おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

DSM-5が「バイブル」になってしまうまで②-DSM-1からDSM-3まで-

2024-07-23 07:27:36 | 日記
第二次世界大戦後、精神医学は、確かに発展した。

皮肉なことに、戦時に意欲的に動いたため、戦後、精神医学は、市民生活でも卓越した地位を得ることが出来たのである。

アメリカでは、どの医学校にも精神科の学科がはじめて設立され、ほとんどの総合病院でも精神科が新しく開かれた。

有力なモデルになったのは精神分析であり、中心は治療であり、雰囲気は熱心で専門家としての自信にあふれていたようである。

しかし、「精神科の診断」はこのルネッサンスの恵みを受けなかったのである。

周囲の興奮をよそに、「精神科の診断」は、退屈で、活気もない沈滞した分野として、全く顧みられなかったのである。

1952年に発表されたDSM-1も、1968年に発表されたDSM-2も、読まれず、好まれず、使われもしなかった。

しかし、1970年代はじめに突然、診断は精神医学を転覆させかねない懸念材料だ、と、暴かれてしまったのである。

精神医学が、やっと、れっきとした医学分野である、というお墨付きをもらったばかりだというのに、ふたつの文書が広く出回り、精神医学の存立をおびやかしたのである。

ひとつは、イギリスとアメリカの共同研究により、たとえ、同じビデオテープで同じ患者を評価する場合であっても、大西洋の東側と西側で精神科の診断が、大きく異なることを示すものである。

ふたつめは、心理学者が、精神科医を容易く不正確な診断に誘導できるのみならず、まったく適切でない治療にも誘導できることを示すものである。

さらに、この指摘をした心理学者が教える大学院生数人は、別々の救急救命室へ行き、幻聴が聞こえる、と訴えたところ、その院生たちはみな、ただちに、精神科病棟へと移され、その後は完全に正常に振る舞ったにもかかわらず、数週間から数ヶ月も入院させられた事実が、白日の下に晒されたのである。

その結果、精神科医は信頼できない時代遅れで、信用ならない、とされ、ちょうどその頃、全医学分野を最新化しつつあった研究革命に加わる資格が無いかのように見られたのである。

精神医学には、救いが、なんとしても必要な状況であった。

このようなとき、ひとりの人物が、職全体を救うなどということは、稀有なことであるが、ボブ・スピッツァーのお陰で、精神医学は存在意義を失うことや、戦前のような立場へ逆戻りすることを免れたのである。

当時、コロンビア大学の若手研究者であったボブ・スピッツァーは、精神科の診断を系統を信頼できるものにする仕事に着手していた。

彼は、研究診断基準のチェックリストを作った先駆者のひとりであった。

研究診断基準のチェックリストは、基準に基づいて症状を疾患に分類する方法であり、研究に参加した判定者による診断の一致率を高めたのである。

また、各症状の有無を判定するために行う質問の順序や言い回しを統一することによって、定型アンケートに近い方法も開発した。

スピッツァーの方法を用いた、「初期」の結果は確かに有効であった。

同じ質問を行い、症状の数から診断へと進む際に同じ交通規制を用いれば、かなり一致した判定が得られたのである。

これにより、国際共同研究が提起した難題に対処できた。

さらに、信頼できる診断システムのおかげで、分子生物学、遺伝学、脳画像化技術、多変量統計、偽薬(プラシーボ)を用いた臨床試験などの強力な新しい武器を精神医学の研究でも利用できるだけの資金が得られたのである。

にわかに、精神医学の研究は、医学研究の末席から寵児になった。

NIMH(アメリカ国立精神保健研究所)の予算は急増し、アメリカのほとんどの医学校では、精神科が学科の2番目に大きな研究資金源になったのである。

研究資金において、内科を少し下回るだけで、他の基礎科学や臨床系の学科を大きく引き離すようになると、製薬企業もまた、やはり、多額の研究資金をつぎ込み始め、儲けの大きな精神科の新薬を開発しようと競り合ったのである。

確かに、スピッツァーは、精神医学の研究活動の基礎を築いた。

しかし、スピッツァーは、それだけでは満足しなかったのである。

スピッツァーは、
「基準に基づく診断法が、研究でこれほど有効であるのならば、日々の臨床医療にも用いてみてはどうだろう」
という思いを抱いたのである。

これは、言ってしまえば、とてつもなく大胆不敵な野心であったのだが、アメリカ精神医学会は、それを実現する機会を提供したのである。

1975年、スピッツァーは、DSM-3の作成委員長に任じられ、目標を設定し、方法を決め、共同研究者を選ぶなど、幅広い権限を与えられた。

スピッツァーの目標は、
「精神科の医療を、世界中のあらゆる場所で、精神保健のあらゆる分野で熱心に行われるものへと変える」
ことであった。

DSM-3は、診断の混乱を終わらせ、より的確で目的に適った治療を選ぶための必須条件である慎重な診断に注意を向けさせ、臨床研究と臨床精神医学の間に待望の架け橋をわたす「はず」であった。

しかし、DSM-3作成には大きな欠陥が在った。

当時は、判断の拠り所として利用できるだけの科学的な証拠が、ごく限られていたのである。

どの疾患をマニュアルに載せ、それぞれの疾患を記述するのにどの症状を選ぶべきなのかについて、スピッツァーは、各疾患の専門家を集め、基準を定義する最善の方法を見つけ出すことで、この大きな欠陥を補おうとしたのである。

確かに、当時はこれが診断システムを開発するためには、最善の方法であったのだろう。

驚いたことに、この方法は「とりあえず」はうまくいき、効果を上げ、役に立ったのである。

しかし、診断システムを開発するための方法としては、あらゆる先入観の影響を受けやすかった。

スピッツァーの同僚として、基準の作成に当たった人たちは、大部分が、精神医学の急進派であったのである。

彼ら/彼女らは、台頭しつつあった生物学好きの研究者たちから成る親密な集団であり、自分たちは、この分野を他の医学に近づけて、かつて権勢を誇った精神分析や社会的モデルから遠ざける先鋒だ、と考えているフシがあった。

DSM-3は、病因学の理論とは無縁であり、治療の生物学的、心理学的、社会的モデルのどれにも応用できると宣伝された。

これは、字面ではその通りでも、実際は違っていたのである。

基準が表面的な症状に基づいていて、原因や治療について、何も触れていないことは、事実であった。

しかし、表面的な症状に基づく方法は、精神疾患の生物学的、医学的モデルと、とても、うまく噛み合い、それを大きく発展させたのである。

もっと推論に頼った心理的概念や社会的背景を拒んだことは、これらの他のモデルには、不利に働き、言うなれば、精神医学に還元主義の拘束衣を着せることになってしまったのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

DSM-5が「バイブル」になってしまうまで①-ピネルからクレペリン、フロイトを経てDSM登場へ-

2024-07-22 07:38:38 | 日記
近代科学に比べると、精神医学にルネサンスと啓蒙が訪れたのは、19世紀初め、と、思いのほか遅かった。

テーマがあまりにも複雑であったためであろう。

また、天文学や生物学で一般法則を他見つけ出す方が、精神医学で明確な発症機構を見つけ出すよりも早かったのである。

さらに、近代科学は一般理論化に適したテーマをはじめから賢明に選んだともいえるかもしれない。

さて、ピネルが近代精神医学を創始したあと、独創性に富んだ精神疾患の分類が続出した。

19世紀の後半には、精神疾患のさまざまな分類法が次々に提案されたのである。

初期のシステムはフランスで作られたが、科学の重心はドイツへと移り、クレペリンによる統合失調症と双極性障害の決定的な区別に結実した。

クレペリンの兄が優秀な動物学者であったことは、幸運な偶然であったことはことは間違いないであろう。

そのおかげで、クレペリン自身の観察手腕は磨かれ、また、兄弟での東南アジアの調査旅行の資金をなんとか工面するべく、クレペリンが頑張ったため、精神医学の歴史を変わったのである。

実に、クレペリンがそのようにして頑張って書いた教科書は大好評を博して、際立った影響力を及ぼし、なんとその目次は当時のDSMとなり、のちには、私たちのDSMの基礎となったのである。

しかし、クレペリンには大きな弱点もあったのである。

それは、彼が大学病院の医師であり、外来患者をまったく診なかったことである。

その精神医学の概念は、長期の入院が必要なほどの重症患者から生み出されており、また、そこに限定されたものであって、現在、診断される人々のほとんどにとっては、クレペリンの分類に適切な場所は設けられていなかった。

そこへ、フロイトが現れて、この欠陥を補うという幸運が重なるのである。

フロイトと聞いたとき、世間が連想するのは、治療であって診断ではないかもしれない。

しかし、クレペリンが入院患者のためにつぎ込んだ頑張りに匹敵する努力を、フロイトは、外来患者の分類を生み出すためにつぎ込んだ。

ちなみに、フロイトの努力も、彼がひどくお金に困っていたからである。

フロイトは、結婚して家庭を作るためのお金を工面したくて、分類学者になった側面もあるのである。

駆け出しの頃のフロイトは、とても有望な神経科学者で、脳の働きにおける神経細胞のシナプスの重要性を世に先駆けて理解したひとりだった。

しかし、大学で、働き口を見つけられなかったので、やむなく研究室を出て、神経科の開業医になった。

フロイトはかなり落ち込んだようだが、科学者として評価されるという当初の野心を決して捨ててはいなかったのである。

そこで、フロイトは、研究対象を、プレパラートから人々へ切り替えることにした。

じきに、フロイトは、研究室のダーウィンとなり、
「無意識の生まれつきの本能が、どのようにして、私たちの人となりや感情や思考や行動に中心的役割を演じているか」
ということについて、鋭い臨床観察を通じて、驚くほど正確に推測したのである。

現代の認知科学や脳画像化技術は、フロイトの最も深遠な洞察を強力に裏付けている。

確かに、他の推測には、今となっては突飛で珍妙に聞こえるものが在ることは事実ではある。

さらに、フロイトは、今やアタリマエのようになっている、外来患者専門の精神科医というこれまでにない職業をはじめ、新たな患者たちの分類法も示した。

当時、軽度の症状は、当時は神経科医の縄張りであり、神経科医はそれらの症状が、神経の病気によって引き起こされると考えて、「神経症」と名付けた。

フロイトは、精神分析、という、まったく新しい分野を育てながら、「神経症」は心理的葛藤によるものだと、解釈し直した。

つまり、「神経症」は、脳内の生理に左右されるが、単純な脳疾患ではないと解釈し直したのである。

そして、フロイトは、そこから神経症の分類に取りかかった。

悲嘆とうつ状態を区別し、パニック障害と恐怖症、全般性不安を区別し、強迫性障害と性的障害とパーソナリティー障害について記述した。

フロイトは、熟練の神経科医であり、精神医学を研究しはじめてからまだ数ヶ月しか経っていなかった。

しかし、矛盾しているのだが、フロイトは、神経科医の大部分からは無視されたのにも関わらず、 やがて精神科医から熱狂的に崇拝されるようになったのである。

初期の精神科医は、少数で入院患者のいる精神科病院でのみ働いていて「エイリアニスト(疎外者を診る者)」という肩書きまで付けられていたのだが、フロイトののち、すべてが速やかに変わったのである。

精神科医の主たる専門は、重症の入院患者から、さほど重症でない外来患者へと移った。

精神科医は、次々に大病院を離れて、外来患者のための診療所を開いた。

1917年には、開業医は精神科医の約10%に過ぎなかったが、現在では大部分を占めている。

アメリカ国内の精神分析医の数も、ナチスから逃れることが出来た著名な亡命者と、心理学と社会福祉の新たな専門職の発展が生み出した、精神保健の臨床医が加わることで増えた。

セラピストたちは急増し、精神分析から派生した、新しいゆるやかな診断法を用いて、数はずっと多いが、症状はずっと軽い外来患者を治療したのである。

同時に、皮肉なことだが、ふたつの世界大戦が精神医学の領分を広げ、表舞台に迎え入れた。

精神病は、戦争遂行の大きな妨げになる、と見なされたからである。

精神病は、兵役免除の理由にされ、戦傷病者のなかにもよく見られ、帰還兵の長期にわたる職業不能の原因にもなった。

既存の分類では、うまくいかないことが増えたことから、システムを改良し、兵士を常に臨戦態勢に置く方法を見つけるために、精神科医が集められたのである。

その多くは高級軍人にまで昇進し、なかには、将軍になった者もいたため、兵士の徴募や確保、戦傷病者の治療にかかわる決断に対して、きわめて大きな影響力を持った。

陸軍が、診断の広範な新分類を作り、退役軍人庁がそれを修正し、アメリカ精神医学会が、さらに、修正をして、
『精神の疾患の診断と統計マニュアル』第一版として、1952年に、発表したのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

マーラーの交響曲第5番と「死」というテーマ-20世紀初頭の時代精神をマーラーの裡にみるとき-

2024-07-21 07:09:34 | 日記
グスタフ・マーラーの第5交響曲の第4楽章といえば、ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」で用いられたことでも、有名である。

そこでは、決してかなわぬ美への憧憬として、ほとんど絶望的なまでに甘美な音楽として第5番4楽章は使われていたように思う。

ただ、マーラーの第5番4楽章に、「ヴェニスに死す」よりも
、その原作者であるトーマス・マンの代表作「魔の山」(の末尾)を想い起こさせるものがあると思うのは、私だけであろうか。

マーラーは、死の間際まで「第5交響曲」の改訂を行っていた。

マーラーは、
「死によって終わる生に、一体何の意味があるのか」
という、自らが第2交響曲、後には「大地の歌」などで対峙した虚無的問いかけに、「第5交響曲」によって、
「生には意味があるのだ」
と決然と答え、または、そのように信じようとしていたように思う。

彼は、その後の人生でも、自分の出発点を確認するかのように、改訂という作業を通じて「第5交響曲」に立ち戻ってきた。

最後の改訂は、1911年であり、それは彼の死の年であり、ちょうど、「第10交響曲」を作曲していた頃である。

残念なことに「第10交響曲」は未完で残されているが、私たちは、その遺稿の最終楽章の中に、第5番第4楽章の引用を、あるいは、残響を聴くことが出来るであろう。

さて、ヨーロッパ文化は、「人間」という言葉に、必ず、「やがて死すべき」という形容詞をつけることを忘れなかったギリシア人から始まり、中世の「死を忘れることなかれ(メメント・モリ)」という標語や、モンテーニュの「エセー」に代表される死の省察、あるいは、土俗化したキリスト教の殉教崇拝、というように死の影が蔓延しているのである。

例えば、ルネッサンスの美術作品が端的に示すように、美や若さ、といったものをヨーロッパ人は求めてやまないのは、美術史家W・ペイターが指摘するように、
「それがすぐに失われて、やがては死によって奪い去られることがわかっているから」なのである。

そのようにして至り着いた19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ世界は、頽廃と懶惰を極めていたようである。

ワイルドは耽美主義を標榜し、ニーチェは「神は死んだ」と叫び、ショーペンハウアーは「この世界は我々の心が勝手に作り出した幻影に過ぎない」と説いていた。

虚無感と刹那主義が社会を覆い、世界を収奪した人々はいよいよ戦争の準備を始めていた。

そして、小声ながらではあるが、西洋の没落が囁かれ始めていたのである。

このような背景の中に、マーラーは、立っていた。

いわば最も精鋭な形で、マーラーというひとりの人間のなかに、20世紀初頭の時代精神、すなわち、躁と鬱、葬送と祝祭、絶望と歓喜、諧謔と無垢な喜びとが宿っていたのである。

マーラーは、自らがヨーロッパの歴史と伝統の申し子であることを自覚し、死と頽廃と没落の瘴気を胸一杯に、吸い込んでいたからこそ、
「やがて、私の時代が来る」
と言えたのであろう。

マーラーの交響曲第5番は、5
つの楽章からなっている。

この交響曲では、ベートーヴェンの第5交響曲、つまり、
「過酷な運命とそれに対する勝利」というテーマとの親近性もあり、事実、1楽章では運命の動機が引用されているのだが、ベートーヴェンよりも、もっと個人的な、内面的な要素が扱われているのである。

簡単に言ってしまうと、マーラーの交響曲第5番では、絶望、もしくはニヒリズムという、死に至る病におかされた人間が、苦悩を経て、やがて、マーラー自身も手に入れた幸福、つまり妻アルマとの愛によって快復して、ついには生を謳歌するに至るドラマなのである。

妻アルマも
「第5交響曲で新しいマーラーが始まります。
(中略)......彼はもはやかなしまず、嘆いたりせず、立ち向かおうとするのです。
この曲は空想ではなく、現実そのものなのです」
と述べている。

第1楽章は、トランペットの凛烈なファンファーレで始まる葬送交響曲である。

葬送交響曲ではあるが、特定の誰かの葬列が考えられているわけでもなく、極端に言えば、私たちの生そのものの葬送の行進をマーラーは、考えていたのかもしれない。

私たちは、近づいてくる死に怯え、嘆いたりもする。

しかし、葬列は静かに、しかし確実に進んでゆくのである。

第2楽章では、音楽が荒れ狂っている。

「生が、死によって終わる」事実に、ひとたびとらわれると、人は虚無感に襲われるものである。

宗教や刹那主義に逃げても、死から逃れることは出来ない。

死は万能なのであり、荒れ狂う死の猛威のなかで、かつては、少なくとも、まだしも、価値があった、と思われていた事物ですらも、もはや意味を失い、私たちは、途方に暮れる。

ペストが猛威をふるった中世ヨーロッパでは、「死の舞踏」というテーマが、絵画をはじめとした芸術で好まれた。

そのなかの骸骨たちは、この上ない喜びの最中にも、死はすぐ隣に在ることを、私たちに教えてくれるのだが、第3楽章は、まさしく「死の舞踏」であるといえるかもしれない。

あるいは、マーラー独特のイメージを想起するならば、彼が未完の第10交響曲の第3楽章に予定していた「煉獄」ということばをあてはめることも出来るかもしれない。

要するに、この世の楽しみや喜びが、生み出される側から焼き尽くされ、滅ぼされるようなイメージである。

実際に、この曲は、ウィンナワルツ風の、一見楽しげな雰囲気で始まるが、すぐに奇怪な旋律が乱入し、甚だしい場合には荒れ狂ってしまうのである。

この曲について、マーラーは、
「次の瞬間には、破滅する運命の世界を絶えず新たに生み出す混沌」
と語っていたようである。

第4楽章は、弦楽とハープのみで演奏される。

この曲は、愛する妻アルマへの愛の告白である、とする説が多く、私もそのように思いたい。

この曲を最初に清書したのがアルマであるから、やはり妻アルマに対する愛の告白であろう。

死と絶望の、まさしくそのさなかから、愛そのものが、虚無の宇宙を満たすべく、玲瓏と響き始めるのである。

第5楽章は、第4楽章と連続しており、ホルンの伸びやかな音で始まり、全体を通して溌剌として喜びに満ちている。

光が差し込むように始まり、今や、苦悩と不安と懐疑の夜は去り、日輪は赫奕と昇り、世界は喜びに包まれる。

この最終楽章は、
「生は輝きに満ちている」
と、マーラーが自分自身に、そして私たちに言い聞かせるかのように、力強く、断言的に「勝利の喜び」のフィナーレを迎える。

この曲は、そのように終わるのである。

まるで、マーラーが、
「死は勝利を収めるだろうが、私の音楽のなかで、愛は永遠に生き続けるのだ」
と言っているようである。

死神が馬車を導くのは真実であるが、生もまた、馬車を導くのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

暑い日が続きますが、体調管理に気をつけたいですね。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

シューベルトとマーラーの「死と乙女」から

2024-07-20 06:53:36 | 日記
フランツ・シューベルトは、美しい旋律を保つ歌曲の数々によって有名であるが、そこで多く歌われるのは、この世に居場所がない青年特有の精神であり、失意のうちに世を去る哀しみであり、死に平安を見出さざるを得ない心の揺らぎである。

シューベルトは、歌曲「死と乙女」を作曲した際、
死神を拒絶する乙女の
「イヤよ!こっちに来ないで!私はまだ若いのだから!」
という台詞に対し、
近づいてゆく死神の
「乙女よ、怖がることはない。
私がお前にもたらすのは、平安なのだよ」
という台詞に、恐ろしくも甘美な旋律を与えたのである。

この死神に付された旋律こそが、第2楽章の主題であり、弦楽四重奏第14番が「死と乙女」と呼ばれる所以である。

シューベルトは、夭折した天才であった。
特に後半は、常に死を意識せざるを得なかったであろう。

シューベルトのみならず、人間は、
「人はみな、しかも必ず死ぬ」
という簡単明瞭であることを、なかなかわからない、否、わかりたくない。

しかし、シューベルトのような芸術家と呼ばれる人間は、単に技術に長けた人間ではない。

芸術家たちは、
「自分はやがて死ぬ」
という切実で狂おしく悩ましい問題を昇華しようともがき、死など忘却して生きている人間の喉元に、
「あなたもやがて死ぬ」
という現実を鋭利な作品を以て突きつけずにはいられない熱情を秘めているようである。

シューベルトが、「死と乙女」の旋律を中心に、全楽曲が短調という異様ともいえる弦楽四重奏を書いたのは、1824年頃である。

それから3年後、シューベルトが敬愛する大作曲家ベートーヴェンが亡くなった。

ベートーヴェンの葬儀に参加した後、友人たちと飲みに行ったシューベルトは、酔いつぶれ、
「次に死ぬ者のために乾杯!」
と叫んだ。

シューベルトが亡くなったのは、その翌年のことであった。
......。

それから80年ほどの時を経て、ある作曲家にして指揮者が、シューベルトの「死と乙女」に感動する。

彼もまた、「人はやがて死ぬ、必ず死ぬ」という切実で狂おしく悩ましい問題を昇華しようと試みていたからである。

そして、
「これは、弦楽合奏に編曲すべきだ」
と決意する。

このようにして、グスタフ・マーラーは、単純に演奏する人数を増やすのではなくて、恐るべき力をもって迫ってくる死と、しかしながら、今、実際に私たちが生きているという喜び、これらが絶え間なく交錯する「死と乙女」の世界を、きわめて細かい楽想・演奏指示、弱音器の使用指示を加えることによって、原曲よりも、はるかにドラマチックなものにしたのである。

「死」という誰もが不可避な問題に向かい合い、向かい合う中で生じる切実で、狂おしく、悩ましい感情を作品に昇華しようとした、ふたりの偉大な作曲家の心が、時空を超えて感応して生まれた合作、それこそが、弦楽合奏版「死と乙女」なのである。

この曲は、4楽章構成であるが、第3楽章は、第4楽章への導入的性格が強いため、実質的には3部構成である。

つまり、激しい情念が渦巻く第1楽章、「死」の変奏曲である第2楽章、死へと追い立てられてゆく、第3、第4楽章という構成である。

第1楽章は、激しく悲劇的な第一主題で始まり、不安かつ不穏な音楽が超自然的な推進力をもって展開されてゆく。
第2主題は対照的に穏やかでシューベルトらしい歌曲を思わせる優美な旋律である。

音楽は、このふたつの主題が激しくせめぎ合いながら展開してゆく。

第2楽章は、弦楽合奏版「死と乙女」の中心である。

死神の
「私の腕の中で穏やかに眠りなさい」
という旋律を主題とする変奏曲であるが、変奏されてゆく中で、
死に怯える乙女の心や、逃れられない死という厳しい現実、苦悩から逃避して見る美しい白昼夢など、死をめぐる人の心の動きが、余すところなく描かれていく。

そして、最後には死神の腕の中で、安らかに、眠るのである。

第3楽章のスケルツォは、目を覚まさせるような激しい3拍子のリズムで始まり、死は優しくなどなく、苦しくつらいものだということを思い出させる。

中間部は夢を見るように優美であるが、それもまた、冒頭の激しい音楽で断ち切られる。

第4楽章は、何かに追い立てられるように終始気ぜわしく、感情の起伏もきわめて激しい。

破滅へと足を急がせるような音楽は突如として得体のしれないような高揚感に包まれ、あるいは、悪魔的な展開を見せもする。

そして、音楽はほとんど狂乱のうちに、最協奏で終わりを告げる。

この曲を聴くとき、「死」 を見つめていながら、より人間の「生」について触れることが出来るように感じるのは、私だけであろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

毎日、暑いですね^_^;

体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は、尊敬する著者の先生方にやっとサインをもらえた本です(*^^*)

昨日の日記に出てきた、代官山のお洒落すぎる本屋さんで、著者の先生方のトークイベントがあり、行ってきたのです!!

その際に、サインを頂きました( ^_^)
感動しました(*^^*)

認知バイアスについて②-「外れ値」を恐れ、アタリマエのリスクを軽視するバイアスから-

2024-07-19 06:51:48 | 日記
人間はなぜ、同じような間違いを繰り返してしまうのだろうか。

誤った政治的決断とその背景にある社会が抱った幻想に関する体系的な研究の歴史も、はるか昔に遡る。

トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争で戦った両陣営が犯した選択の誤りを、きわめて詳しく分析することによって、その歴史を切り拓いた。

彼には先見の明があり、こうした特定の戦争において、何を誤ったのか、を深く理解することによって、その後のあらゆる戦争で繰り返し失敗する可能性がある事柄を明らかに出来ると考えていた。

例えば、ロシアがウクライナ侵攻など、現在起こっていることについて理解するために、最も良い道標となるのは、アテネが約2500年前にシチリアに侵攻したときに、まさに同じ過ちをどのように犯したのかを研究することである。

また、アリストテレスはもっと違った経験的手法を取った。

ギリシャにある158の都市国家の憲法を集め、そこに書かれているさまざまな統治ルールの中のどのような要因が最も成功、あるいは失敗に繋がりやすいかを見極めたのである。

社会の過ちを明らかにする近代の取り組みは、ローマ帝国の衰亡に関するエドワード・ギボンの見事な歴史的分析から始まり、ごく最近になって、社会の成功と崩壊の地理的決定要因に関するジャレド・ダイアモンドの卓越した分析によって、そのような取り組みは頂点に達したように思われる。

確かに、人間の行動の動機を理解することは、とても難しい。

それは、人間が、自らが採る自滅的な行動に対して都合のよい言い訳をする能力に非常なまでに長けているからに他ならないだろう。

人間の行動の大部分は自動的に行われ、持って生まれた無意識の本能と、ある程度生来のものである気質に対しては、意識による統制がほとんど及ばない。

人間はたいていの場合、自らの経験とシナプスが指示していたことを行っており、何故そうした行動をとっているのかを頭で理解しているわけではない。

つまり、人間は、最初からそうした行動を自発的に選択して行い、自分が行っていることを本当に「わかっているかのような」もっともらしい物語を後から作り上げている。

私たちの大切な「意識」はたいてい、プラトンのいう馭者に例えるのなら、敏腕な馭者ではなく、言うなれば、おとなしい語り手であるため、心のなかにいる暴れ馬が、無頓着に馬車を引く理由や、その行き先について、納得のいく正当化をしようとしているのである。

したがって、社会として、人間をうまく制御する方法のひとつに、人間を突き動かす無意識の力について考えてみることが、挙げられるだろう。

さて、コンピューターは、統計を扱うことに優れているが、人間の脳はそうはいかないのかもしれない。

コンピューターは、数値の処理を好むが、人間は概して物語を創作することが好きである。

確かに、人間は、5000年にわたって、数学的観点からも世界を研究してきたが、統計を使い始めたのは、ほんの500年ほど前からであり、今でも、多くの人は、日々の決断に統計を応用することにはいまだに抵抗があるようである。

私たちは、ライオンやテロリストに襲われるといった、統計上では「外れ値」と言われる、滅多に起こらない大事件を酷く恐れる。

一方で、交通事故、院内感染、熱中症、薬物の過剰摂取、など、もっと当たり前に起こる、しかも命取りとなるようなリスクを極端に(→実は、自分で思うよりもはるかに)過小評価しているのである。

例えば、ほとんどの有権者は、さまざまな経済政策が持つ潜在的価値を、示されている数字の意味ではなく、政策を提案している人の好き嫌いで評価しており、
医師は、何万例と積み上げられた結果ではなく、過去数例の結果に基づいて判断を下すことがあまりに多く、
さらに、一般の人々は、気候変動のリスクを、過去の傾向や今後の可能性について、科学者が作成した統計モデルではなく、最近の天気に基づいて判断してしまう傾向がある。

世界は、ますます、複雑になっているようである。

そのような中、ビッグデータに基づいて統計プログラムを実行するコンピューターを使わずに理性的な判断をすることは、ますます、難しくなっていることは、確かであろう。

しかし、統計上の真実よりも、物語的な真実へ向かう、あまりにも人間らしい性質が、多くの人々に物語的な嘘を、ときには、鵜吞みにさせ、最悪の決断に至らせてしまうのである。

過ちは、人の常かもしれないし、その理由を突き止めることは良い気分をもたらさないかもしれない、しかし、過去に目をつむる者は、現在にも盲目となり、未来も同じ過ちを犯すだろう。

過ちの背景のひとつであり、これまでと、これからも私たちを支配してきた認知バイアスについつて考えてゆくことは、やはり、同じ過ちを犯さないためのひとつの方法では、ないだろか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

毎日、暑いですね^_^;

体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*昨日は、代官山の蔦屋書店に行ってきました( ^_^)

代官山はお洒落な街すぎて、本屋さんもお洒落すぎて、戸惑いすぎて、もはや、笑うしかありませんでした^_^;
→→
帰り道、急に、いつもの神保町の本屋さんが、無性に懐かしくなりました(*^^*)