おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

非経済的活動のちから-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑮-

2024-03-18 06:50:30 | 日記
シューマンは、モーツアルトの音楽を
「どんなに暗い世であっても、この世に歓びを振りまかずにはいられない天使のいたずら」
とまで呼んでいたのだが、
モーツアルトにも数は少ないものの、翳りと哀しみに満ちた曲が在る。

1778年7月3日、パリ滞在中のモーツアルトは友人に
「私と一緒に泣いて下さい。
今日は、私の人生で最も悲しい日です。」
と始まる手紙を書き送っている。

モーツアルトの時代、作曲者は近代的な意味での芸術家ではまだなく、貴族や教会というパトロンの庇護のもと、彼ら/彼女らの求めに応じて作曲することが多かったようである。

したがって、暗く悲しい曲ではなくて、パトロンの宴を盛り上げるに相応しいBGMや、聴けば心が晴れやかになるような曲が好まれ、
また、モーツアルト自身の天性に陽気な性格は、そのような仕事をこなすのには適していたのかもしれなかった。

しかし、22歳の青年にとって、母との死別は、今まで知ったどんな悲しみや苦しみとも比較出来ないほどのものだった。

モーツアルトは他人のためではなく、生活のためではなく、自分の悲しみを昇華するためだけにヴァイオリン・ソナタ第28番ホ短調K.304の作曲を始めた。

この曲はモーツアルトが透徹した心理学者でもあることを、も、表すかのように、微かな心のさざなみまで表現されているように私には、思えるのである。

怒りにまかせて拳を振るうことも人間の肉体言語によるひとつの表現であるが、人間は、別の表現方法を持っている。

詩人はペンを走らせ、画家はキャンバスに色を塗り、そして、モーツアルトのような作曲家は五線譜に音符を記すのである。

勿論、芸術家が表現をしたからといって何かが解決されたり、癒されたりするわけではない。

むしろ、逆に、(作品に昇華出来ようと、出来なかろうと)表現された作品により、心を激しく動かされた原因へと、心を立ち返らされ、何度でも心を揺さぶられるのかもしれない。

しかし、引き裂かれた心を楽譜の上に留め、何度でもそこへ立ち帰って来ることが出来るようにモーツアルトは、ヴァイオリン・ソナタ第28番ホ短調 K.304を創り出したように、私には、感じられるのである。

モーツアルトは、この曲を、たぶん、誰かに伝えるためではなく、自らのために書いたのであろう。

だからであろうか、いつもの他人のための大げさな表現や劇的効果の必要性がないことからか、その書法は簡素極まりないのである。

極限まで切り詰められた音楽は、どこかしら異様な緊張感が張りつめてさえいる。

ヴァイオリン・ソナタ第28番ホ短調 K.304は全体で15分程度と短い。

第1楽章は心の動揺を表すようにやや激しい表現もあるのであるが、全体的に抑制されている。

そして第2楽章は沈んだ調子のまま、ひたすら哀しみがため息のように執拗に変奏し続けられる。

通常、器楽ソナタは3つの楽章を持ち、第3楽章は、大雑把な言い方をするならば、「解決」として、明るく勢いのある音楽が配置されることが多いのだが、この曲は第3楽章を欠いている。

つまり、第2楽章のため息までで、全曲は終わる。

このことは、悲しむ心に解決などそもそも無いことを教えてくれているようである。

人間は、激しい感情に突き動かされたとき、それにかたちを与えずにはいられないのかもしれない。

感情という、心に在る、得体の知れないものを、どんなかたちであれ、明確なものとして表現せずにはいられないのが人間の性なのかもしれない。

ところで、
「幸せなら手をたたこう」という曲(以下、坂本九さんバージョンを指す)がある。

「幸せなら手をたたこう」は心に在る「幸せ」という感情をボディーランゲージ(身体言語)で共有出来る曲である。

感情の発露を動きで表すことで、ポジティブな感情を示してみようと歌っているのである。

曲を通じて、言語、人種、性別、年齢、障がいなどの「境界」を超えて「幸せ」を共有しようとするこの曲の姿勢にいつも私は、感動するのである。

私たちはあまりに「幸福」を商業化し、まったく見当違いの場所で幸福を探しているのかもしれない。

日々流れている広告で、どんなことが謳われていようとも、そもそも、幸福は、店舗で購入したり、インターネットで注文したりすることは出来ないし、買えるものではないであろう。

人間の遺伝子は、5万年前には小さな集団で世界をさまよっていた祖先が入手することが出来たものと全く同じものから最大限の喜びを得るように出来ている。

人生で最良のものはプライスレスなのであろう。

それを表現するから、モーツアルトの曲はやはり美しく、またプライスレスで、芸術の尊さを感じさせてくれる。

自分の内部から生まれるシンプルな喜びや、心を満たし長く続く快感以外は、はかなく消えてしまうことを、知ってか知らずか、
国連の持続可能な開発ソリューション・ネットワークは、2011年から、
「世界の幸福プロジェクト」を開始し、参加国に対して、国の開発目標として「幸福」に重点を置くように推めているのである。

このプロジェクトは、おもにギャラップの世界世論調査をもとにしていて、毎年『世界幸福度報告』を発表している。

国民総幸福量(GNH)の指数は、国の長期的な成功を測る指数として、現在の標準である国内総生産(GDP)とは異なる有用な視点として用いられているし、用いられることになるであろう。

GDPには、経済活動の利点を強調するあまり、気づかないうちに人々に大きな幸せをもたらしている(文学や芸術などに代表される)非経済的活動を著しく過小評価している面があり、私たちも知らず知らずのうちに、GDPばかり追い求めるようになってしまったのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

久しぶりに、坂本九さんの「幸せなら手をたたこう」を聴いてみて、素敵だなあ~、としみじみ感じました( ^_^)

ときにゆっくりと何かを鑑賞する時間も大切かもしれないなあ、と思いながら描きました。

ロシア大統領選の頃には、ロシア、徐々に日本に寄るはずが、前回、今回、と、どんどんズレてます^_^;
(前回、イタリア→レスピーギ『ローマの松』→能の『羽衣』→三島由紀夫『天人五衰』→日本、の予定でしたが、文章はイタリアからアメリカに行ってしました(T_T))

こんな私の段取りから拙いブログですが読んで下さりありがとうございます。

よろしければ、これからも、読んでやっていただけると、嬉しいです(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*前回と今回の見出し画像は私が好きな神田のもうすぐ夕暮れの街並みです( ^_^)