高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

中部天竜機関支区のクモハ51019 (蔵出し画像)

2016-01-01 00:00:05 | 旧型国電
 皆様あけましておめでとうございます。ところで新年、1回目の旧型国電紹介記事ですが、極めてオーソドックスに始めたいと思います。

 さて、1978年10月の改正で80系が導入されるまでは、豊橋機関区中部天竜機関支区 (後の佐久間レールパーク) には11輌の電車が配属されていました。その1輌は先日紹介した、最後まで国鉄に残った木造電車サエ9320でしたが、その末期には、営業用の電動車はすべてオリジナルのクモハ51 (15, 19, 23, 44, 46)できれいに揃っていました。残念ながら78年にすべて廃車になってしまいましたが...
 今考えると、わずか10輌の配置で車輌の検修までやっていたなんて、奇跡的というか、今だったら不合理だとされ到底考えられないところですが、おそらく労働組合の抵抗のお陰で、あの頃まで三信鉄道時代の遺産が残されたということなのでしょう。

 で、こちらはその1輌、クモハ51019(静チウ)です。本当は一番若いクモハ51015をと思ったのですが、きれいに撮れている写真は探せず...





 ほぼ同じ角度から豊橋駅で撮った写真ですが、カラーのものは77年12月、モノクロのものは75年5月に撮ったものです。でも両方とも変61運用なので、2年半の歳月は空いていますが全く同じ列車を撮ったものでしょう。
 因みに、本来の中部天竜支区61運用というのは、早朝、2両編成単独で新城を622Mで出て豊橋に向かい、折り返しで623Mとして中部天竜に入ってそのまま入庫してしまうという運用でした。それが変61運用になると、クモニ+Tpgc付の豊橋42運用で構成される1222Mに中部天竜から増結され、そこでクモニを切り離して折り返し辰野に向かう1223Mになって、多分中部天竜で解結して再び入庫する、という連休などの多客時用臨時運用だったのだと思います。したがってこの写真は両方とも1222M→1223Mとなる豊橋折り返し時の写真と思われます。

 なお、例によって『関西国電50年』によりますと、この車の車歴は、

1937.4 汽車会社東京支店製造 (東ミツ) →1943.11.10座席撤去改造(大井、モハ41074へ改番)→1950.5.22大ミハ→1951.5.1座席復旧 (ロングシート)→1952.4.30セミクロス化復元改造 (吹田、モハ51019へ復番)→ 1953.9.30更新修繕I(吹田)→1956.3.1大タツ→1962.9.15大アカ→1969.4.24静チウ→[全般検査1977-2浜松工※※]→1978.10.1静トヨ→1978.11.28廃車

※※現車確認

 元々は中央線ハイキング電車として関東で働き、クモハ42グループと交換に大阪へ転出、そして最後は中部天竜でずっと過ごしたようです。関東で13年、関西で19年、最後は飯田線で9年過ごした計算です。運転台窓もHゴム化されることなく、パンタもPS-11を維持し、オリジナルに近い姿を最後まで維持していました。