おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

トマス・マルサスの「人口論」を見つめ直すとき-私たちが直面していることについて考えるⅢ③-

2024-03-31 06:37:55 | 日記
過去2世紀の間に、世界人口が爆発的に増えることが出来た唯一の理由は、新たなテクノロジーにより、化石燃料の発見と採取が大幅に進んだからである。

石油生産量と人口の変化を示したグラフは、ほぼぴったりと重なる。

支出に見合う価値が化石燃料と同じようにあって、現在と同様の密度の世界人口を支え続けられるエネルギー源は、今、他にはない。

化石燃料は、何百万年という間に、地中で押しつぶされた何兆もの有機体から生まれるが、今、私たちは、石炭、石油、天然ガスをそれらが補充されるスピードの十万倍早さで消費している。

しかし、私たちが、はなはだ、無計画に無駄遣いしているものが、限りある資源であると言うことは、疑う余地がないのである。

無駄遣い出来るような安価な燃料が無くなったとき、地球の人口は、ハクスリーが著書『素晴らしい新世界』で設定した、およそ20億人に落ち着くことになってしまうのだろうか。

もちろん、私たちは、資源保護と持続可能な代替エネルギー源の促進について真剣に考え、私たちひとりひとりがこの貴重な必需品を節約しながら大切に使い、将来の世代に渡すように努力すべきであろう。

しかし、そのような努力だけでは、急速な資源の枯渇には対応出来ないであろう。

急速な資源の枯渇だけではない、取り返しのつかない地球温暖化、絶え間なく続く戦争、大量の移民、広範に広がる感染症の頻繁、度重なる飢饉が、私たちや将来世代を脅かすであろうことは明白である。

しかし、私たちは、これらの脅威をあまり起こすことなく、または、これらの脅威をなんとか、躱しながら、世界人口は増え続けることが出来るという、願望的思考を持っている。

人口抑制は、政治的公正の観点において、最も不適切な話題となっているようである。

たとえ、人口過剰が、今、世界において事実上すべての壊滅的な問題の原因であったとしても、それをメディア、政治的議論、学者の発表において議論したり取り上げたりすることは、ほぼ絶対的と言えるほどタブーになっている。

実際に、最近の戦争や難民危機、飢饉、感染爆発の原因の分析は、
ほぼ常に、政治的・経済的・個人的原因のみに注目が置かれており、人口過剰という切実な根本的な原因には、ほとんど触れられていない。

皆、人口抑制が暗示する恐ろしい含意や連想(→例えば、優生学、ヒトラー、生殖に対する制限、家族主義の破壊、宗教的信念との矛盾など)のせいで、人口抑制の話題自体から逃げているのである。

今、私たちは、問題本体ではなく、そのような「含意や連想」の方が恐ろしいために、皆で、人口抑制や人口爆発について話すことも、考えることすらも恐れている。

しかし、もっと恐ろしいことは、そうして逃げていることによって、引き起こされる事態ではないだろうか。

2世紀ほど前に、トマス・マルサスは、
「人口の力は、人間が生存するための糧を生産する地球の力より限りなく大きい」
ということを、初めて明らかにした。

マルサスは、人口学に関する深い洞察を持ち、人口は幾何級数的に急速に増加する傾向がある一方、食糧は算術数的に、ゆっくりとしか増加しないと論じた。

つまり、私たちは、人口爆発により、長い目で見れば、決して勝つことの出来ない食料供給との戦いに身を置くことになるのである。

マルサスは、人口抑制を意識しないかぎり、繰り返し起きる飢饉や、戦争、疫病、自然災害という惨事を経て、人口は自動的に抑制されることになる、と、示唆している。

チャールズ・ダーウィンもアルフレッド・ラッセル・ウォーレスも、生物間の競争を経て起きる自然選択が進化につながるという発見は、マルサスの著書を読んだことがきっかけだと、考えていたようである。

人口は常にどこでも食料供給を上回る傾向にあるため、結局は生存に最も適した変異を持つ者が生存競争に勝つのである。

また、マルサスは、心理学的洞察も持ち合わせ、人間の弱い理性は、それよりもずっと強力な生殖本能に対して、ほとんど影響を与えないと論じ、知恵と自制心がなければ、将来に、貧困と悪徳が発生する、と、予測した。

人類の人口は、1万年に農業革命が始まった頃はわずか500万人ほどだった。

その後マルサスが唱えたような目まぐるしい速度の人口増加が起き、キリスト誕生時には3億人まで増え、1800年には10
億人、現在では80億人、2050年には100億人、2100年には少なくとも110億人に達しそうである。

マルサスの予測に拠れば、テクノロジーによる成功の後に起きる人口爆発によって報われるのは、ごく少数の人々にすぎない。

大人数の人々にとって、人口爆発は、大きな問題を生み出す。

紀元前1万年より前、500万人の狩猟採取民は、今よりも
良いものを食べ、身長が高く、自由で平等であり、余暇の時間があったようである。

キリスト誕生時に、自給自足の農業をかろうじて営んでいた3億人のうちの大多数よりも、幸せだったのかもしれない。

確かにテクノロジーで生み出される物ははるかに多くなり、それによって人口も増えたが、私たちは、「以前よりも、健康であり、幸せであるか??」という問いにはっきりと「Yes!」といえるのか、疑問である。

確かに、人間が持つ繁殖力の高い生殖戦略は、1万年前に人類が直面した環境には完全に適合していた。

1万年前は、人口が少なく、人類は孤立した状態で、重大な絶滅のリスクにさらされていたからである。

しかし、現在は状況が違うのである。

かつての人口不足の世界では優れた戦略も、現在の世界には適合しない戦略なのである。

人口に関する外的現実が劇的に変化してきたにもかかわらず、私たちの本能はきわめてゆっくりとしか変化していない。

また、文化的信念の変化も、切迫した環境の危機が進むスピードより、ずっとずっと遅いのである。

日々、ニュースで見る新たな大惨事は、実は、根本的な原因のひとつは同じであるように思う。

大惨事の背景には、ただ、
「あまりにも少ない資源を、あまりにも多すぎる人々が、追い求めて」いる現実があるのである。

マルサスの予測からすれば、革命、内戦、移民、干ばつ、飢饉......などは必然的に起きているのかもしれない。

もう一度、マルサスの予測を見つめ直す時期に、私たちは、来ているのかも、しれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

政府の少子高齢化対策があまり、本気に見えず(その場しのぎに見えてしまい)、いろいろ読んで考えてみたいなあ、と思い、今日は、マルサスの「人口論」あたりにしてみました^_^;

難しい問題ですね.....描いていて全然まだ先が見えません^_^;

こんな探しながら考えながら描いている文章ですが、読んでいただけると嬉しいです(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ダニエル・カーネマン氏の死去を知り、思うこと-私たちが直面していることについて考えるⅢ③-

2024-03-30 06:17:41 | 日記
進化はもっぱら、既存の組織の上に積み上げられ、古い組織に在った、役に立つ昨日は、何であれ、新たに進化した組織の中に維持されるようである。

爬虫類や哺乳類、霊長類の祖先の脳において、うまく機能した神経回路は、人間の脳に今も組み込まれていて、人間性を生み出す重要な役割を果たし続けている。

たとえば、人間の行動の一部(呼吸、食事、心拍数の調節など)は、もともと爬虫類時代に進化した脳の部位を使って行われ、今も爬虫類時代と同じ形で機能している。

また、その他の人間の行動(恋愛、子育て、体温調節など)は、哺乳類時代に進化した脳で行われて、哺乳類時代と同じように機能している。

さらに、人間の特徴をなすその他の要素(感情、家族、社会構造など)は、霊長類時代に進化した脳によるもので、これまた、当時と同様の働きをしているのである。

明らかに人間だけが持つとされる能力(言語、抽象的思考、将来の計画、自立した理性的な意思決定など)は、ごく最近進化し、大きく発達した大脳新皮質が関係している。

この発達した新皮質のために、人間の脳は身体の割に大きくなり、独特の能力が生み出された。

しかし、人類出現以前に進化した脳に由来する機能は、強い無意識の力を保ち続けていて、通常、私たちが気づかないうちに行動の多くをコントロールしているのである。

ところで、人間が置かれる状況下で起きる悲劇の多く(および僅かな栄光)は、もともと人間に備わっている理性よりも、情動に基づいた意思決定から生じている。

なぜなら、情動をつかさどる大脳辺縁系から理性をつかさどる皮質に向かって出ていく神経接続の数は、皮質から辺縁系に戻ってくる神経接続の数よりも多いからである。

そのため、情動に基づく意思決定と、理性に基づく意思決定の間で不公平な戦いが起きるのである。

皮質には情動の情報が高速で押し寄せるが、それらを仕分けしてコントロールする能力は限られていて、処理スピードも遅い。

プラトンの人間の魂に関する比喩は、極めて的確だったのである。
やはり、か弱い御者である皮質は、荒々しく無頓着な辺縁系を手なづけるのに苦労しているのである。

神経病理学と進化論に対する確かな知見を持っていたジークムント・フロイトは、人間の精神が、「動物の祖先の脳を基本とし、段階的に層を成す人間脳の構造を反映しているもの」だ、と、直感した。

無意識の脳の働きのほとんどは、原始的な本能を満たすように機能し、即座の満足を得ようとする「快感原則」に従う。

これに対して、意識的な脳の働きは「現実原則」に従う。
「現実原則」は、外界の要請や機会に対して、満足を遅らせ、合理的な理由付けを行い、適切に対応する能力である。

フロイトは
「こうして教育された自我は『理性的』になり、もはや、自らを快感原則にしはいさせることなく、現実原則に従う。
実は、現実原則も快感を得ることを求めては、いるが、快感は現実を考慮した上で確保され、延期されることもあれば、軽減されることもある」
と述べている。

たとえば、乳児は純粋に快感だけに従って生きているが、その精神は、健全な現実検討の経験とともに、快感原則を抑える能力が向上するにしたがって成熟する。

フロイトは、のちのダニエル・カーネマンによるシステム1とシステム2という思考モード区分に先駆けて、こうした区別をしていたのである。

現代の認知科学と神経画像処理の技術により、実験に基づく量的なエビデンスが得られ、人間の脳の異なる部位の働きを説明できるようになったことから、ダーウィンやフロイトの洞察が確りと裏付けられた。

2011年、ダニエル・カーネマンは『Thinking,Fast and Slow(ファスト&スロー)』を発表した。

これは、カーネマンが、ノーベル賞を受賞した研究をまとめたもので、層構造を持った人間の脳が日常的に行う認知と、それがもたらす結果について論じている。

フロイトと同様、カーネマンは意思決定の形態を2つに分類している。

システム1は、すばやく、自動的に動き、感情的かつ、直感的で、人間に本来備わっている思考形態に近い。

システム1は、使いやすい形に凝縮された古来の知恵に相当する。

たとえば、山の中で虎に襲われそうになったとき、私たちは、じっくり時間をかけて逃げるか、どうかを考えないように、である。

システム2は、もっと新皮質の機能に近い。
つまり、システム2の思考は遅く、理性的かつ慎重で、エビデンスに基づき、論理的法則に従った科学的なものである。

両システムとも、それぞれに相応しい場面においては、適切に機能する。

システム1の思考は、人類が進化の戦いの中で、
目立たない片隅からステージの中央の座を得るまでの長きにわたって生き延びるための支えとなった。

しかし、今では、私たちが作り上げた、以前とは大きく変化した新しいステージで、この後、生き残っていく上での、大きな障害になっている。

システム1の思考は、広く知られた新しい問題に対して迅速かつ柔軟に使うことができないために、私たちの自滅的な社会に対する幻想や願望的思考の源泉となってしまうのである。

自己中心的で攻撃的な、霊長類時代のような本能は、賢い新皮質に多いに助けられて、数百万人という人口のまばらな世界から、混み合った80億人の世界へと私たちを放り投げたのである。

しかし、80億人が共に平和に持続可能な形で、今の時代をどう生きることができるかを考えるうえで、そうした本能は、危険なほど時代遅れなものとなる。

システム1脳を最新の状態にするには、少なくとも数万年という進化の期間が必要となるであろう。

しかし、私たちにそのような時間はありそうにはない。

私たちは、今後、あらゆる点で、最近発達した人間脳のシステム2による理性的思考が、より原始的なシステム1の脳の構造に組み込まれた反射的行動をどうにかしてうまくコントロールできるようになる必要があるのではないか、と、私は、思う。

また、私たちは、強力なシステム1の思考による良識への攻撃に対しては抵抗し、システム2の思考で対抗しながら、次世代への責任として、理不尽な衝動や欲求実現の幻想を上回る、理性的な心の力を取り戻すよう、カーネマンに言われているのかもしれない、とも、思った。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

3月27日にダニエル・カーネマン氏が亡くなったことを知りました。

もう少し、この世界を見ていて欲しかったので、悲しいです。

ところで、気温の変化に身体がついていけず、昨日はいきなり日記をお休みさせていただきました^_^;

皆さまも体調に気をつけて、お元気でお過ごし下さいね( ^_^)

今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

伊福部昭の『リトミカ・オスティナータ』に思うこと-私たちが直面していることについて考えるⅢ①-

2024-03-28 06:00:43 | 日記
自然は長期的に見るが、どうも私たち人間は短期的に見ている。
また、自然は多様性を選び、私たちは標準化を選ぶ、ように私には、思えてならない。

熱帯雨林のなかで、木を眺めるとき、素人目には、どの木も似たようなものに映るが、数百種の木が在り、さまざまな遺伝子を受け継いでいるのである。

地下の根たちは水分や養分を得られるかたちをとり、林冠ではそれぞれが少しでも日を浴びられる場所を得ようとせめぎ合っている。

ひとつの種だけだったら、もっと複雑にならずに済んだのかもしれないが、自然は選択肢を確保しておくために多大な代償を払うのもいとわないようである。

これから何が起こるか、は決してわからないし、次の環境の試練を乗り切るために、どんな遺伝的潜在能力が必要にかなどわからないからである。

やはり、自然は長期的に見るが、人間は短期的に見る。
自然は多様性を選び、私たちは標準化を選ぶようである。

例えば、私たちは作物を均質化し、人々を均質化している。

私たち人類は熱帯雨林からの教訓を無視し、大規模農業が後押しする実に分の悪い賭に、自らの運命を委ねているといっても言い過ぎではないであろう。

かつては、非常に多様だった私たちの食糧は、今や、遺伝的に同質な動植物の世界規模での大量単一生産に依存している。

私たちは、悪夢のようなアイルランドのジャガイモ飢饉から何ひとつ学ばず、自然の、実証ずみの強大な力を見くびっている。

自然が生み出したひとつの病原菌によって、人類全体が大災害に見舞われかねないことが、わかっているのに、である。

また、巨大製薬企業は、それと軌を一にして、いわば、人間の単一生産を商売にするべく熱心に取り組んでいるようにも思える。

大きすぎる野心を持った精神医学の支援のもと、人間のあらゆる差異が化学的不均衡へと変えられつつあり、手頃な薬で治療できるとされてしまっている。

自然には賛美された差異を、標準化や均質化を越えて病気にまでしてしまう人たちのなかの、「成功」の定義を、私は、疑う。

ところで、ゴジラが再び注目を集めているようである。

ゴジラが日本に上陸してから70年を超えた。

敗戦の余燼もまだ漂うようなときに、水爆という科学の暴走に対して日本人が抱いたのは、自然からの、おごり高ぶった人類に対する復讐の恐怖であった。

それは、ゴジラという姿となって現れたのだが、その威容はもちろん、付された音楽は、強烈な、原始的なリズムで聴く者を威圧した。

この音楽を作曲したのが、伊福部昭である。
ゴジラとともに最近、彼が紹介される場面が増えているが、伊福部昭は『ゴジラ』だけでなく、『座頭市』『ビルマの竪琴』『大魔神』などの音楽も担当している。

伊福部音楽の最大の特徴は、土俗的な味わいのある旋律、執拗かつ強烈なリズム、そして変拍子である。

彼は、私淑したラヴェルの影響を受けつつ、伊福部は日本の土俗的な音楽世界を切り拓く。

(正確にいえば、日本というよりは北海道の大地に根ざしていたのかもしれない。少なくとも伊福部は、「粋」や「幽玄」をあざとく狙うような音楽は一切作っていない。)

伊福部の音楽が根ざしているのは、彼が生まれ育った北海道の大地やアイヌの精神世界である。

彼の激しい音楽は、厳しい自然、そしてその圧倒的な力と対峙する人間のたくましい生命力そのものなのである。

『ゴジラ』の音楽に伊福部の音楽が、これ以上ないくらい適合したのは、ゴジラという畏れ、恐れるべき自然の力を表象する怪獣と、伊福部自身の音楽が持つベクトルが一致していたからである。

力強く単純かつ執拗なリズムは、有無を言わさず迫り来る自然の力を見事に表している。

伊福部は、
「音楽に必要なのは、力と量と生活である」と述べている。

1961年に作曲された
『リトミカ・オスティナータ』は実質的にはピアノ協奏曲の形式を持っているが、普通の意味での協奏曲ではない。

『リトミカ・オスティナータ』ピアノはいわば、ひとつの打楽器と化し、オーケストラと一体となってひたすら変拍子のリズムを打鍵する。
そもそもこの標題が「執拗に反復するリズム」という意味をも持つのであるが、リズムとは音楽の原初の要素であり、自然の原初の要素でもあると、私は、特に自らの心臓の鼓動を聴くとき、そう思う。

『リトミカ・オスティナータ』を聴くとき、
敗戦復興から日本人が物質文明への傾斜を強めようという時代に伊福部が示した、人間の根源的な生命の力強さ、生命の躍動する姿を、私は、想起する。

しかし、同時に、標準化や均質化を越えて、いわば、人間の単一生産を商売にすべく、差異を病気にまでしようとする一部の人間の歪んだ姿をもまた、私に、想い起こさるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

最近は、以前に取り上げたような題材を、違う視座から眺めてみてから、再構成しながら描くことが増えました( ^_^)

かつての題材を、その日その日までの考えたことで更新した、考え直しの作品ですが、日々の成長だと思って暖かい目で見てくださると幸いです(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し写真は、最近関心がある本の表紙か、最近の風景写真にパターンが戻ってきています^_^;

ラパ・ヌイの悲劇を再考するとき-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑳-

2024-03-27 06:48:46 | 日記
願望的思考は私たちの遺伝子の奥深くに入り込み、未だに、厳密な論理や科学的事実を、頑固にはねのけているようである。

この願望的遺伝子は、私たちの祖先においては重要かつ有用なものだった。

なぜなら、私たちの祖先は、自分が住む世界を、実際には、ほとんど支配できず、また、機械論的に世界を理解することも出来なかったため、魔術的思考や儀式、神話を用いて、自らが世界を支配しているという幻想を作り上げて精神的な安心感を得ていたからである。

しかし、雨乞いのために儀式舞踊をしたり、獲物を誘き寄せるために洞穴の奥に絵を描いたり、病気を治すためにジャーマンと霊界を訪れることに意味が無いであろうことを理解しているはずの現代に生きている私たちには、願望的思考は、有用どころか、有害なものである。

実際に、私たちは、不断に起こる戦争、慢性的な資源や食糧の不足、繰り返されるパンデミック、それらの背景にある地球温暖化などの人類生存の脅威がなくなることをただ願い、そのような危機がなんとか魔法のように消え去ることを思い描き、最後の最後に、テクノロジーによって救いの手が差し伸べられるのをおとなしく、しかし意味もなく待っている。

しかし、たとえ、願望的思考に陥りがちな人間の性質に変わりがなかったとしても、私たちを取り巻く状況は、時間の経過とともに大きく変わっているのである。

進化の過程において人間が端役を演じていた時代、ほとんどすべての事柄が私たちの力が遠く及ばないところで、起きていた。

今や人類は、ステージの中央に立ち、強力な手段を手に入れている。

それは、言うなれば、私たち自身とこの世界を救うための、あるいは、破壊するための手段である。

確かに、願望的思考を持ち続けることによって、一時的には気分がましになったり、少なくともやましい気持ちを減らしたりすることは可能であろう。

しかし、そのようでは、実際にある問題を解決する現実的なステップを踏むことができなくなってしまう。

今この瞬間に、願望的な思考にとらわれて生きるならば、私たちは、先の世代に対しての責任を負うことを忘れてしまっているということになるのだろう。

ところで、願望的思考の果てのかたちのひとつを、ラパ・ヌイ(以下イースター島)の歴史に見るように思うのは、私だけであろうか。

イースター島の悲劇は、時代と場所を問わず、これまでの世界文明の多くに見られ、人間がいかに偉大であるか、しかし、また、いかに誤りに陥りやすいかを教えてくれるようである。

イースター島という小さな島で生まれた注目すべき文明からは、人間が持つ輝かしい創造力が見てとれるが、その文明は状況を見抜けず、見抜けても、「危機的状況はいつか過ぎ去る」という願望的思考(にしがみつく人間の愚かさ)にのために急速に崩壊した。

800年前にイースター島に移住した数十人のポリネシア人は、勇敢だった。
長い航海を経て、地球上で最も孤立し先の見込みもないとされる島のひとつに移住したのである。
このラパ・ヌイ人は、独自に文字体系を編み出した世界史上数少ない民族である。

また、他に例を見ないのは、彼ら/彼女らが完全な孤立状態の中で、このような知的偉業を成し遂げたことである。
つまり、ラパ・ヌイ人は、一般的に必要とされる、物品の交易に伴ったアイデアのやりとりもなく独自の文明を築いたのである。

また、それほど肥沃でないイースター島が、効率のよい多産な土地に変わったことによって、急激な人口爆発が起き、数十人だった人口が1万人を超えるようになった。

農作物が豊富になると常に起こることであるが、社会の階層化と人口過剰が進み、頂点に君臨する者の権力と威信を確立するための建造物を造ることに励むようになる。

実際、イースター島ほどの面積の島に、これほど多くの建築物が造られたことは、いまだかつてない。

約1000体の石像は、驚くべき工業技術、芸術的創造力、職人の技能だけでなく、人間の貪欲さと虚栄心を示している。

当初、石像は高さ1メートル前後、重さは数トンくらいで、荒削りなものであった。

それが時間の経過とともに次第に大きくなり、最大の功名心を表す最も新しくできた石像は、高さ約12メートル、重さは約80トンに達した。

しかし、このころ、イースター島の文明は崩壊しつつあり、崩壊しつつある現実を見ないように、見たとしても大丈夫だと安心したいという、願望的思考も加わって、像は不必要なまでに巨大化した。

人口過剰から資源が枯渇しているにも関わらず、イースター島では、根本的な解決を避けるかのように、島全体の半分にあたる巨大な石像は、巧みな牽引技術と人力を投じて、文明が崩壊しつつある間にも、引き続き彫られていたのである。

人間の偉大さだけではなく、人間の分別と自制が欠如を絶えず思い起こさせるかのように石像は今も佇立している。

イースター島は、失われた過去の栄光を今に伝える壮大な遺物が残る、教訓に満ちた、しかし、地球上で有数の悲しい場所である、と、私は思う。

一般的に歴史家やジャーナリストは、根本に隠れた原因を無視し、表面に現れた内戦、侵攻、政治的策略などの「結果」にばかり注目しがちである。

確かに、こうした結果は、ドラマチックな物語を提供するかもしれないが、人口過剰、資源の枯渇、気候変動といった根本的な原因が運命を左右したという、本当の物語を見落とすことにつながる、とも、私は、思うのである。

偉大な文明はどれもやはり同じようなサイクルを辿ってきたのではないだろうか。

つまり、繁殖とテクノロジーで成功を収めたことが、結局悲しい運命につながるというサイクルを繰り返しているのである。

現在、私たちは、「まだ大丈夫」という願望的思考によって自分たちの限界を押し広げ、すでに、環境の悪化、人口爆発、天然資源の減少、気候の変動という壁に直面している。

私たちの文明もまた、願望的思考から、速く我に返らなければ、未来の考古学者たちから、私たちが賢明であったと同時に、なぜこれほど愚かであり得たのか、と首を傾げられる日が来るであろう。

私たちの文明が、逃れることの出来ない人間の性質と運命を示す、第2のイースター島とならぬよう、私たちは、「現状維持」という姿勢に現れる願望的思考を見直し、「持続可能な生き方」を模索しなければならない局面に、もはや、来てしまっていることを自覚しなければならないだろう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日は、貴重な晴れです( ^_^)

洗濯物をきちんと干しておこう、と、朝日を見ながら張り切っています(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

のちに誤用されるかもしれないあらゆるリスクを伴いながら-私たちが直面していることについて考えるⅡ⑲-

2024-03-26 06:45:45 | 日記
ディストピアを描いた作品は、今や、どこにでもあり、ほとんど陳腐と言って良いものになったのかもしれない。

ディストピア作品のジャンルは産業革命が始まるとともに、急激な広がりを見せ始め、ロボットが登場すると、さらに爆発的に拡大したように思う。

そして、私が思うに、ディストピア作品は、
現代世界の問題が解決策を圧倒し、過去よりも未来の状況が厳しく見え始めたとき、に、大衆の心を捉えてきたし、捉えるものなのであろう。

ディストピア作品は、さまざまな年齢層の人物や、異なるヒーローと悪者を扱い、さまざまな時代(過去、現在、特に未来)を舞台に、いろいろなジャンルにわたって描かれている。

また、種々のテーマ(戦争、全体主義政府、革命、無政府状態、投獄、監視、精神的拷問、自然災害、階級闘争、社会の崩壊、文化の衰退、人間性の喪失など、特に最近のテーマとしては新たなテクノロジーの影響)が取り上げられ、作品の完成度もさまざまである。

ジョージ・オーウェル(1903~1950年)は現代のディストピアに直結する小説『1984年』を1947年に著した。

つまり、オーウェルは1947年に、当時はかなり新しい発明であったテレビが、全体主義者による監視のための絶大な力を持ったツールになると予測しているのである。

オーウェルが『1984年』で描いたディストピアは、
ビックブラザーと思想警察が、テレスクリーンと呼ばれる双方向テレビを通して、市民のあらゆる動きを監視し、会話の一言一句を隠しマイクで聞いている。

至るところに自分の子どもをも含むのであるが、密告者がいて、あらゆる思考、感情、人間関係について政府に密告する。

『1984年』で描かれる世界は、鏡の世界であるため、何もかもが見かけとは反対になる。

例えば、平和省は延々と戦争を続け、真理省は党の偽りのプロパガンダとつじつまが合うように、過去の記録を改竄し、愛情省は拷問を行っている。

また、党の方針に従わなければ、「思想犯罪」となる。

そこで、善良な市民は、「メモリーホール」と呼ばれる深い穴に危険で不都合な真実を投げ入れる。

しかし、党の正当性に反対する者は「非実在者」として歴史から抹殺されたり、真実が偽りで偽りが真実であったりする部分は、『1984年』というディストピア作品の中だけではなく、私たちが今生きている現実の世界にも在る部分ではないだろうか。

実際、『1984年』のなかで、ビックブラザーが人の心を読み取り、思考を矯正する手段は、独裁者になろうとする者が今日利用できる監視技術と比べれば、悲しいほど未熟なものである。

ところで、
エドワード・スノーデンが、指名手配犯であると同時に国際的な英雄になったのは、彼が内部告発をしたときである。

スノーデンは、広範囲による、徹底した、ほぼ違法となる電子的監視プログラムにアメリカ政府が関わっていることを証明する大量のデータを暴露したのである。

スノーデンの暴露文書により、アメリカ政府が強大な監視機関となったこと、アメリカ国民に嘘をついてきたこと、CIAが思想警察とさほど違わない手法と精神の下に、精神的・肉体的拷問を行っていたことが明らかになってしまったのである。

オーウェルは『1984年』で、鋭く目を光らせる独裁者のビック・ブラザーが、あらゆる部屋に双方向カメラを設置して、党がすべてを監視して市民の自立的な活動すべてを封じられるようにした。

しかし、オーウェルは、最悪の悪夢として、アメリカ人の日常生活では当たり前になってしまった広範なプライバシーの侵害を想像することは出来なかった。

政府機関や企業が、私たちの一挙手一投足を監視し、記録し、分析していて、私たちよりもはるかに私たちのことを知っている、という未来も、そう遠くのことではないのかもしれない。

特に、テロ防止などの大義名分の下にあってても、プライバシーや民主的な抑制の方が尊重されると、誰が保証できるのだろうか。

『1984年』の内容が大きく見劣りするような、実は例を私たちは知っている。

ユダヤ人に関する大量データ収集を可能にし、のちの非常に多くのユダヤ人の追放と処分を可能にしたIBMの(コンピューターの前身である)当時最新のパンチカード/カード分類技術と、その技術をIBMがナチスに提供する意思を持っていたという事実である。

現に、IBMにその技術があっても、IBMがナチスに提供する意思がなければ、ホロコーストはこれほど残酷に速く行われなかったであろう。

当時よりもそのようなことに利用される可能性のある技術が進歩した今の世界で、同じようなことが、絶対に起こらない、と言うことの方が難しいのかもしれない。

1947年に『1984年』が出版された直後に、CCTV(閉回路テレビ)アメリカで初めて使用された。

NSAやCCTVのプライバシー介入の度合はどんなディストピア作品よりも怖いようにすら感じるが、それでも、ビック・テックやその他のサイバー企業による、全面的な介入を受けていることに比べたら大したことが無いのかもしれない。

なぜなら、私たちはビックテックらに対し、進んで失うプライバシーという対価を払って、それらの企業の価値を高めているからである。

私たちが知る以上に、私たちのことをそれらの企業たちは知っているのである。

情報保管が安価になり、のちに誤用されるかもしれないあらゆるリスクを伴いつつ、こうしたすべての情報が永遠に利用できるようになっている。

現在、寛大に受け入れられている趣味、交際、政治的信念、性的指向、民族的背景は、将来、恥、恐喝、弾圧、投獄の原因となる恐れすらあることを歴史は示し続けている。

確かに、インターネットによるプライバシーへの介入は、無意識のうちに急速に広がり、不満なく受け入れられてきた。

それによって、かつてない水準の便利さが、私たちにもたらされたからである。

ワンクリックで品物を購入したり、図書館に行かずに世界中の知識を調べたり、ソーシャルネットワークで世界中の人と友達になったり、家に居ながらにして銀行と取り引きしたり、車にいながらにして地図も広げずにいつ右折するか優しい声で教えてもらったりするのは、なんと素晴らしいことであろうか。

しかし、
私たちが取るすべての行動によって、何らかの情報が明らかになり、プライバシーが侵害され、外部から私たちは操られるようになる可能性があるのである。

今のところ、こうした監視ツールは、主に営利目的で使われているが、それを簡単に政府の武器に変えられることは、これまでの独裁政権で、すでに十分に示されているといえよう。

今、多くの人々が、1984年』を手に取ってみたり、改めて読み直したりしているのは、当然のことなのかもしれない。

私も、その多くの人々の中のひとりであることは、いうまでもない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

バタバタしており、不定期更新を経ず、日記に戻ってきました^_^;

なかなか、新しい環境に慣れずペースがまだつかめていません^_^;

こんな私ですが、これからも、また、よろしくお願いいたします( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。