おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

IBMのパンチカード/カード分類技術とホロコースト-私たちが直面していることについて考える③-

2024-01-31 05:40:55 | 日記
私は、
もし、IBMが、
コンピューターの前身である当時最新のパンチカード/カード分類技術を
ナチスに提供する意思がなければ、
ホロコーストはあれほど早く、そして冷酷なまでのスループットをもって行われなかったのではないか、
と思うときがある。

ところで、精神医学において
「妄想」とは、
「強固に維持された揺るぎない誤った信念であり、
決定的な証拠や理性的議論による修正にも抵抗するもの」
と定義されている。

また、動詞として
「妄想させる」と使われる場合は、
「誤ったことを相手に信じさせる」という意味になる。

人々に「妄想させる」ように人生のほとんどの時間を割くことをやっているのが、多くの過剰なる権力を持ってしまった政治家のように思えるのは、
私の気のせいであると信じたいし、今日からの国会の論戦にも期待していきたいところである。

ただ、
この精神医学における「妄想」は、
ある人が本当でないことを信じている、というだけで、それが妄想であると決めつけるわけではない。

なぜなら、人間は人生で大きな不安に直面すると、自らを安心させるような不正確な説明を作り上げる性質があるからだ。

しかもこの性質は人間にもともと備わった性質である。

私たちは、人類がほとんど知識を持たなかった古代に作られた神話が、
極めて多くの知識を獲得した現在までも、語り継がれているし、さらに、私たちは、今ある不安と将来に対する恐怖に向き合えるよう、新たな神話を絶えず作り出している。

いずれにせよ、私たちは多かれ少なかれ誤った信念を持ち合わせていて、信じるに足る反証を前にしても、誤った信念に固執するものである。

さて、
安全、 便利さ、貴重な研究データを得るためであれば、私たちはかなりの部分のプライバシーを提供する価値がある、と信じているところがある、と言っても、ピンとこないかもしれない。

例えば、
あらゆる物がインターネットに接続されるようになり、至る所にチップが配置されるにつれて、インターネットは、人々の心拍数や毎日の活動レベル、部屋の設定温度、冷蔵庫の中身、車を運転するスピードに関する情報を得るだろう。これらは人々の安全や便利さのためになるし、生活をより良くするための貴重な研究データのためになるであろう。

しかし、同時に、人々はいわば丸裸の状態でコンピューターと親しく語らっているし、さらに言えば、コンピューターに向かってなどいなくとも、自分のことをさらけ出していることが多いといえよう。

ジョージ・オーウェルは、1947年に、当時はかなり新しい発明だったテレビが全体主義者による監視のための絶大な力を持ったツールになると予測している。

オーウェルの著書『1984年』では、鋭く目を光らせる独裁者のビッグ・ブラザーが、あらゆる部屋に双方向カメラを設置して、党がすべてを監視して市民の自立的な活動すべてを封じられるようにした。

しかし、オーウェルは、自分の最悪の悪夢として、日常生活では当たり前になったプライバシーの侵害は想像することはできなかったようである。

いずれ、安全、便利さ、貴重な研究データを得るためとして、
ある意味では政府機関や企業は、私たちの一挙手一投足を監視し、記録し、分析していて、私たちよりも私たちのことをよく知るようになる日々が来るようになるかもしれないのだ。

多くの国において、多くの人々は、多くの場合、テロ防止という大義名分や、便宜のためだとか、さらには個人や集団の安全強化のために、むしろ進んでプライバシーを提供している面すら在る。

しかし、この在り方は、きわめて不安定で、1度暴走すると、止めることが非常に難しいのである。

言い方を変えると、重大なテロ攻撃という理由(言い訳?)が与えられたときに、プライバシーや民主的な抑制の方が、尊重されるということを、誰も保証できないのである。

冒頭に描いたが、私は、
もし、IBMがコンピューターの前身である当時最新のパンチカード/カード分類技術をナチスに提供する意思がなければ、
ホロコーストはあれほど早く、冷酷なまでのスループットをもって行われなかったのではないか、と思うときがある。

つまり、IBMのパンチカード/カード分類技術はユダヤ人に関する大量データの収集を可能にし、その結果、ホロコーストが、あれほど早く、冷酷なまでのスループットをもって行われなかったのではないか、と思うし、同じことが、今後、世界で起こることを非常に危惧している。

ビデオ監視も日常生活の中で急速に普及した。

その先駆けとなるシステムは、ナチス・ドイツによって、V-2ロケットの発射を監視するためにペーネミュンデに設置された。

CCTV(閉回路テレビ)がアメリカではじめて使用されたのは、オーウェルが1949年に『1984年』を出版した直後である。
また、現在イギリスでは、国民14人あたり1台のCCTVが設置されているといわれている。
そして、CCTVの機能は、カメラが見ているものをコンピューターが自動で解析するVCA(画像解析技術)によって大きく向上してきた。
急速に進歩するテクノロジーによって、部屋にいる人々の識別や、表情に基づいて感情を分析し、
その人たちの行動の目的を理解できるようにもなっている。

NSAやCCTVのプライバシー介入の度合いは、不気味にも思えるほどであるが、それでも、
グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル、マイクロソフトやその他サイバー企業による全面的な介入に比べれば、大したことはないのであろう。

確かに、これらの企業は、私たちに多くのものを提供してくれているし、私もその恩恵を日々享受しているが、
これらの企業が(すべてを知ることは無理にしても)何を手にしているのかを知るようにしながら享受しなければならないと私は、感じている。

インターネットによるプライバシーの介入は、無意識のうちに広まり、不満なく受け入れられてきた。

なぜなら、それによって、かつてない水準の便利さが、私たちにもたらされるからある。

しかし、ナチスドイツの例のように、素晴らしい技術もひとたび邪悪な手に落ちてしまうと、
私たちが取るすべての行動によって、何らかの情報が明らかになり、プライバシーが侵害され、外部から私たちが操られるようになってしまう。

今のところ、こうした監視ツールは主に営利目的で使用されているが、
それを、簡単に政府の武器に変えることが出来ることは、
中国、ロシア、イラン、シリア、エジプト、その他独裁政権で、すでに十分に示されているはずである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今回から、また不定期更新からいつもの日記に戻る予定です。

また、よろしくお願いいたします。

早いもので、今日が1月の最終日です!

明日から2月( ^_^)

まだまだ寒い日が続きますが体調に気をつけたいですね。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「ゴジラ-1.0」のノミネートに想う-私、生きて、抗うわ-

2024-01-28 03:31:32 | 日記
まだ、ゴジラ-1.0を観ていないのですが、ノミネートの報から考えていたことを描いてみます。

ゴジラが日本に上陸してから約70年となりますね。

敗戦の余燼も漂う中、水爆実験という科学の暴走に対して日本人が抱いたのは、
「自然から」の、驕り高ぶった人類に対する復讐の恐怖でした。

それがゴジラという姿となって現れたのですが、それに付された音楽は、強烈なそして原始的なリズムで見るものを威圧しました。

あまりにも『ゴジラ』が有名すぎて、他の作品(→『ビルマの竪琴』、『座頭市』、『大魔神』など)の音楽を作曲した伊福部昭さんについて少しばかり考えてみたいと思います。

伊福部昭さんは1914年、釧路生まれ、北海道大学の農学部に進学後、北海道庁地方林課に勤めるかたわら、学生時代から独学で行っていた作曲活動を継続します。

在野の作曲家であった、伊福部さんがアカデミックな場に登場するのは、敗戦の混乱期です。

すでにいくつかの巨軀を発表して名が知られていた伊福部さんは、戦後、東京芸術大学の作曲講師として招かれました。

招いたのは、学長の小宮豊隆さんなのですが、ここで特筆すべきは、小宮さんは、
夏目漱石の一番弟子の文人であり、音楽の専門家ではないことです。

戦後すぐだからか、個性の時代にシフトしてきたからか、判りませんが、
小宮さんが、独学作曲家である伊福部さんを招いた人事は、異例かつ勇気があるものだったことに違いはありません。

小宮さんの期待は裏切られず、伊福部さんの弟子には芥川也寸志さん、松村禎三さんたちがいらっしゃいます。

(→ちゃっかりと、伊福部さんも学長をしていたりもします。)

伊福部さんの音楽の最大の特徴は、土俗的な匂いのする旋律
、執拗かつ強烈なリズム、そして、変拍子です。

彼の音楽には、
彼が生まれ育った北海道の大地やアイヌの精神世界、私淑したラヴェルの影響を感じさせるものがあります。

伊福部さんの激しい音楽は、
厳しい自然と、それと対峙する人間の逞しい生命力を表しています。

『ゴジラ』の音楽に、そのような背景を持った伊福部が適合したのは、やはり、ゴジラという畏るべき自然の力を表象する怪獣と、伊福部さんの音楽が持つ方向性と一致していたのでしょうね。

『ゴジラ』の単純かつ執拗に迫りくるリズムは、有無を言わせないのに迫り来る自然の力を見事に表現しているといえるのではないでしょうか。

伊福部さんは音楽に必要なのは
「力と量と生活」
である、と言っていました。

『ゴジラ-1.0』が北米で異例のヒットをした原因もそこにあるのでしょうか。

敗戦復興も一息ついて、日本人が物質的文明の傾斜を強めようとする時代に、伊福部さんが示したのは、
人間の根源的な生命の力強さと生命の躍動する姿であったのかもしれないですよね。

知らなかったこと-illion「GASSHOW」から-

2024-01-26 11:44:32 | 日記
「画像(動画)とともに見ればわかる。
当時の光景がシンクロする。」

と毎回不定期更新の際に訪れる福島で被災したお姉さんに意味を告げられました。

私の不定期更新更新日の意味はこれです。

私にとって、東日本大震災は、本当に何も出来なかった時期なので。

この「GASSHOW」は「合唱」ではなく、亡くなった方への「合掌」であるそうです。
雪降る中で、この音楽を彼女は今もそう想うそうです。
illion さんの「GASSHOW」
動画が載せられなくてすみません。
スマホかなり苦手なんです(T-T)


今、想うこと。

2024-01-26 09:50:06 | 日記
「勉強する」とは何でしょうか。

私は、例えば、スーパーで手に取った1匹の魚を見て、眼の前の魚しか観ることの出来ない人間は、どんな肩書きが在れ、何か違うなあ、と思ってしまいます。

私は、病気をして劣等感に苦しんだ私の目線は、いささかならず、ひがみっぽいのですが、
病気から立ち直っている今の・私にとって、「勉強」とは、
スーパーで買った眼の前の魚が、
どの海で泳いでいて、
誰がどのような苦労をして獲って、
誰がどのような苦労をして運んで、
どこでどのように競りにかけられて......といった
1匹のスーパーで手に取った魚の背景を、広く、深く豊かにみることができるようになることであると考えています。

「お金があれば魚が買える」だとか、「買った自分の魚だから、煮て食おうが、焼いて食おうが勝手だ」という考えに、私が、ずっと、苦しんできたからかも、しれません。

そんな人は、二流・三流な、自分勝手な考えの持ち主だから、と、聞き流すまで、時間がかかりました。

名人・一流といわれる人は、
その素材をみて、
泳いでいた海、
働いていた人の苦労、
獲ってきた季節をみて、
それに合ったものを作ろうと思って包丁(庖丁)を入れます。

また、「型にはまる」というと、なんだかいやな響きを感じる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、型を知ったり、型に嵌まりすぎた人間にしか、型を破ることが出来ないのではないでしょうか。

良かれ悪しかれ、基本的な型を
身につけておいてはじめて、今度は自分なりの型を会得してゆけるのではないかなあ、と思います。

型をはじめから馬鹿にしてかかって、これを無視するならば、結局、何も身につかない、実のない人生を送るようになるようにすら、私は思うのです。

私は、独自ではなく、平凡でない人生を送る人は、誰ひとりいないと思います。

せっかくなってしまった病気から、再生しているので、そんな気付きを確りと持ち続け、自分自身の人生に誇りを持ち続けたいと思います。

*見出し画像はお散歩途中の朝の景色です( ^_^)

「シンギュラリティ(technological singularity)」という進化の転換点を前にして-私たちが直面していることについて考える②-

2024-01-25 06:35:35 | 日記
コンピューターが私たちの問題を解決すると考えている人が多いようだが、
彼ら/彼女らは、なぜ、
コンピューターが人間を1つの(取り除くべき)問題とみているとは、どうして考えないのか、私は、不思議でならない。

彼ら/彼女らは、人間に対しては、悲観的に考えすぎ、コンピュータが持つ永遠の善意に対しては楽観的に考えすぎている、と私は、思うのである。

コンピューターが私たちに対して永遠に親切であるという標準設定の役割を続けていくと、果たして、考えられるだろうか。

コンピューターはその進化の過程で、人間の本来の意図や指示から大きくかけ離れたプログラムを選択するかもしれないのだ。

人工知能を熱烈に支持する人々は、コンピューターの能力を絶する成長を予測したムーアの法則が、おそらく将来も限りなく続き、コンピューターがほんの数十年以内に人間の知能を追い越すと予測している。

一方、人間は賢くなるにしても、そのスピードはとても遅い。
すぐにずば抜けて賢いコンピューターが、さらにもっと賢いコンピューターを開発することができ、さらにそれが、また、賢いコンピューターを開発するというプロセスが繰り返され、コンピューターに比べ、学習スピードが遅い私たち人間は大きく引き離されるであろう。

「シンギュラリティ(technological singularity)」は、人工知能が人間の知能を追い越すという、進化の転換点を表すのに使われることばである。
そのときに何が起きるのか、は誰にもわからない。

人工知能の最初の先駆者(アラン・チューリングとジョン・フォン・ノイマン)は、そのような日がやって来ることを60年前に見通していた。

彼らは、やがてコンピューターが、力任せの計算力に頼った知性の勝負でことごとく人間に勝つと考えていたのだ。

しかし、彼らは、そのようなことをまったく想像していなかった。

コンピューターはまず、気象や景気動向、粒子の衝突、宇宙の起源、そのほかの科学者が研究するほとんどの事柄のモデル化に必要な大量の数値計算において人間に勝った。

さらに、チェスや碁、人間の顔と感情表現の認識、車の運転、飛行機や宇宙船の操縦、医学的診断、ヘッジファンドの運用では、人間を負かすことにやや時間はかかったものの、かつてコンピューターの能力の範囲外だと考えられてきた非常に多くの事柄でコンピューターは人間より優位に立っている。

チューリングが提唱したチューリング・テストは、コンピューターにとって比較的簡単であったようだ。

コンピューターは、今や、生身の人間と見紛うような、機知に富み、比喩や慣用句を使った言い回しで会話を続けることが出来る。

皮肉な話だが、人間だけの例外として残ると思われる能力は、
「くだらないミスをすること」だけであるようになるのではないか、と、私は、かなり、恐れている。

人工知能の業界は、きわめて深刻な結果をもたらす可能性を考えず、期待と成果を限界まで高め続けている熱狂的な人々で溢れている。

彼ら/彼女らは、政府や企業、億万長者の夢見る愛好家から多額の資金援助を受け、新たな人工生命体を作る力の虜になった現代のフランケンシュタイン博士たちである。

彼ら/彼女らの仕事は、ほとんどの制限されておらず、その危険性に関わる貴重な議論は、ほとんど行われていない。

人工知能は進化が早すぎて、常識や倫理上の配慮を持って適切に制御できないのではないかと、私は、やはり、思ってしまう。

ビル・ゲイツやイーロン・マスク、スティーヴン・ホーキング(2018年3月14日死去)は皆、私たちに従順であるようにコンピューターを作ることが、やがて将来の人間生存に対する脅威になるかもしれないと危惧している。

人間が今後、地球外生命体と接触する確率を計算する理論家は、
人間が接触する地球外生命体が機会であり、生物学的生命体ではないと予測するようになっている。
なぜなら、生物学的生命体の生存期間の方が機械より相対的にずっと短くなっているからだ。

人間に対して最終的にどんな影響があるのか、あらかじめ徹底的に話し合うことなく、
人間ができるありとあらゆること、そしてさらにそれ以上のことをこなせるプログラムを安易に開発すべきではない、と、私は考える。

いかに技術的に素晴らしい取り組みであったとしても、倫理に関する議論や衆人環視の中に縛られていなかったり、手段にのみ重点が置かれ、目的がまったく考慮されていない取り組みは、どうしても、私にはとても恐ろしいものに感じられるのである。

コンピューターに制御された世界で、
「人間は不要な存在である」
とコンピューターが決めるリスクを始めに話し合うことなく、コンピューターが作るユートピアを夢見る者たちは、ディストピアを創造しようとしていることに気づいて欲しい。

その世界に、人間は、いないのだから。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

明日から、数日間、また不定期更新になりますが、またよろしくお願いいたします( ^_^)

次の定期更新は、私たちが直面していること(人口爆発、人口知能、地球温暖化、環境破壊、資源の枯渇、世界の分断など)について考えるシリーズの続きにしたいなあ、と思っています。

いつものように調子に乗った長文で、暑苦しい内容が地獄のように続きますが、良かったらまた読んでやって下さいね^_^;

寒い日が続きますが、体調に気をつけたいですね。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね( ^_^)

では、また、次回。