ふと、マラソンで考えてみました。
もし、ゴール自体がなかった場合、または知らされていなかった場合、走れるところまで全速力で走れといわれても、完走できないと思います。(→少なくとも私はそうです^_^;)
多くのマラソンランナーは、ゴールがあるからこそ、全力疾走で、かつ計算しながら走れるのでしょうね。
事前にゴールが知らされていなければ、42.195㎞を完走することすら、たぶん無理でしょう。
目標は、目的達成のための「現在のゴール」なのだと思います。
「明確に目的を意識する」ことが出来なかったとき、私は困っていました。
例えれば、ちょうど、乗っていた船が太平洋のど真ん中で沈み、命からがら板切れにつかまっているような状態であったのです。
もちろん、私の目的は、
「助かりたい」
であったのでした、目標を具体的に意識せず対象に当たったがために、太平洋のど真ん中で板につかまって漂流することになっていたのでした。
右に行くのか、左に行くのかわからないでは、ただ流れに身を任せて、漂うしかありません。
絶望感と無力感が襲ってくるでしょう。
板切れに、しがみついた私は、「助かりたい」ならば、目標を設定するしかないのでした。
目標の機能は方向性を示すこと、だけではありません。
目標には目標固有の機能が在ります。
京都から東京まで行くのにはさまざまな方法が思い浮かびます。
歩く、走る、車、バス、電車、新幹線、飛行機。
その他にも東京まで行く手段は無限にあるかもしれません。
しかし、最短最速で行く方々は限られます。
例えば、この中だと飛行機か新幹線が速いでしょうか。
どうして、私は飛行機か新幹線を選んだのでしょうか?
それは、目標が設定されているからです。
ところが、東京の渋谷のハチ公前に目標が設定されていても、早い便があるからといって、仙台行きや札幌行きに乗る人が少なからずいます。
また、うまく東京行きには乗ったものの、次の山手線に乗ったまま、渋谷で降りるのを忘れてぐるぐると同じところをまわるひとがいます。
ひどいひとだと、東北新幹線に乗り換えています。
目標とは、いわば、「乗り物を選択する基準」です。
目標にしたがって、ときとところと力をうまく選択して、短期間でそれに乗り切ることを「戦略」といっても過言ではないかもしれませんね。
クラウゼヴィッツの『戦争論』に倣えば、
戦術とは「戦争を構成する複数の戦闘を個々に遂行する活動」であり、
戦略とは「複数の戦闘を戦争目標に結合しまとめる活動である」と定義されますね。
言うなれば「目標の設定」とは、方針決定の問題です。
さまざまな無限の手段から最善手を選択する。
これが「方法論」なのかもしれませんね。
私が、常に目標を意識していたのならば、手段の選択は簡単だったのかもしれません。
しかし、逆に、目標の設定が曖昧だった私は、手段を決定出来なかったのでしょう。
目的の第2の機能である「手段を選択する基準」については、また、不定期更新の際に描きたいと思います。
今からでも、病気によって「失われた10年」に拘泥することなく、確りと人生を歩みたいなあ、と思います。
明日は、また、3月11日ですね。
静かに、しかし、ちゃんとかなしみから生まれるやさしさを忘れずに、また、今年も3月11日を考えたいと思います。