おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

トマス・シデナム(Thomas Sydenham)の先見性

2023-09-30 06:46:38 | 日記
「病人の枕元に行きなさい。
そこでしか病気は学べない」

トマス・シデナム(Thomas Sydenham、以下、シデナム)は、そう言い、
理論より経験によって知識を習得するアプローチを発達させ、
17世紀、クロムウェル治下の英国が、
啓蒙時代の夜明けを迎えつつあるころを生きた。

シデナムは、迷信や悪魔や教義、そして、残酷な荒療治から、患者たちを解放し、
友人で哲学者のジョン・ロックとともに、
病気を学ぶのは患者からであり、
理論、哲学、宗教の教えからではない、と説いた実用的医学の第一人者である。

シデナムは、
観察し、分析し、比較した。
それに拠って、いつも共通して生じる症状を突き止め、
その経過と予後を研究した。

シデナムは、疾病のパターンを理解することが、原因を明らかにして治療法を見出すのに役立つことを発見していたから、
観察し、分析し、比較したのである。

現代医療にもこのような姿勢は健在だろうか?

そのような姿勢で、シデナムが、研究して明らかにした病気たちのなかに、
ヒステリーと心気症
がある。
シデナムは(約200年後のジークムント・フロイトやジャン=マルタン・シャルコーよりも深く)考え、認識していたことがある。それは、

「心理的苦痛が肉体的症状にまで現れている患者に対して、
過剰な治療を施したら、
症状が悪化しかねないため、
行き過ぎた治療は止めて、
かわりに心理学の技術を用いた方が、
患者の回復に役立つことも多く在る」ということである。

シデナムには先見性がある。
「ときどき私は何もしないことで、患者の安全と自分自身の評判に最善の配慮をしている」とシデナムは言う。
自身の立ち位置を正確に理解し、的確に行動する素晴らしい姿勢である。

現代医療にもこのような姿勢は健在だろうか?

シデナムの功績で忘れてはならないのが、舞踏病(→患者本人にはコントロール出来ない、手足や胴体の収縮を症状とする)の原因は、当時信じられていた悪魔などではなく、
連鎖球菌性咽頭炎を起こしたあとに発症する脳の炎症が引き起こした運動である
、と、説明し迷信に支配された世界の、蒙を啓いた。

また、シデナムは病気の薬物療法を確立しながら、処方薬依存への警戒・警告を怠らなかった。
事実、シデナムはアヘンを薬として高く評価したが、処方薬依存を警告・警戒していて、同業者の多くが過剰投与と思われる荒療治をすることに常に疑いの目を向けていたようである。

現代医療にもこのような姿勢は健在だろうか?

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
シデナムは貧血の治療に鉄分が有用であるとして、鉄分の接種をすすめていたり、キナ皮の抽出物(≒キニーネ)をマラリアの治療に用いたりしていたようです。
どちらも、残暑で貧血や蚊に悩まされる私にはありがたいはなしです。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。


絶好の機会か重大なリスクか-患者だった、現在リハビリ中の私の視座から-

2023-09-29 06:44:14 | 日記
「地獄への道は
善き意図と意図せざる悪しき結果に
敷き詰められている」
ということわざがある。

欧米諸国の医療・福祉制度やそのモデルを羨ましがる我が国の風潮は、
追いつけ、追い越せと、
皮相上滑りな政策を実行しようとしており、
欧米モデルに在るいくつかの欠陥には目をつぶり、
かつ欧米モデルが日本の風土や文化に合わない部分が在ることもあまり考えてはいない。
(ex:少子化対策の話ですぐに善くも悪くもフランスのN分N乗方式に飛びつく政治家たち)

それは、意図せざる悪しき結果も敷き詰められている道を行くという行程表のように、私には思える。

さて、憧れの欧米諸国(→特に米国)で、
もはや起きていることだが、
間違った資源配分により
「健康で不安を感じている人」たち
が過剰な治療を施されて害を被り、
「本当に病気で治療を切実に必要としている人」たち
があまりにもわずかな助けしか得られていない。

精神医療に問題の領域を縮小して言えば、
米国では、そのような間違った資源配分により、
重いうつ病を患う人のうち3分の2が治療を受けられず、
重い統合失調症を患う人が刑務所ではじめて治療を受けるケースが多く出てきた時期がある。

少なくとも10年前には、
米国にいて、DSM-5を作成した作成者たちは、その使われ方に不安、さらには危機感を覚えていたし、
その事実を直視していた。

現在でも、日本の医療関係者の大半が、作成者たちの懸念や危機感を知らずに、
作成者たちの懸念通りDSM-5を鵜呑みにしている現場をご覧になったら、
作成者たちは、卒倒するかもしれない。

DSM-5作成者のひとりは

「私が、好物をたらふく食べてしまうのは
DSM-5の『むちゃ食い障害(BED)』なのか?
人の名前や顔を忘れることは、いちいち
DSM-5の『軽度認知障害(MND)』なのか?
そんな心配や悲しみは『混合性不安抑うつ障害』で、身内や友人を亡くしたときの悲嘆は『大うつ病性障害(MDD)』か?
孫のかんしゃくは、もはや単なる日常の音ではなく『重篤な気分調節不全障害(DMDD)』なのだとしたら、
このままだとDSM-5は確実に大混乱を引き起こす。」

と、DSM-5が練られている段階から(DSM-3からの考え方や事象たち、それらの変遷をご覧になっているので)診断インフレを憂慮していた。

我が国でも、事実に基づかない、そして、
絶好のチャンスか重大なリスクかをきちんと議論しないままに、
政策などが実行されないように願いつつ。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
少し今回は、長くなりました。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。



夏目漱石のすごさのひとつに-ギャップ萌え-

2023-09-27 06:44:23 | 日記
夏目漱石が、
文学作品ですごいことは、
誰もが知るところである。

すごすぎて、私など、
理解できていない作品の方が多い。(ほぼ?)

漱石のすごさのひとつに、
「どうやって浮世離れした存在が、
一般と同等の人間である、と、
みせて、安心させるか」
という術を知っていることが挙げられるだろう。

夏目漱石が、
一般人向けの雑誌にかいたエッセイがある。

その中で漱石は、
単に朝起きてどう過ごしたか、
そして誰が訪ねてきたか、だけかいた。

そのような中身は、漱石でないとゆるされないし、
むしろ、読者は漱石がそのような文章もかいてくれるのかと、喜ぶ。
そして、あの漱石先生も同じ人間なんだとどこか安心し、さらに感動する。

夏目漱石は、実に、そのような大衆心理までもよくわかっていたのだなあ
、と、エッセイひとつ採っても、驚きを禁じ得ない。

確かに、一般に難しい小説を読ませるだけでは、
私のように、理解や感動する前に考えこんでしまうひとも、いるのであろうが、

例えば、漱石が、
「今朝、家族みんなで食べた朝食は、目刺しと味噌汁と、ご飯、それにたくわんが数切れ付いていた。
やはりこれが1番美味い。」
などとエッセイに記してくれれば、
浮世離れした存在の俗世への帰還のごとく、多くの一般読者は安堵し、

「さすが、漱石先生。
健康、暮らし、家族、生きる喜び、普通の生の有り難さなどなど、すべての人生においての大切な要素が、さりげない話に入っている」
となる。

今でいう、「ギャップ萌え」をやすやすと、かなり昔にやっている、夏目漱石
とやはり数々の名作をかいている夏目漱石の存在はすごいとしみじみ思う朝である。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
調子は万全ではありませんが、
数日ぶりに復帰しました。
またよろしくお願いいたします。
では、また、次回。





活動的怠惰-ハイデガーとリンポチェ-

2023-09-24 00:09:29 | 日記
コインランドリーの時間は裕福だ。
秋冬に、これでも備えている。

でも、ああヒマだ。
急に
山田詠美の小説と
ハイデガーの『存在と時間』と
リンポチェの『チベット生と死の書』
が浮かぶ。
さらに
早稲田の図書館の書庫にこもっていたときが浮かんだ。

国立医学部だだ落ち→
1浪早稲田大学仮面浪人→
拘りすぎて1留→
数学研究に切り替えても今でいうセクハラ・パワハラに遭う→
理工学部の大学院を諦めざるを得ず、予備校に緊急就職(→このころ過剰摂取で緊急入院)

→やはり再発したパニック障がいに倒れる→半年の猶予で東京藝大を受ける→1次ぐらいは受かるが、2次辺りの面接で落ちる
「大学院から来なさい」
と言われて
→慌てて、受かっている多摩美術大学か武蔵野美術大学の手続き
→(ベルリン芸大断っている問題はまた)
半年飛び級で大学院
→そのあと
テーマの問題で
朝は上智夜は早稲田みたいな
博士課程お試しでツラくても、
なんだかんだ今にいたる。

まだ、洗濯が終わらない。
「ご冗談を」