延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

山間部集落はどうして分散しているのか。

2010-04-06 04:10:55 | ヤマの暮らし

狩猟活動は農耕以前から人類が行ってきた生業活動の一端だ。もっと言えば、人類以前より行われている生物が生きていくための根本的な捕食活動である。

ところが狩猟活動従事者というのは、特に現在の日本においては極めて減少している状況にある。

3月末に延岡市の文化財保護審議会の関連で、川水流(かわずる)にある標高80mの小高い丘の上の発掘調査現場を見学した。

縄文時代早期・後晩期、古墳時代初頭に属する遺跡である。ヤマを利用した生活空間ではあるが、縄文早期とそれ以降とでは、恐らく大きく利用形態が異なってくる。

早期、つまり10,000年前から6,000年前位の時代においては、ヒトは平地に住居を構えるようになる一方で、山間部においては洞穴/岩陰での居住も多い。またこの時代の遺跡からは拳大の石を集めて食料を蒸し焼きにした痕跡が多く見つかる。

縄文後期・晩期はこれよりずっと時代が下る。約4,000~2,300年前あたりの時期だ。低湿地への進出が進み、シイの実のような堅果類を加工する場が多くみつかったりする。

標高の低い低湿地や海岸部の海蝕洞穴で遺跡がみつかる一方で、特に宮崎県北部や大分県南部等では、奥深い山間部でも生活の痕跡がみつかる傾向にある。焼畑が行われていた可能性も高い。

遺跡では恐らくこの時期にあたるだろう、陥し穴(おとしあな)が確認されている。陥し穴はよくみると微妙に窪み、丘の高い所から低い所へと続く経線、すなわち獣道であったと考えられる位置に仕掛けられていた。この事は現在の罠猟での仕掛けの位置的関係と一致しており、動物の生態を熟知した者によって仕掛けられたと考えられる。そしてこの原初的な農耕活動が行われていた空間にとっても、さらに現代の農業にとっても、山間部という場に共通しているのは、この猟が有害獣駆除的な意味を持っていた可能性がある、という点である。

古墳時代初頭期の住居跡もみつかっている。2軒だけ、ぽつんとした"イエ"だ。考えてみれば、これは現代、正確に言えばつい最近まで焼畑を行っていた県北の山間部集落の様相ととてもよく似ているのではないか、と考えてしまうのである。

椎葉村や諸塚村を調査した際、現在の感覚からするとどうしてそんな山奥に1軒ないしは数軒だけぽつんとイエがあるのだろう、と思ってしまったが、よくよく考えるとこれはこの古墳時代の集落と同じだ。焼畑という高所で一定の面積を必要とし、耕地を数年毎に移動する生業活動の場合は、低地における農耕活動のように集約した労働を行わなくともこれで済んでしまうし、生産性も必ずしも高くはないから人口は分散していた方が都合がいい訳だ。

山間部集落は決して過疎化しているのではなく、焼畑のような生業活動をおくってきた場合にはこのように広く分散した集落形態をとって適応している、と考えられるのかもしれないなあ。


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