わせである。

古代ギリシア語で「どこにもない場所」という言葉の音に似た「Eu-topia」が「よい場所」を指すことから生まれたものなのである。

モアは、自分が理想とする共和国は、「旧世界」のどこにも絶対に存在し得ないと解っていた。

しかし、モアは、「新世界」では、そのような国が確立されることを願っていた。

モアの理想の「アメリカ」像である「ユートピア」は、秩序が在り、平穏で寛容な場所であった。

秩序がなく混乱したイギリスのチューダー朝とは全く対照的であるといえよう。

(ちなみに、間もなくチューダー朝では、モアの友人であり、またモアを大法官に任命したヘンリー8世の命令で、モアは突如、反逆罪で処刑されてしまうのである。これらを知っているシェークスピアがのちに著した『テンペスト』は、モアの『ユートピア』を見事なまでに痛烈に皮肉っていた作品となっている。)

モアの理想のアメリカ像である「ユートピア」では、腐敗しきったヨーロッパから逃れてきた人が、名誉を回復し、さらに完璧な社会を造るチャンスを与えられいたので、そのような新世界に住む人々は、自由選挙で指導者を選び、不適切に権力を奪い取った者はいかなる者でも免職にする権利を持っており、さらに、外交術により戦争をする必要がない。

また、人口は注意深く抑えられ、本土から行き来する移住者の数を調節することによって均等に分散される。

さらに、どんな宗教の信者も受け入れられ、平和に暮らしていおり、財産は共有で、そこから得られる利益は自由かつ均等に分けられる。
全員が生産性のある仕事に就いているが、労働時間は1日に6時間なので、余暇と勉学のために十分に時間がある。
医療費は無料である。
女性の権利は、現代ほど十分ではないが、当時の基準をはるかに上回るものであった。

そしてモアは、中世カトリック教会の守護者であったために命を落としたにもかかわらず、物語の中では現在のカトリックの教義に全く反する離婚や安楽死、司祭の結婚を認めている。

モアは、またユートピアに法律家は必要ないとした。
ユートピアにおける法律は、とても単純だったので、誰にもよくわかるものであり、皆がそれに従っている、というのである。

私は、トマス・モアは、歴史上きわめて偉大な法律家のひとりであると思う。
『ユートピア』の決まり事の随所にモアの法律に対する、心を打つような、現実離れをしているかもしれないが、素晴らしい自己犠牲の精神がうかがえる、と、私は、感じるのである。

「アメリカ」がモアの夢を実現していたならば、本当に例外的な国≒「ユートピア」になっていたであろう。

ところで、
アメリカ建国の文書である「独立宣言」の冒頭に
「私たちは、以下の事実を自明のことと信じる。
すなわちすべての人間は、生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」
ということばが在る。

独立宣言の起草に当たって、トマス・ジェファーソンは、モアの『ユートピア』から強い影響を受けていた。

しかし、ジェファーソン自身が奴隷所有者でもあったために、自分の現実が理想にかなうまでには至らないと分かっていたであろう。

奴隷制を擁するアメリカで、
すべての人間が
「生まれながらにして平等」
であることは、決して当たり前の話ではなかった。

また、ジェファーソンの個人的な経験からも、彼が独立を宣言した新しい国の経験からも、
すべての人間が生まれながらにして「不可侵の利益」を与えられていることを示すものは全く存在していなかったし、ジェファーソンお気に入りの私邸「モンティセロ」では、奴隷の権利が著しく侵害されていたともいわれている。

「アメリカ」は、高尚なユートピア的理想とともに生まれたが、その理想は常に日々の厳しい現実に裏切られていたのである。

「幸福の追求」という表現を誤って解釈したことも、今日まで、アメリカ例外主義の価値をおとしめてきた。

独立宣言の100年近く前に、哲学者ジョン・ロックは著書『統治二論』で

「何人も他人の生命、健康、自由あるいは所有物を侵害すべきではない」
「幸福の追求の必然性は自由の基盤である」
と述べた。

ジェファーソンはロックから、「幸福の追求」という概念を借用したのである。

「幸福」という言葉はロックやジェファーソンにとって特別な意味合いを持っていた。

彼らにとって幸福の追求は、より善い人間になることであり、もっと責任感のある市民になることを意味した。

個人の快楽や喜びではなく、
勇気、節制、正義という市民の徳を指した、古代ギリシャ哲学における「幸福」ということばを彼らは使ったのである。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で
「幸福な人間は善く生き、善きことをなす。
なぜならば、私たちは幸福を事実上ある種の善き人生とか善き行為と定義づけてきたからである」
と述べている。
また、ロックは『人間知性論』で、さらに明確に
「私たちは、自分たちの最大ぜんとしての真の幸福を選択し、追求する必然性によって、個々の場合の欲望の満足を停止しないわけにはいかないのである」
と述べている。

つまり、人を惑わす幸福感は「真の堅固な」幸福ではないのである。

アメリカ独立宣言に盛り込まれた幸福の追求が「自由の基盤」であるのは、それがまさに個人の欲望の奴隷となることから解放され、よりよい市民となることを狙いとしたものだからである。

ジェファーソンが言ったように
「最大の幸福は、運命によって私たちが置かれる生活状態によって決まるのではなく、良心、健康、職業、自由を全力で追求した結果得られるもの」
なのである。

以来、確かにアメリカ人はひたむきに幸福を追求してきた。

しかし、それはアリストテレスやロック、ジェファーソンが考えていた市民の徳をだったのではなく、いつの間にかマスコミが宣伝する安直な幸福の追求になってしまった部分も在るように見える。

常に現実的だったベンジャミン・フランクリンはこうなることを見通していたかのように
「憲法は幸福追求の権利を与えているだけである。
幸福は自分でつかみ取らなければならない」
と述べている。

今、これまでにもまして、アメリカに限らず、世界中で、私たちが偽りの儚い消費の快楽にとらわれ続けることなく、持続可能な世界で、どうすれば真の幸福を最善のかたちで追求できるかについて真剣に考えるべき局面に来ていることだけは、確かなようである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

「アメリカ」という理想が今までに経てきたことの(後編)ではなく、中編)をお読み下さり、ありがとうございます^_^;

実は、前編と後編の予定を変更いたしましたm(_ _)m

次回こそ(後編)の予定です。

勝手な変更ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「アメリカ」という理想が今までに経てきたこと(前編)-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑩-

2024-03-13 07:10:59 | 日記
アメリカ合衆国の建国から約250年、いまだに
「アメリカ」は現実というよりも、いまだに、ひとつの理想のままなのであろうか。

つまり、言うなれば、「アメリカ」は進行中の高尚な一大事業であり、正当な誇りの源泉であると同時に、大きな幻滅の源泉をも内包しているのであろうか。

ジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』著したのは、1726年、つまり、アメリカ独立宣言の50年前だった。

スウィフトは、人間の在り方に関するよい評価すべてを、意地悪に、面白おかしく、皮肉を込めて痛切に批判している。

ガリバーの旅は、バミューダに向かうところから始まる。

この物語の中心となるのは、
きわめて多くのユートピア的な夢と、ディストピア的な悪夢である。

ガリバーから連想されるgullibleは、騙されやすい、とか、すぐ真に受けるという意味だが、
その名前からうかがわれるとおり、ガリバーは騙されやすく、物腰の柔らかい純真な人物であり、人々に温かい関心を寄せていた。

しかし、ガリバーの旅は人間に対する嫌悪で終わる。

ガリバーはあまりにも人間嫌いになったため、人間を見ることにも、声を聞くことにも、匂いをかぐことにも耐えられなくなる。

ガリバーは、見知らぬ奇妙な場所を旅することで、
人間の愚かさ、度量の狭さ、大げさな賞賛、狡さ、自己欺瞞、我が儘、無関心、邪悪さを目にしたのである。

ガリバー旅行記は、
人生を楽観的に始めるほど、人生に対する失望が大きくなりがちであることや、
希望があまりに現実離れした楽観的なものであればあるほど、苦い経験によってますます深く悲観主義に向かって落ち込んでゆきがちであることを、教えてくれているのかもしれない。

かつて、日本では、『ガリバー旅行記』は子ども向けの絵本などにされる扱いが多かった時期もあるが、今では、日本でも(やっと?)政治学の教科書としても脚光を浴びているようである。

ところで、
アメリカンドリームの本質は、個人や集団が持つ願望である。

アメリカを建国したのは、疲弊した、人口過剰の、争いが絶えない世界から逃れて新天地へ行った移民たち、である。

そのような世界から逃れてきた彼ら/彼女らを出迎える新たな国は、少なくとも建前だけでも、勤勉によって、自由、平等な機会、成功がもたららされるという理想を唱え続けていた。

しかし、願望は実現の同義語ではない。

アメリカ独立宣言では「すべての人間は生まれながらにして平等」であると謳い、国民を多いに励ましたものである。

しかし、240年経っても、その理想はまだ実現しておらず、「アメリカ」は現実というよりも、いまだにひとつの理想にとどまったままにもみえる。

しかし、私たちは、多くの人々が海を渡って見知らぬ新天地に向かう危険な旅に出たのは、
旧世界で人々をつなぎ留めていた重苦しい制度、人間関係、伝統のくびきからひとたび逃れれば、もっとよい新たな世界を創ることが出来るというよりも純粋な願望からであることを、忘れてはならない。

あまり人気の無い未開の土地は、ヨーロッパで人類が積み重ねてきた多くの悪事を正すための空白の石版を提供した。

それは、すべての人にとって新たなスタートであり、いわば人類にとっては、2度目の救済を受けるチャンスであったと捉えられていたのかもしれない。

1620年、プリマス上陸直前に結ばれたメイフラワー契約は、厄介な現実問題に対する、理想的な解決策であった。

メイフラワー号には、自らを「聖徒」と呼ぶ国教反対者と、商機を求めてやってきた部外者とよばれる人々がほぼ同数乗っていた。

彼ら/彼女らは、自らが置かれている危機的状況を考えており、内部での対立は許されない不必要な行為だと認識していて、
「私たちは、結束し、市民による政体を形成する......そして、これに基づき、随時、植民地全体の福利のために最も適切と思われる、公正で平等な法律、命令、法令を発し、憲法を制定し、公職を組織する。
そしてこれらに対し、私たちは当然かつ全器服従と従順を約束する」
と聖徒と部外者で作成した契約の中で誓約した。

この社会契約は、公益への合意に基づいた民主的な自治を通じて、入植の動機の違いを解消したのである。

それから10年後、またしても上陸直前の船上、のちにボストン港となる場所で、新たなマサチューセッツ湾植民地の基本的な姿勢を示すために、ジョン・ウィンスロップが
「キリスト教的慈愛のモデル」という説教を行った。

ウィンスロップはキリストの「山上の垂訓」を引用し、同胞であるピューリタンの入植者たちに向かって
「世の光」を生み出すように命じ、「丘の上の光り輝く町」を造れという聖アウグスティヌスの命を引き合いに出した。

ウィンスロップは同胞に対し、新世界の生活は厳しいものになり、報酬は等分に配分されないという、現実に即した警告を与えている。

彼はその説教のなかで、
「全能なる神は、最も神聖で賢明なる摂理において、常に裕福な者と貧しい者、権力と威厳に秀でた高貴な者と身分か低く服従すべき者という、人間の境遇を定められた」と述べている。

しかし、境遇や能力、裕福さに違いがあっても、(特に共同体において)人々は身体の各部位が依存し合うように生きていかなければならないし、愛情と誠実さをもって、共同体のニーズを個人のニーズよりも優先させ、よりよい世界を創造し、他者が見習う手本となるように、全員が一丸となって、努力しなければならない、と説いたのである。

しかし、新世界はそのようにうまくはいかなかった。
入植者たちがつくった新世界は、旧世界を超えることが出来なかったのである。

彼ら/彼女らは、確かにすばらしい新世界をつくる機会を与えられたものの、どこまで行っても、人間につきまとう、代わり映えのしない心理的な力や社会の力に飲み込まれてしまったのである。

正しい行いをするための自的意識や宗教上の命令があっても、入植者は度々間違いを起こしてしまったのである。

マサチューセッツ湾植民地は建設当初から争いで分裂し、その不寛容さ、偏見、迷信のために、悪評が高かった。

一部では、強奪や殺戮が横行し、マサチューセッツ湾植民地は、より良い世界をつくることなく、現状の世界に対するよい手本とはなれなかった。

また、これは、ユートピア的理想が堕落し、恐ろしい行動を正当化し、ユートピア的理想を裏切るという悪循環であった。

これだけを見ると、歴史は最悪の形で繰り返すのかと不安になるが、
幸いなことに、平行して行われていたそれまでとは異なる現実的な原則に基づいた政治の試みは好ましい成果を生んでいた。

マサチューセッツ湾植民地が建設されてから数年後、植民地の指導者たちは、ロジャー・ウィリアムズを追放したのだが、ウィリアムズは、賛同者たちと未開の土地に移り、プロビデンス・プランテーションを建設した。1663年にそこは、ロード・アイランド植民地の一部となったが、こちらは、マサチューセッツでロジャー・ウィリアムズが嫌悪していまユートピア的理想主義とは正反対の考えに基づき運営されたのである。

ウィリアムズは、人間心理を常識的に評価し、どんな集団も腐敗は避けられないと考えていて、自己の利益を正当化するために宗教的権威が利用されることを恐れていた。

そのウィリアムズの視座から、理想主義や例外主義、宗教を大げさに主張するよりも、
現実主義の方が、統治を成功させるための人道的で効果的な道標となることがわかったのである。

ウィリアムズは人民の人民による統治を確立し、宗教的楽園をつくることよりも、世俗的な目的に尽力し、合意を旨とし、実際的な政治制度を基盤とする指導体制を確立したのである。

ウィリアムズたちは自己の利益を図り願望を実現するカルバン主義からは遠く、権力は神から与えらるという神話も信じてはいなかった。

また、ウィリアムズは、当時としては斬新な、教会と国家の「分離の壁」という概念を提唱し、完全な宗教の自由をも保障したことは、特筆すべきことであると思う。

ウィリアムズは、自分たちが、丘の上に神の町を造ることが出来る、などという、ひたすら楽天的で偽善に満ちたユートピア的概念を頼みにはせず、
実現可能な政治的解決策と人間関係を創り出すことの重要性を理解していたのであろう、と、私は思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日から、不定期更新からまた普段の日記に戻ります( ^_^)

よろしくお願いいたします(*^^*)

明日は、
「アメリカ」という理想が今までに経てきたことの後編を描いてみたいと思います。

またよかったら読んでやって下さいね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

目標には目標の機能がある

2024-03-10 18:31:53 | 日記
ふと、マラソンで考えてみました。

もし、ゴール自体がなかった場合、または知らされていなかった場合、走れるところまで全速力で走れといわれても、完走できないと思います。(→少なくとも私はそうです^_^;)

多くのマラソンランナーは、ゴールがあるからこそ、全力疾走で、かつ計算しながら走れるのでしょうね。

事前にゴールが知らされていなければ、42.195㎞を完走することすら、たぶん無理でしょう。

目標は、目的達成のための「現在のゴール」なのだと思います。

「明確に目的を意識する」ことが出来なかったとき、私は困っていました。

例えれば、ちょうど、乗っていた船が太平洋のど真ん中で沈み、命からがら板切れにつかまっているような状態であったのです。

もちろん、私の目的は、
「助かりたい」
であったのでした、目標を具体的に意識せず対象に当たったがために、太平洋のど真ん中で板につかまって漂流することになっていたのでした。

右に行くのか、左に行くのかわからないでは、ただ流れに身を任せて、漂うしかありません。

絶望感と無力感が襲ってくるでしょう。

板切れに、しがみついた私は、「助かりたい」ならば、目標を設定するしかないのでした。

目標の機能は方向性を示すこと、だけではありません。

目標には目標固有の機能が在ります。

京都から東京まで行くのにはさまざまな方法が思い浮かびます。

歩く、走る、車、バス、電車、新幹線、飛行機。

その他にも東京まで行く手段は無限にあるかもしれません。

しかし、最短最速で行く方々は限られます。

例えば、この中だと飛行機か新幹線が速いでしょうか。

どうして、私は飛行機か新幹線を選んだのでしょうか?

それは、目標が設定されているからです。

ところが、東京の渋谷のハチ公前に目標が設定されていても、早い便があるからといって、仙台行きや札幌行きに乗る人が少なからずいます。

また、うまく東京行きには乗ったものの、次の山手線に乗ったまま、渋谷で降りるのを忘れてぐるぐると同じところをまわるひとがいます。

ひどいひとだと、東北新幹線に乗り換えています。

目標とは、いわば、「乗り物を選択する基準」です。

目標にしたがって、ときとところと力をうまく選択して、短期間でそれに乗り切ることを「戦略」といっても過言ではないかもしれませんね。

クラウゼヴィッツの『戦争論』に倣えば、
戦術とは「戦争を構成する複数の戦闘を個々に遂行する活動」であり、
戦略とは「複数の戦闘を戦争目標に結合しまとめる活動である」と定義されますね。

言うなれば「目標の設定」とは、方針決定の問題です。

さまざまな無限の手段から最善手を選択する。

これが「方法論」なのかもしれませんね。

私が、常に目標を意識していたのならば、手段の選択は簡単だったのかもしれません。

しかし、逆に、目標の設定が曖昧だった私は、手段を決定出来なかったのでしょう。

目的の第2の機能である「手段を選択する基準」については、また、不定期更新の際に描きたいと思います。

今からでも、病気によって「失われた10年」に拘泥することなく、確りと人生を歩みたいなあ、と思います。

明日は、また、3月11日ですね。

静かに、しかし、ちゃんとかなしみから生まれるやさしさを忘れずに、また、今年も3月11日を考えたいと思います。