おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

のちに誤用されるかもしれないあらゆるリスクを伴いながら-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑲-

2024-03-26 06:45:45 | 日記
ディストピアを描いた作品は、今や、どこにでもあり、ほとんど陳腐と言って良いものになったのかもしれない。

ディストピア作品のジャンルは産業革命が始まるとともに、急激な広がりを見せ始め、ロボットが登場すると、さらに爆発的に拡大したように思う。

そして、私が思うに、ディストピア作品は、
現代世界の問題が解決策を圧倒し、過去よりも未来の状況が厳しく見え始めたとき、に、大衆の心を捉えてきたし、捉えるものなのであろう。

ディストピア作品は、さまざまな年齢層の人物や、異なるヒーローと悪者を扱い、さまざまな時代(過去、現在、特に未来)を舞台に、いろいろなジャンルにわたって描かれている。

また、種々のテーマ(戦争、全体主義政府、革命、無政府状態、投獄、監視、精神的拷問、自然災害、階級闘争、社会の崩壊、文化の衰退、人間性の喪失など、特に最近のテーマとしては新たなテクノロジーの影響)が取り上げられ、作品の完成度もさまざまである。

ジョージ・オーウェル(1903~1950年)は現代のディストピアに直結する小説『1984年』を1947年に著した。

つまり、オーウェルは1947年に、当時はかなり新しい発明であったテレビが、全体主義者による監視のための絶大な力を持ったツールになると予測しているのである。

オーウェルが『1984年』で描いたディストピアは、
ビックブラザーと思想警察が、テレスクリーンと呼ばれる双方向テレビを通して、市民のあらゆる動きを監視し、会話の一言一句を隠しマイクで聞いている。

至るところに自分の子どもをも含むのであるが、密告者がいて、あらゆる思考、感情、人間関係について政府に密告する。

『1984年』で描かれる世界は、鏡の世界であるため、何もかもが見かけとは反対になる。

例えば、平和省は延々と戦争を続け、真理省は党の偽りのプロパガンダとつじつまが合うように、過去の記録を改竄し、愛情省は拷問を行っている。

また、党の方針に従わなければ、「思想犯罪」となる。

そこで、善良な市民は、「メモリーホール」と呼ばれる深い穴に危険で不都合な真実を投げ入れる。

しかし、党の正当性に反対する者は「非実在者」として歴史から抹殺されたり、真実が偽りで偽りが真実であったりする部分は、『1984年』というディストピア作品の中だけではなく、私たちが今生きている現実の世界にも在る部分ではないだろうか。

実際、『1984年』のなかで、ビックブラザーが人の心を読み取り、思考を矯正する手段は、独裁者になろうとする者が今日利用できる監視技術と比べれば、悲しいほど未熟なものである。

ところで、
エドワード・スノーデンが、指名手配犯であると同時に国際的な英雄になったのは、彼が内部告発をしたときである。

スノーデンは、広範囲による、徹底した、ほぼ違法となる電子的監視プログラムにアメリカ政府が関わっていることを証明する大量のデータを暴露したのである。

スノーデンの暴露文書により、アメリカ政府が強大な監視機関となったこと、アメリカ国民に嘘をついてきたこと、CIAが思想警察とさほど違わない手法と精神の下に、精神的・肉体的拷問を行っていたことが明らかになってしまったのである。

オーウェルは『1984年』で、鋭く目を光らせる独裁者のビック・ブラザーが、あらゆる部屋に双方向カメラを設置して、党がすべてを監視して市民の自立的な活動すべてを封じられるようにした。

しかし、オーウェルは、最悪の悪夢として、アメリカ人の日常生活では当たり前になってしまった広範なプライバシーの侵害を想像することは出来なかった。

政府機関や企業が、私たちの一挙手一投足を監視し、記録し、分析していて、私たちよりもはるかに私たちのことを知っている、という未来も、そう遠くのことではないのかもしれない。

特に、テロ防止などの大義名分の下にあってても、プライバシーや民主的な抑制の方が尊重されると、誰が保証できるのだろうか。

『1984年』の内容が大きく見劣りするような、実は例を私たちは知っている。

ユダヤ人に関する大量データ収集を可能にし、のちの非常に多くのユダヤ人の追放と処分を可能にしたIBMの(コンピューターの前身である)当時最新のパンチカード/カード分類技術と、その技術をIBMがナチスに提供する意思を持っていたという事実である。

現に、IBMにその技術があっても、IBMがナチスに提供する意思がなければ、ホロコーストはこれほど残酷に速く行われなかったであろう。

当時よりもそのようなことに利用される可能性のある技術が進歩した今の世界で、同じようなことが、絶対に起こらない、と言うことの方が難しいのかもしれない。

1947年に『1984年』が出版された直後に、CCTV(閉回路テレビ)アメリカで初めて使用された。

NSAやCCTVのプライバシー介入の度合はどんなディストピア作品よりも怖いようにすら感じるが、それでも、ビック・テックやその他のサイバー企業による、全面的な介入を受けていることに比べたら大したことが無いのかもしれない。

なぜなら、私たちはビックテックらに対し、進んで失うプライバシーという対価を払って、それらの企業の価値を高めているからである。

私たちが知る以上に、私たちのことをそれらの企業たちは知っているのである。

情報保管が安価になり、のちに誤用されるかもしれないあらゆるリスクを伴いつつ、こうしたすべての情報が永遠に利用できるようになっている。

現在、寛大に受け入れられている趣味、交際、政治的信念、性的指向、民族的背景は、将来、恥、恐喝、弾圧、投獄の原因となる恐れすらあることを歴史は示し続けている。

確かに、インターネットによるプライバシーへの介入は、無意識のうちに急速に広がり、不満なく受け入れられてきた。

それによって、かつてない水準の便利さが、私たちにもたらされたからである。

ワンクリックで品物を購入したり、図書館に行かずに世界中の知識を調べたり、ソーシャルネットワークで世界中の人と友達になったり、家に居ながらにして銀行と取り引きしたり、車にいながらにして地図も広げずにいつ右折するか優しい声で教えてもらったりするのは、なんと素晴らしいことであろうか。

しかし、
私たちが取るすべての行動によって、何らかの情報が明らかになり、プライバシーが侵害され、外部から私たちは操られるようになる可能性があるのである。

今のところ、こうした監視ツールは、主に営利目的で使われているが、それを簡単に政府の武器に変えられることは、これまでの独裁政権で、すでに十分に示されているといえよう。

今、多くの人々が、1984年』を手に取ってみたり、改めて読み直したりしているのは、当然のことなのかもしれない。

私も、その多くの人々の中のひとりであることは、いうまでもない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

バタバタしており、不定期更新を経ず、日記に戻ってきました^_^;

なかなか、新しい環境に慣れずペースがまだつかめていません^_^;

こんな私ですが、これからも、また、よろしくお願いいたします( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。