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高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

篠ノ井・中央西線区間運転用クモハ41800 (蔵出し画像)

2015-11-18 01:55:10 | 旧型国電
 さて、先日クモハ43800代を紹介しましたが、やはり篠ノ井・中央西線区間用に活躍したクモハ41800。やはり身延線から75年に移ってきた口です。
 北松本には71,2年頃にはクモハ41がごろごろしていたらしいですが、ロングシートでサービスレベルが低く、かつ出力も低いことが嫌われたのか、京阪神緩行線、仙石線などから移ってきたクモハ51, 54などに淘汰されてしまいました。

 そのあとに、低屋根800代とは言え、なぜか身延線から迷い込んだクモハ41... 当然歓迎されるはずもなく(?)、77年8月10日に北松本担当の区間運用が廃止(松本本所へ移管)になると即座に廃車になってしまったクモハ41800。その貴重な(?)スカイブルー色の時代の画像をアップします。

 まず第1エンド側。三枚ともプレスドアの形状が異なるという賑やか(?)さ


 第2エンド側、第1エンド側ほどではありませんが、やはり2種類のドアが混在しています。


 クモハ43810では、北松本移動後撤去されていた前面行き先表示受けも撤去されていません。元々短命であることを予定されていたのでしょうか?なお77.8.17に北松本から長野工場へ回送され、9.9付けで他の43800などと共に廃車となっております。

 そして低屋根部分を模型的な角度から...


そしてクモハ41800の車歴ですが

1936年度日本車輌製造(モハ41016). 1936.11.27使用開始(東マト)→1945.6.20東イケ→1950更新修繕I(大井工機部)→1950.7.1東チタ→1951.3.7静フシ→1951.5.13モハニ改造(豊川分工場)→1956.12.10モハ復元(豊川分工場)→1957.3.11静ママ→1958更新修繕II(豊川分工場)→1962.3.29静フシ→1962.6.21低屋根改造(豊川分工場)→1969.4.11静ヌマ→1975.3.8長キマ→1977.9.9廃車(長キマ)

という経歴です (以上当時北松本支所にあった車歴簿からの取材結果および現車確認)。

クモハ41800の客室ドアのバラエティはモハニ改造の経歴と無縁ではないと言えます。

因みにこの車輌、Nゲージで模型化されているようですね。たださすがにドアのバラエティは再現されていないようですし、また模型のように大糸線の編成に組み込まれて使用されたことも、ピンチヒッター的にはあったかも知れませんが、基本的にはなかったはずです。写真のように篠ノ井・中央西線ローカルにて2輌単位で使われるのが基本だったはずです。


なお麻績-松本-上松の区間運用自体については先日の43800代の記事をご参照下さい。( http://blog.goo.ne.jp/yasuo_ssi/e/47f8dc19eeca5e6a41bbc63bdb4711ca )



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3 コメント

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3段窓の扉の窓ガラスの大きさ (原口 悟)
2015-11-23 12:39:36
大糸線の旧型国電はクモハ60形、クハ55形が主力で、昭和55年に立山黒部アルペンルートへ家族旅行へ行った時に松本―信濃大町間を利用しており、「後ろを振り向いて外の景色を見た」ことを覚えています。
大糸線独特の状況として、「登山客の利用」があり、「大きな荷物を担いで乗車する」ために、この利用形態ではクロスシートでは荷物の置き場所に困るため、ロングシートの方が向いていたという話があります。

ドアの3段窓ですが、かなり前の「我が心の飯田線掲示板」で保存車のクハ86001に付けられている「3段窓の扉」が話題になったことがあります。保存者の窓ガラスのレイアウトは上段が少し大きいのですが、昭和60年頃まで山陽本線の柳井で保管されていた時は更新時の形態のHゴム窓の扉になっており、交通科学博物館での保存に当たって交換が行われたことになります。この時交換された扉の発生源なのですが、同時期に可部線で廃車になった73系の「2段窓の扉」が有力で、2段窓に桟を追加して3段窓に修正したと考えられています。根拠となったのは窓のサイズで2段窓は上段:下段が1:1.9程度で、これに桟を追加すると窓ガラスの大きさが1:0.95:0.95くらいになり、現在のクハ86001に付いている扉の窓の形態に近似しています。
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Unknown (管理人)
2015-11-23 15:17:38
 大糸線に最初に20m車が投入された時は、ロングシートの方が登山者向きという上部の考えでクモハ41, 60やクハ55が投入された可能性もあるかとは思いますが、現場でもそう思われていたかどうかは疑問です。

 というのは、登山者が多かったと思われる大町以北まで直通する運用は急行の間合い運用 (165, 167系) が多く、長キマの旧国の運用は余りありませんでした。

 また77年に篠ノ井・中央西線ローカルが廃止されたときに、廃車となったトレーラーはすべてロングシートである在来のクハ55のみで、静ヌマから転入したクロス、セミクロスのクハ68やサハ45はすべて活かされました。サハ45はかなりのロートルでしたし、雨漏りすることもあったようですが、やはり元2等のシートが乗客に歓迎されたのではないでしょうか?

 現場レベルでは、おそらくロングシートの方が乗客サービスとしてはマイナスという判断はあったのだと思います。
返信する
Unknown (原口 悟)
2015-12-05 01:41:20
大糸線の旧型国電の運用ですが、「国鉄電車編成表」1978年版掲載の大糸線旧型国電運用のダイヤグラムを見て、信濃大町より北の旧型国電運用が非常に少ないのに驚いたことを思い出しました。また、同時期のRJ誌の旧型国電特集の大糸線の記事で、「旧型国電の弱点はブレーキである」こと、すなわち、電気制動が無いために踏面ブレーキだけで止らなければならないため、制輪子の管理に悩まされており、このため、快速運用に旧型国電を入れ、各停運用には165系を入れるようにしている、との話も掲載されていました。

一番下の写真ですが、向こう側に仙石線から来たクモハ54101が写っています。この押し込みベンチレーターなのですが、昭和45年頃の盛岡工場での工事で、「急行型電車の冷房改造による発生品」が流用されたという話があります。また、確か上記のRJ誌の記事で、大糸線にクモハ54101,109が転入した時、北松本支区でも他の車のベンチレーターの押し込み型への交換が構想された、という話が記述されていました。
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