高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

クハ47155の同僚、伊那松島機関区のクハ47153 (蔵出し画像)

2016-04-07 00:06:58 | 旧型国電
 さて、先日のクハ47155に続いて、その同僚であるクハ17153(静ママ)を紹介します。本車も元々合いの子のサロハ66018として製造されました。戦中戦後は、旧66019ほど玉突きには遭わないものの戦後1年ほどのみ、明石に出ていたことがありました。本車は戦時中の座席撤去が行われなかったため宮原に温存される期間が長かったようです。
 鳳に出されてから後の経過は、多少前後があるものの、ほぼ47155と同じです。戦時中の座席撤去はなく、戦後も急電時代のシートが維持されていたのですが、残念ながら長大ロングシート化されてしまいます。このロングシート化ですが、鉄道図書刊行会の『日本国鉄電車特集集成』(2)に収録されております「モハ42系をたずねて」(加藤弥寿雄)という記事によりますと、クハ化の時ではなく伊東区転出直前の更新修繕の時に行われたようです。(第1次)飯田線時代はサロハ由来のクロスシートに座って眺める天竜峡の眺めは良かったのにと嘆きの声が書かれています。なぜこんな無粋なことが行われてしまったのか、返す返すも残念です。ひょっとすると同僚の66019(47155)が戦中の座席撤去後、戦後の座席整備時に、混雑配慮もしくは進駐軍利用を配慮して長大ロングシート化されていて(米兵は体格が大きく日本のクロスシートは窮屈だったため、東京の進駐軍専用車はロングシートで整備されることが多かった)、それに合わせたのかもしれないとも思いますが、真相はどうなのか...

 本車の正面を見ると前面中央窓の形状がクハ47155と異なっているのがおわかりかと思います。これで遠くから見ても区別できます。また47151の方は3枚ともHゴム化されていますので明確に区別可能です。晩年のHゴム化も受けませんでした。

 では本車の両サイドともご覧下さい。


(1978.1.1 豊橋駅)


(1977.7.30 伊那松島機関区)

 相棒はクモハ51200のようです。

では車歴の方です。

1937.8.26川崎車両製造(サロハ66018)→1937.9.15使用開始(大ミハ)→1948.4大アカ→1949.9.13大ミハ→1950.9.2天オト→1951.11.12静トヨ→1952.2.29改造(クハ47021 豊川分工)→1954.6.19更新修繕I(豊川分工)→1954.6東イト→1958.12静フシ→1959.12.22改番(クハ47155)※→1969.4.11静ヌマ→1971.5.1静ママ→[1976-2全検浜松工]→1978.10.19静トヨ→1979.2.5廃車

 なお、本車は1959年改番前は47021であり、同僚の47022とは異なりずっと奇数向きだったと考えられます。これは1957年、それまで伊東支区にいたモハ42が静鉄、広鉄に転出した後、後を襲って田町から移動してきたモハ43の大半が奇数車でしたが、一部偶数車が含まれていたのは、本車と連結させるためだったと推定されます。当時伊東支区に在籍していた本車を除く他の制御車はすべて偶数車であったと考えられます。
 なお、前照灯の埋め込みは、151, 153も同様ですが、身延線転出時に行われています。

※『旧型国電50年』データ。なお『旧型国電ガイド』では改番日を1960.1.23としている。書類上は1959.12.22改番で (1959年12月22日付け工車第1528号達)、それが実際車体表記に反映されたのがおそらく1960.1.23ではないか。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
向き (白い陽)
2016-04-09 21:31:42
ここのところ、向きの話題が多いようですが、また失礼しまして。

国鉄電車のあゆみ によりますと、この47021.47022について「…運転台(奇数向き)がつけられ制御車となった。更新は29年度実施され、偶数向きとなって伊東線に入ったが、非貫通のため中間に組めず、再び奇数向きに戻った。」とあります。掲載されている写真は47021で改造から間もない1952.3撮影です。

国電車両写真集には1955.12撮影の47022が載っていますが、不鮮明ながら既に奇数向きのようです。

更新直後、伊東線で偶数向き使用の写真が見つからないので国鉄電車のあゆみの記事の信憑性が疑われるのですが、一つ気になる点があります。
というのは、47153も47155も、運転台側の車体の栓納めが台座付きになっていることです。
先の改造直後の写真では栓納めは車体に直付けになっているのに、身延線転属後初期だとジャンパ線を引っ掛けて納めるタイプの箱付きと時代が退化したような状態でした。そして末期の飯田線だと台座を付けて栓納めを設置してある状態。

栓納めは奥行きがあるため、後付けする場合には台座付きとして工事を簡略化する工法が多く見られ、この事から推測すると、国鉄電車のあゆみに記載の通り、更新で偶数向きとなり栓納めも撤去、栓納め跡の穴も埋めたものの、再び奇数向きにする必要が生じ簡易的な栓納め箱を設置、その後台座を付けて栓納めを正式に設置した、のではないかと推定しているのですが、いかがでしょうか?

実はこれと同様の理由から、台座付きの栓納めを設置している43013(芝生さん撮影の飯田線入線直後はやはり栓納め箱を設置)も、再々方向転換車の可能性があったりするのかも、と勝手に思っております。

長々と失礼しました。
返信する
re: 向き (管理人)
2016-04-09 23:23:58
 なるほど。47021, 22は元々は奇数向きでしたか。『国鉄電車のあゆみ』の記述は見ていませんでした。

 ただ伊東線で偶数に方向転換されたという『国鉄電車のあゆみ』はおそらく正しいようにと思います。そして、方向転換されたとしたらそれはおそらくS32.3ですね。

 というのは、S32まで東イトにはモハ42がいましたが、S32.3に東チタから流れてきたモハ43に押し出されて静岡局、広島局に転出します。

 当時制御車はこの47とクハニ67900代、クロハ49がいましたがクハニ67とクロハ49は偶数車だったので、47が当初両方とも奇数向きだとすると、制御車が奇数、偶数入り乱れていたため、モハ42が重宝されていたものと思われます。

 それが横須賀線で余った奇数のモハ43が大挙して押し出されたため、一部偶数車が含まれていたとは言え、運用に困ってクハ47を偶数転換したのではないでしょうか。... と考えるとモハ43005はかなり早い段階、上京直後かあるいは戦災後関西時代に偶数車が足りなくなって方向転換されていた可能性は高いですね。一部偶数車を伊東に出してモハ43005をわざわざ偶数に方転する意味がありませんから。

 静岡局は偶数Mcを欲しがっていたため、余った奇数のモハ43を押しつける訳も行かず、玉突きでモハ42を押し出した、といったところでしょうか。宇部の方はモハ42の転入でモハ12を置換えているので、積極的に両運車を希望していたように思われます。

 そしてクハ47は静岡局の転出(S32.12~S33.2)でまた元の奇数に戻された... でも当時の飯田線はモハ52あたりが入ってきてMcを偶数に揃えるという方針も崩れ始めていたはずなので、律儀に奇数に戻す必要はなかったようにも思うのですが..
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。