おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

伊福部昭の『リトミカ・オスティナータ』に思うこと-私たちが直面していることについて考えるⅢ①-

2024-03-28 06:00:43 | 日記
自然は長期的に見るが、どうも私たち人間は短期的に見ている。
また、自然は多様性を選び、私たちは標準化を選ぶ、ように私には、思えてならない。

熱帯雨林のなかで、木を眺めるとき、素人目には、どの木も似たようなものに映るが、数百種の木が在り、さまざまな遺伝子を受け継いでいるのである。

地下の根たちは水分や養分を得られるかたちをとり、林冠ではそれぞれが少しでも日を浴びられる場所を得ようとせめぎ合っている。

ひとつの種だけだったら、もっと複雑にならずに済んだのかもしれないが、自然は選択肢を確保しておくために多大な代償を払うのもいとわないようである。

これから何が起こるか、は決してわからないし、次の環境の試練を乗り切るために、どんな遺伝的潜在能力が必要にかなどわからないからである。

やはり、自然は長期的に見るが、人間は短期的に見る。
自然は多様性を選び、私たちは標準化を選ぶようである。

例えば、私たちは作物を均質化し、人々を均質化している。

私たち人類は熱帯雨林からの教訓を無視し、大規模農業が後押しする実に分の悪い賭に、自らの運命を委ねているといっても言い過ぎではないであろう。

かつては、非常に多様だった私たちの食糧は、今や、遺伝的に同質な動植物の世界規模での大量単一生産に依存している。

私たちは、悪夢のようなアイルランドのジャガイモ飢饉から何ひとつ学ばず、自然の、実証ずみの強大な力を見くびっている。

自然が生み出したひとつの病原菌によって、人類全体が大災害に見舞われかねないことが、わかっているのに、である。

また、巨大製薬企業は、それと軌を一にして、いわば、人間の単一生産を商売にするべく熱心に取り組んでいるようにも思える。

大きすぎる野心を持った精神医学の支援のもと、人間のあらゆる差異が化学的不均衡へと変えられつつあり、手頃な薬で治療できるとされてしまっている。

自然には賛美された差異を、標準化や均質化を越えて病気にまでしてしまう人たちのなかの、「成功」の定義を、私は、疑う。

ところで、ゴジラが再び注目を集めているようである。

ゴジラが日本に上陸してから70年を超えた。

敗戦の余燼もまだ漂うようなときに、水爆という科学の暴走に対して日本人が抱いたのは、自然からの、おごり高ぶった人類に対する復讐の恐怖であった。

それは、ゴジラという姿となって現れたのだが、その威容はもちろん、付された音楽は、強烈な、原始的なリズムで聴く者を威圧した。

この音楽を作曲したのが、伊福部昭である。
ゴジラとともに最近、彼が紹介される場面が増えているが、伊福部昭は『ゴジラ』だけでなく、『座頭市』『ビルマの竪琴』『大魔神』などの音楽も担当している。

伊福部音楽の最大の特徴は、土俗的な味わいのある旋律、執拗かつ強烈なリズム、そして変拍子である。

彼は、私淑したラヴェルの影響を受けつつ、伊福部は日本の土俗的な音楽世界を切り拓く。

(正確にいえば、日本というよりは北海道の大地に根ざしていたのかもしれない。少なくとも伊福部は、「粋」や「幽玄」をあざとく狙うような音楽は一切作っていない。)

伊福部の音楽が根ざしているのは、彼が生まれ育った北海道の大地やアイヌの精神世界である。

彼の激しい音楽は、厳しい自然、そしてその圧倒的な力と対峙する人間のたくましい生命力そのものなのである。

『ゴジラ』の音楽に伊福部の音楽が、これ以上ないくらい適合したのは、ゴジラという畏れ、恐れるべき自然の力を表象する怪獣と、伊福部自身の音楽が持つベクトルが一致していたからである。

力強く単純かつ執拗なリズムは、有無を言わさず迫り来る自然の力を見事に表している。

伊福部は、
「音楽に必要なのは、力と量と生活である」と述べている。

1961年に作曲された
『リトミカ・オスティナータ』は実質的にはピアノ協奏曲の形式を持っているが、普通の意味での協奏曲ではない。

『リトミカ・オスティナータ』ピアノはいわば、ひとつの打楽器と化し、オーケストラと一体となってひたすら変拍子のリズムを打鍵する。
そもそもこの標題が「執拗に反復するリズム」という意味をも持つのであるが、リズムとは音楽の原初の要素であり、自然の原初の要素でもあると、私は、特に自らの心臓の鼓動を聴くとき、そう思う。

『リトミカ・オスティナータ』を聴くとき、
敗戦復興から日本人が物質文明への傾斜を強めようという時代に伊福部が示した、人間の根源的な生命の力強さ、生命の躍動する姿を、私は、想起する。

しかし、同時に、標準化や均質化を越えて、いわば、人間の単一生産を商売にすべく、差異を病気にまでしようとする一部の人間の歪んだ姿をもまた、私に、想い起こさるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

最近は、以前に取り上げたような題材を、違う視座から眺めてみてから、再構成しながら描くことが増えました( ^_^)

かつての題材を、その日その日までの考えたことで更新した、考え直しの作品ですが、日々の成長だと思って暖かい目で見てくださると幸いです(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し写真は、最近関心がある本の表紙か、最近の風景写真にパターンが戻ってきています^_^;