おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「アメリカ」という理想が今までに経てきたこと(前編)-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑩-

2024-03-13 07:10:59 | 日記
アメリカ合衆国の建国から約250年、いまだに
「アメリカ」は現実というよりも、いまだに、ひとつの理想のままなのであろうか。

つまり、言うなれば、「アメリカ」は進行中の高尚な一大事業であり、正当な誇りの源泉であると同時に、大きな幻滅の源泉をも内包しているのであろうか。

ジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』著したのは、1726年、つまり、アメリカ独立宣言の50年前だった。

スウィフトは、人間の在り方に関するよい評価すべてを、意地悪に、面白おかしく、皮肉を込めて痛切に批判している。

ガリバーの旅は、バミューダに向かうところから始まる。

この物語の中心となるのは、
きわめて多くのユートピア的な夢と、ディストピア的な悪夢である。

ガリバーから連想されるgullibleは、騙されやすい、とか、すぐ真に受けるという意味だが、
その名前からうかがわれるとおり、ガリバーは騙されやすく、物腰の柔らかい純真な人物であり、人々に温かい関心を寄せていた。

しかし、ガリバーの旅は人間に対する嫌悪で終わる。

ガリバーはあまりにも人間嫌いになったため、人間を見ることにも、声を聞くことにも、匂いをかぐことにも耐えられなくなる。

ガリバーは、見知らぬ奇妙な場所を旅することで、
人間の愚かさ、度量の狭さ、大げさな賞賛、狡さ、自己欺瞞、我が儘、無関心、邪悪さを目にしたのである。

ガリバー旅行記は、
人生を楽観的に始めるほど、人生に対する失望が大きくなりがちであることや、
希望があまりに現実離れした楽観的なものであればあるほど、苦い経験によってますます深く悲観主義に向かって落ち込んでゆきがちであることを、教えてくれているのかもしれない。

かつて、日本では、『ガリバー旅行記』は子ども向けの絵本などにされる扱いが多かった時期もあるが、今では、日本でも(やっと?)政治学の教科書としても脚光を浴びているようである。

ところで、
アメリカンドリームの本質は、個人や集団が持つ願望である。

アメリカを建国したのは、疲弊した、人口過剰の、争いが絶えない世界から逃れて新天地へ行った移民たち、である。

そのような世界から逃れてきた彼ら/彼女らを出迎える新たな国は、少なくとも建前だけでも、勤勉によって、自由、平等な機会、成功がもたららされるという理想を唱え続けていた。

しかし、願望は実現の同義語ではない。

アメリカ独立宣言では「すべての人間は生まれながらにして平等」であると謳い、国民を多いに励ましたものである。

しかし、240年経っても、その理想はまだ実現しておらず、「アメリカ」は現実というよりも、いまだにひとつの理想にとどまったままにもみえる。

しかし、私たちは、多くの人々が海を渡って見知らぬ新天地に向かう危険な旅に出たのは、
旧世界で人々をつなぎ留めていた重苦しい制度、人間関係、伝統のくびきからひとたび逃れれば、もっとよい新たな世界を創ることが出来るというよりも純粋な願望からであることを、忘れてはならない。

あまり人気の無い未開の土地は、ヨーロッパで人類が積み重ねてきた多くの悪事を正すための空白の石版を提供した。

それは、すべての人にとって新たなスタートであり、いわば人類にとっては、2度目の救済を受けるチャンスであったと捉えられていたのかもしれない。

1620年、プリマス上陸直前に結ばれたメイフラワー契約は、厄介な現実問題に対する、理想的な解決策であった。

メイフラワー号には、自らを「聖徒」と呼ぶ国教反対者と、商機を求めてやってきた部外者とよばれる人々がほぼ同数乗っていた。

彼ら/彼女らは、自らが置かれている危機的状況を考えており、内部での対立は許されない不必要な行為だと認識していて、
「私たちは、結束し、市民による政体を形成する......そして、これに基づき、随時、植民地全体の福利のために最も適切と思われる、公正で平等な法律、命令、法令を発し、憲法を制定し、公職を組織する。
そしてこれらに対し、私たちは当然かつ全器服従と従順を約束する」
と聖徒と部外者で作成した契約の中で誓約した。

この社会契約は、公益への合意に基づいた民主的な自治を通じて、入植の動機の違いを解消したのである。

それから10年後、またしても上陸直前の船上、のちにボストン港となる場所で、新たなマサチューセッツ湾植民地の基本的な姿勢を示すために、ジョン・ウィンスロップが
「キリスト教的慈愛のモデル」という説教を行った。

ウィンスロップはキリストの「山上の垂訓」を引用し、同胞であるピューリタンの入植者たちに向かって
「世の光」を生み出すように命じ、「丘の上の光り輝く町」を造れという聖アウグスティヌスの命を引き合いに出した。

ウィンスロップは同胞に対し、新世界の生活は厳しいものになり、報酬は等分に配分されないという、現実に即した警告を与えている。

彼はその説教のなかで、
「全能なる神は、最も神聖で賢明なる摂理において、常に裕福な者と貧しい者、権力と威厳に秀でた高貴な者と身分か低く服従すべき者という、人間の境遇を定められた」と述べている。

しかし、境遇や能力、裕福さに違いがあっても、(特に共同体において)人々は身体の各部位が依存し合うように生きていかなければならないし、愛情と誠実さをもって、共同体のニーズを個人のニーズよりも優先させ、よりよい世界を創造し、他者が見習う手本となるように、全員が一丸となって、努力しなければならない、と説いたのである。

しかし、新世界はそのようにうまくはいかなかった。
入植者たちがつくった新世界は、旧世界を超えることが出来なかったのである。

彼ら/彼女らは、確かにすばらしい新世界をつくる機会を与えられたものの、どこまで行っても、人間につきまとう、代わり映えのしない心理的な力や社会の力に飲み込まれてしまったのである。

正しい行いをするための自的意識や宗教上の命令があっても、入植者は度々間違いを起こしてしまったのである。

マサチューセッツ湾植民地は建設当初から争いで分裂し、その不寛容さ、偏見、迷信のために、悪評が高かった。

一部では、強奪や殺戮が横行し、マサチューセッツ湾植民地は、より良い世界をつくることなく、現状の世界に対するよい手本とはなれなかった。

また、これは、ユートピア的理想が堕落し、恐ろしい行動を正当化し、ユートピア的理想を裏切るという悪循環であった。

これだけを見ると、歴史は最悪の形で繰り返すのかと不安になるが、
幸いなことに、平行して行われていたそれまでとは異なる現実的な原則に基づいた政治の試みは好ましい成果を生んでいた。

マサチューセッツ湾植民地が建設されてから数年後、植民地の指導者たちは、ロジャー・ウィリアムズを追放したのだが、ウィリアムズは、賛同者たちと未開の土地に移り、プロビデンス・プランテーションを建設した。1663年にそこは、ロード・アイランド植民地の一部となったが、こちらは、マサチューセッツでロジャー・ウィリアムズが嫌悪していまユートピア的理想主義とは正反対の考えに基づき運営されたのである。

ウィリアムズは、人間心理を常識的に評価し、どんな集団も腐敗は避けられないと考えていて、自己の利益を正当化するために宗教的権威が利用されることを恐れていた。

そのウィリアムズの視座から、理想主義や例外主義、宗教を大げさに主張するよりも、
現実主義の方が、統治を成功させるための人道的で効果的な道標となることがわかったのである。

ウィリアムズは人民の人民による統治を確立し、宗教的楽園をつくることよりも、世俗的な目的に尽力し、合意を旨とし、実際的な政治制度を基盤とする指導体制を確立したのである。

ウィリアムズたちは自己の利益を図り願望を実現するカルバン主義からは遠く、権力は神から与えらるという神話も信じてはいなかった。

また、ウィリアムズは、当時としては斬新な、教会と国家の「分離の壁」という概念を提唱し、完全な宗教の自由をも保障したことは、特筆すべきことであると思う。

ウィリアムズは、自分たちが、丘の上に神の町を造ることが出来る、などという、ひたすら楽天的で偽善に満ちたユートピア的概念を頼みにはせず、
実現可能な政治的解決策と人間関係を創り出すことの重要性を理解していたのであろう、と、私は思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日から、不定期更新からまた普段の日記に戻ります( ^_^)

よろしくお願いいたします(*^^*)

明日は、
「アメリカ」という理想が今までに経てきたことの後編を描いてみたいと思います。

またよかったら読んでやって下さいね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。