浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

ヒラリー・クリントンのミャンマー訪問

2012-02-03 23:43:10 | 資料

ミャンマー(ビルマ)は、元英国植民地では異例の非英国的右側通行を採っている。というのもビルマ人はイギリスが大嫌いだから。

英国人はさまざまな手口でビルマ人のアイデンティティーを奪った。十九世紀末には国王以下の王族をインドの果てに島流しにして、国民の求心力を奪った。

国王の娘、美貌のファヤ王女の消息をほぼ一世紀ぶりにヒンドスタン・タイムズ紙が報じた。王女は英植民地軍兵士の愛人にされて貧困の中で死に、その娘、つまり国王の孫娘ツツは「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立てている」という。
おとなしいビルマ市民がこの王家の悲劇を語るとき、本当に怒りで唇を震わせる。

英国は国王を追放したとき、ついでに黄金の玉座も失敬した。戦後、国連を通じて返還を求めたが、戻ってきた玉座は穴だらけ。はめ込まれたルビー、ダイヤなどの宝石がすべて英国人に盗られていた。

そういう過去があるからビルマは独立するとすぐに英国のにおいのするものはすべて排斥した。ヤンゴンの外語大も、英語を教科から外し、日本語を入れた。交通ルールもそのときに英国流の左側通行から右側通行に変えた。

国父アウンサンの暗殺後、英国に渡ったきりの一人娘スー・チーが三十年もたって英国人の妻になって戻ってきたとき、ビルマ人は正直、戸惑った。彼女は英国人になりきっていたからだ。

 「政治集会やデモの場合、どこの国もそうだが、ここも届け出制にしている。しかし、彼女は故意にそれを無視する。政府がたまりかねて規制すると『民主主義を弾圧した』と騒ぎ立てる。」彼女は骨の髄まで英国人になっていたのである。

英国に次いでビルマの人々は、中国を嫌う。中国人は植民地時代に入り込み、英国人のよき手先となってビルマ人を搾取した。英国人が引き揚げたあとも彼らは居座って経済実権を握り続けた。
ネ・ウィンが鎖国政策をとったのも、ビルマ経済を停滞させて商売のうまみを消し、彼らが愛想を尽かして出ていくのを待つ、という意味があった。

だから生活は貧しく不便だったが、国民は我慢した。それが自分の国を取り戻すためだと知っていたし、同じような状況のベトナムが華僑追放という強制手段を選んで、戦争(中越紛争)に巻き込まれたのよりは、ましな方法だと認識していたからだ。

しかし、中国人はビルマ乗っ取りにもう一つ、手段を講じた。共産ゲリラの侵入だ。彼らは社会不安をあおりながら南下し、七〇年代にはヤンゴンのすぐ北のペグーにまで進出した。
これを掃討したのが今の政権を担当するタンシュエである。

中国人といえば、タイの華僑もしたたかだ。モン、カチンなど山岳民族をけしかけてビルマ大政府と対立させ、武器弾薬を売ってはチーク材を手に入れていた。「中国」というだけでビルマ人は顔をしかめたものである。

ところが九七年に当時のD・エーブル計画経済相に会ったとき、側近から会見の場で「中国の批判は避けてほしい」といわれた。
スー・チー問題を口実に欧米がミャンマーに経済制裁を科し、日本が右にならえをしていたころである。この国の経済はそれでほぼ破綻しようとしていた。

その窮状に援助の手を差し仲べたのがほかならない中国だった。
 ”英国人スー・チー”に屈するのか、嫌いな中国の援助を受けるのか、究極の選択を迫られたビルマ人は結局、中国を選んだ。

今、ヤンゴンの表玄関、イラワジ川にかかる鉄橋が中国の支援で建造された。
ネ・ウィンと国民が死ぬ思いで耐え、そして出ていってもらった中国人がそれを渡ってわんさと戻ってきた。
王都マンダレーの街中には漢字の広告が大威張りで立ち並んだ。中国の経済植民地化にもがくミャンマーの姿である。

だから、中国の批判をこっちが言えば、政府首脳は何とも答えられない。「その辺のところを察して欲しい」というわけだ。

そのミャンマーに、もっと苦しいはずのユーゴが三千万ドルもの経済援助を約束した。
妙な話には裏があって「実は日本から巨額のODAを引き出している中国が背景にいて」(産経新聞バンコク特派員電)、ユーゴを迂回して援助しているという。中国政府は強い調子でこの説を否定するが、日本のカネが回り回ってミャンマーのクビを締め上げているのは間違いない。

日本のマスコミがただ、軍事政権だから…とか、欧米が非難しているから…とかの基準で非難するだけでは済まない問題なのである。骨の髄まで洗脳されている日本人には、到底理解出来ない裏が有ると言うこと。

自分達の手を汚さずに植民地を統治したり、戦争をしたりするのに、適当な代理人を使うという手法は実は英国の発明による。

何億もの民がいるインドをわずか二千人の英国人が統治できたのも、宗教や人種対立を利用した分割統治に加え、シーク教徒を巧みに使いこなせたからだ。

ミャンマーでも仏教徒のビルマ人国家に、インド人や華僑を入れて複合民族国家に改造し、さらに山岳民族のカチンやモン族を山から降ろして警官や軍人に仕立ててコントロールした。

チャーチルは「ウイスキー、たばこ、ソーセージ、新聞があるだけでわれわれは不便を感じることなく世界を征服した」という。

それは謙遜で、ほとんど芸術的なまでの味覚音痴、つまりどんな食事にも不満がないことと、分割統治のようなずる賢さがあったからこそ、あの偉業は成し遂げられた。

ただ、そのあとがいけない。あの米国やオランダでさえ手先に使った人々を切り捨てていないというのに、英国はそれさえしなかった。さっさと逃げて、後は知らんぷりを決め込んできた。

おかげでミャンマーは華僑、インド人の追い出しと、山を下りた山岳民族との抗争で半世紀もの混乱を続けてきた。

インドではシーク教徒の確執で黄金寺院の大虐殺が起き、その報復で首相が暗殺され、その報復の報復で多くのシーク教徒が生きながら焼き殺された。英国の無責任さが生んだ悲劇だが、西側のメディアはどこもそれには触れなかった。

軍事政権ミャンマーが頑なに世界から背を向け、西側の非難を浴び続けて中国共産党の衛星国と化して来たのにはこうした事情が有った。

ところが、軍事政権に代わり昨年3月に発足したミャンマー新政府のテイン・セイン大統領は同年9月末、軍政当時にミャンマー北部カチン州ミッソンで中国と共同で進めてきた水力発電用ダムの建設中断を突然表明した。

「政府は中国に逆らい、初めて国民の声に耳を傾けた」。ダム建設に伴い移住を強いられた周辺の住民は安堵し、政府の決定を歓迎する。建設現場からは中国人作業員の姿が消え、工事は完全にストップした。

 州都ミッチナの北約45キロ。ダム建設現場は北方から流れる2本の川とイラワジ川の合流地点にある。工事は約2年前に始まり、深い緑に包まれた山は一部がごっそり削り取られ、コンクリートで固められていた。

中国人作業員らのプレハブ宿舎がずらりと並び、トラックやショベルカーなどの重機が数十台残るが、工事中断で作業員は一斉に撤収、響いていた重機の騒音もぱったり止まった。

 ■ミッソンダム ミャンマー北部カチン州のイラワジ川上流で、中国国有企業「中国電力投資集団」が36億ドル(約2800億円)を投資してミャンマー企業と合同で2009年から建設を進めてきた水力発電用巨大ダム。発電量の約9割が中国に輸出される予定だった。

軍事政権は建設を推進してきたが、新政府のテイン・セイン大統領は9月末に中断を表明。中国側は見直しを求めている。周辺の村から約1万人の住民を段階的に移転させる計画があり、住民や環境保護団体、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんも建設に反対していた。(ミッソン 共同)

そこへ昨年、2011年11月30日、クリントン国務長官が乗り込んで来た。

米国の急接近で中共の属国化シナリオが崩れ始めた。反シナ感情の高まりを受けて巨大“売国ダム”の開発も凍結。新大統領が打ち出す融和策に“眠れるビルマ”が動き出す。

ダレス長官以来、実に56年ぶりとなる米国務長官の訪問。世界から半ば忘れられていたビルマが国際ニュースのトップに躍り出た。それだけでもビルマ国民にとっては朗報だ。

クリントン長官の“歴史的な”訪問は、静かに始まった。11月30日の到着、そして翌日開かれたテインセイン大統領との会談も、報道はやや味気ないものだった。

大統領との会談に臨む12月1日

一転したのは、アウンサンスーチーさんとの対面だ。国際的な知名度を誇るビルマ唯一の人物。報道もボリュームを増し、著名な女性政治家同士のツーショットは、今回の訪問を象徴するシーンとなった。

米施設での非公式会談12月1日

「私達が手を携えれば、民主化への道が後戻りすることはない」

会談後、スーチーさんはそう宣言した。クリントン長官も支援・協力を惜しまない発言を繰り返したが、際立っていたのは、会談内容よりも表情だった。

先日のテインセイン大統領との会談でクリントン長官は、厳めしい表情を崩さなかった。ところが、スーチーさんとの対面時は、終始笑みを絶やさない。報道を意識した巧みな外交テクニックである。

スーチーさんとの対面12月2日

また会談も1日夜の非公式を含めて2日連続。異例の厚遇ぶりを見せつけ、短時間で終えた大統領や外相との会談と差を付けた。外交儀礼上、問題となるスケジュール組みだが、堂々と行うのが米国流だ。

あからさま待遇差別は、米国内のリベラル強硬派に向けではなく、ビルマ国民を意識したパフォーマンスだったに違いない。今でもスーチーさんは国内で高い支持を得ている。

今回のクリントン訪問に合わせ、国際メディアの報道陣が大挙してビルマに入国した。大幅に報道規制が緩和されたのだが、そこでカメラは信じられない光景をキャッチしていた。

【蘇った“アウンサンの肖像】

ラングーン市内の露店で売られるスーチーさんのポスター。一箇所ではなく、複数の店で大量に飾られている。2年前には、想像も出来なかった現象だ。

ラングーン市内の露店12月2日

これまでビルマ軍事政権は、国内メディアがスーチーさんに触れることを徹底規制。国民が密かに語る時に用いる「ザ・レディー」という二つ名さえも厳しく摘み取ってきた。

以前なら、写真を並べた時点で売り子は拘束されたはずだが、平然と掲げられ、市民も報道カメラを気にせず買っていく。海外報道向けの小芝居には見えない。劇的に変化しているのか…

ポスターを購入する女性12月3日

スーチーさんの隣のモノクロ写真は、父親のアウンサン将軍だ。我が軍がスカウトし、リーダーとして重用したビルマ独立の英雄。軍事政権樹立後も国父として揺るがない地位を保っている。

免罪符として“セット販売”されているようにも見えるが、一方でスーチーさんの立場を端的に表現している。ビルマ国民にとってはノーベル平和賞受賞者や民主化指導者である前に伝説的な英雄の愛娘なのだ。

 「国会補選に立候補したい」

 クリントン長官が政治都市ネピドーに降り立った日、スーチーさんは補欠選挙への出馬方針を初めて公の場で表明した。今春に予定される上下両院の補選。参戦すれば当選は確実だ。

補選の議席数は40。スーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が圧勝しても、発言力は限定的だ。国政を左右する勢力にはならず、逆に新体制を容認するだけに終わるとの懸念もある。

 今回のクリントン訪問に関連して、メディアは総じてビルマの現体制を「民政移管」と表現した。何のエクスキューズも付けていない。まったく、軍事政権側の思う壷だ。

ラングーンのダウンタウン11月

2010年11月に行われた総選挙は、投票操作が疑われる以前の形式的なセレモニーだった。議席の25%は、軍人が無投票で当選。“圧勝”したUSDPは軍政の翼賛組織が政党に衣替えしただけだった。

少数民族系の議員も誕生したが、議会の殆どは軍幹部で構成。昨年春に発足した新政権もホテル観光相といった本気でどうでもよいポストを除き、少将・中将クラスが独占している。

この政体を「民政」と呼ぶメディアは余りにも浅はかだ。大統領に就任したテインセインは大将で、軍の序列は4位。軍政のトップに君臨したタン・シュエの忠実なイエスマンとされる人物だ。

偽りの民政移管。総選挙の最中も、新体制の発足以降も欧米メディアの冷めた見方を続けた。旧態依然のビルマ情勢だ。ところが昨年夏になって変化の兆しが現れる。

労働相と会談したスーチーさん2011年7月

7月末、新政権の労働相がラングーンの迎賓館にスーチーさんを招く。総選挙後、政権側と会談するのは、これが初めてだった。続く8月にはネピドーに呼ばれ、テインセイン大統領との会談が実現した。

大統領との会談8月

いずれも会談時の写真では露骨に不機嫌そうにしているスーチーさんが印象的だ。政権側が歩み寄る姿勢を明確に示したのが、この時点で各国の専門家は懐疑的な見解を示していた。

そうしたビルマ・ウォッチャーを含め、国際社会を驚愕させたのが、唐突な巨大ダム計画凍結宣言だった。

工事が止まったダム建設現場10月

「私の任期中は開発を中止する」

テインセイン大統領は9月30日、北部カチン州で建設が始まっていた「ミッソンダム」の開発凍結を発表した。タンシュエ時代の決定を大統領の一存で覆す異例の事態だ。

ミッソンダム開発は、前政権が中共と契約を結んだ大型プロジェクト。中国国営企業が36億ドルを投じて2年前に着工したが、建設が進むにつれて国内で批判が高まっていた。

契約によるとダムは完成後50年間に渡って中共が運用し、発電量の90%を中国国内に送電。そして開発に伴いカチン人の約50村が水没、粗末な補償のみで強制移住される村民は1万人を越えるという。

ビルマの民主化グループは、ダム開発がカチン住民への武力攻撃の背景にあると糾弾。スーチーさんもダム開発が社会・環境への深刻な影響を与えると訴える「イラワジ・アピール」を8月に発表した。

ダム反対の展示会で9月22日

テインセイン大統領の凍結宣言も自然保護を理由にしたものだった。しかし、ミッソンダム批判の背景にあるのは、ビルマ国内に広がる反中国感情だと見られている。

これまで巨大ダムの開発をめぐって軍政幹部が中共から賄賂を受けていた疑いが浮上。ビルマのシンボルであるイラワジ河本流にダムが築かれることから「国の宝を売り渡した」との声も噴出していたのだ。

現在、ビルマ国内では反中国感情が拡大しているという。2年前、ラングーンに中国製チープ家電などは見かけなかった。もっとも商品自体が泣けるくらい少ない…

だが、ビルマの旧王都マンダレーでは、中国人・中国資本による土地の買い占めが急増。旅行者の報告によると漢字の看板も目立ち、チャイナタウンさながらに激変しているという。

 

マンダレーの爆破事件6月24日

中共は雲南からマンダレーへの高速道路建設も計画。ビルマ第2の都市から占領する策略なのか…古都の急速な中国侵蝕にビルマ国民が強い危機感と嫌悪感を覚えるのも当然である。

こうした状況下でテインセイン大統領が“売国ダム”の凍結を打ち出したことは画期的だった。同時に、ビルマの完全な衛星国化を図ってきた中共にとっては、まさかの“叛乱”だ。

「双方が友好的な話し合いを通じて適切に処理すべきだ」

凍結宣言の翌日、中共外交部はそう述べるに留まった。これまでの“上下関係”からすれば、制裁措置をチラつかせるケースだが、北京にとって「寝耳に水」の事態だったのだ。

中共が強硬な態度を避けたのは、米国とビルマの急接近を感じ取っていた為だろう。9月29日にはビルマの外相が米国務省を訪問し、高官と相次ぎ会談。その直後の凍結宣言である。

 

UN総会で演説する外相9月27日

そして11月18日、米国の新たな動きが判明する。東アジア・サミットでバリ島を訪れていたオバマ大統領が、クリントン長官のビルマ訪問を発表。これが中共首脳に与えた衝撃は大きい。

東アジア・サミットでは、南シナ海問題で狼狽した中共が米国に緊急会談を懇願し、注目された。その影で、温家宝・テインセイン会談が開かれなかったことも興味深い。異例の事態だ。

 

東アジアサミットの3人11月19日

米国のビルマ急接近は、クリントン長官の「前方展開外交」に見られるアジア回帰や中共包囲網の文脈で論じられる。その見方も誤りではないが、北朝鮮問題が重要なファクターであったことは間違いない。

「北朝鮮に対するUN決議を尊重し、同国との違法な関係を断ち切ることを期待する。核不拡散への協力が不可欠だ。」

クリントン長官は1日の会談でテインセイン大統領に直言した。「違法な関係」と言い切る辺りが強烈だ。しかし、実際にビルマ軍事政権と平壌との軍事面の繋がりは周辺地域を揺るがす深刻な問題だ。

 

ビルマと北朝鮮両軍の調印式2008年

ビルマ軍事政権は2008年に北朝鮮と兵器支援などの覚書に調印。地下軍事施設の建設が発覚した他、核関連技術やスカッド・ミサイルの提供も指摘される。

北朝鮮にとってビルマは数少ない輸出相手国であり、五指に満たない友好国。新政権が関係断絶に踏み切れば、金政権は大切なカネ蔓を失う。米国のビルマ接近は中朝に大きな影響を及ぼすのだ。

クリントン長官の訪問直前、中共はビルマ軍の総司令官を呼び寄せ、軍事交流の強化を約束させた。当てこすりの歓迎だが、わざわざ虐殺犯を招いて握手…これが逆効果とは思わないらしい。

 

ビルマ軍総司令官と習近平11月28日

大将だったテインセインは、就任後も軍政トップのタンシュエの操り人形と評されていた。ビルマの最高権力者は実質的に変わっていないという見方である。

その評価は昨夏以降の相次ぐ融和策で徐々に変化。開明派の大統領と強硬派の副大統領が対立しているとの説まで浮上している。軍政幹部の中でも中国利権とは無縁な一派があっても不思議ではない。

 

訪印したテインセイン大統領10月

当然、軍部内にも中共の衛星国化を嫌う勢力は存在する。似た関係にある北朝鮮はロシア・カードを使い、完全属国化を免れてきたが、ビルマには切り札がない。近い将来、呑み込まれるのは必然だった。

一方、米国との急接近を嫌う親中派が逆襲に出る可能性もある。テインセイン政権は旧最大野党NLDの合法復活を認めたが、次の総選挙が公正に行われれば、政権交代は確実。今の偽りの民政は崩壊する。

 

ラングーンのNLD事務所11月

また10月の一部政治犯釈放に続き、新たにデモ・集会も原則的に認めた。以前同様に厳しく規制しない限り、国民の間に鬱積する反政府の声が一気に表面化するのは時間の問題だ。

矢継ぎ早に打ち出す融和策。それは新政権が自爆ボタンを押し続けているようにも見える。果たしてテインセインは、ビルマのゴルバチョフ、あるいは趙紫陽となるのか…

クリントン訪問を報じる地元紙

米中の熾烈なつば迫り合いがスタートすると同時に、ビルマは否応無しに激動のただ中に放り込まれる。