UN大浦のブログ

徒然なるままの手記。
大半が、山と猫様、そして妄想の徒然草。

果てしない物語を紡ぐために

2015-08-06 07:25:15 | 日記
 幼少期に観た、ミヒャイル・エンデの「ネバーエンディングストーリー」は、
 今でも自分の中で異彩を放ち続けています。

 自分の中の映画鑑賞史として元始のものであるから、尚のこと特別な感慨があるのかもしれません。


   いじめられっ子の少年が本の世界に文字通り「没入」するという夢とロマンに溢れた世界。

 
 大空を天かける聖犬ファルコンの華麗な姿! そして安心感を与えてくれる穏やかな声!
          
 今でも白い犬を見ると真っ先にファルコンを想像してしまう自分がいます。
 今でこそ「魔法 =ハリーポッター」という図式が多くの人に成り立っていますが、
 私にとってはこの映画こそが魔法以外の何物でもありません。


 原作の「果てしない物語」とは結末が大きく異なり、その点においてはエンデと監督との間で確執が生じていたという、
 子どもの頃には知るよしもなかった事実を最近知りましたが、夢を見させてくれた偉大な作品である事に変わりはありません。

 
 さて、エンデの他の作品として、「モモ」があります。
 

 【あらすじ】
   主人公であるモモの稀有な特技は人の話を聞くこと。心にどんな傷を負った者でも彼女に話を聞いてもらうだけで穏やかになれるが、
   そんな穏やかに人々が暮らす街に「時間どろぼう」という灰色の男たちが現れて・・・



  詳述は避けますが、その「モモ」の中でこのような台詞があります。


「モモにとって時間を持つことは他者に時間を与えることであった。つまり他者との関係性のなかに人生があり、時間があり、現在を楽しむということがある。
ところが、時間を節約することによって、時間を持つことができなくなり、つまりは他者と時間をともに過ごすことができなくなっていく。応答することの否定が時間の節約なのである。つまり時間を節約することによって人々は愛することを奪われていくのである。」
(『モモ』より抜粋)

 モモの純真な心の持ちようを通して、
 他人と時間を共有することの大切さ、目先の利益に目を取られて他をないがしろにする事に警鐘を鳴らしてくれる作品であり、児童文学という作品の性質上、モモの発言を重要ししがちでありますが、
 私自身はむしろ時間泥棒の発言にも耳を傾けたいとも思います。

  他人との交流に割く時間など無駄だ、と警鐘を鳴らす時間どろぼう。

  私はこの点を安易に否定は出来ないのです。というのも、住民を納得させるために『他人との交流』を主眼にしていますが、私たちの行為一つ一つが有限な時間を使っている事実は確かだからです。

    私たちは与える事は難く、奪う事が容易に出来てしまう生き物です。

  仕事においても、それがたとえ趣味であっても自分の都合だけを優先してしまう時がないでしょうか。

  「どうせ誰かがやる。だから自分は別にする必要はない。」

  「自分がやるべき事は明確だ!これをしなければならない。だから必要な情報を得るために他人にはいくら質問して時間を奪ってもいい。なぜなら、もう一度いうが、私にはそれをする必要があるからだ!」

  ・・・自分本位な生き方をしていないか・・・ 
     自分の勝手な行いで他人の時間を奪っている自覚を持つ必要性を痛感します。

  すべては各々の「果てしない物語」をよりよいモノへと紡いでいくために。