20170831
8月も最後の日となった。
先日テレビで放映していた染色についての番組だったのだけれど、その番組を見ていて染色と自然農について似たような流れになっているのだなあと思った。そして心強くも思われた。その話が大変印象的だったので、話題として取り上げられていた吉岡幸雄さんについても読んでみたいと思ってこの本を読み始めた(見出し画像)。
吉岡幸雄 ;染色家・染色史家。1946年京都生まれ。生家は江戸時代から続く染屋。大学卒業後、美術図書の出版社を設立。1988年に家業「染司よしおか」15代当主を継ぐ。毎年東大寺・薬師寺・石清水八幡宮などの神社仏閣の行事で使用する染和紙などを植物染で納品したり、伊勢神宮や春日大社の伝統的行事にも仕事をしている。東大寺・法隆寺などの天平・奈良時代の衣装や装飾品を天然染料で再現製作しているという。
本のカバーには「日本人ほど色の名前について豊かな表現ができる民族はいないのではないだろうか。四季折々に移り変わる自然の美しさに目を据えて、数え切れないほどの色名を造語してきた。そんな日本人が好んだ古代色を「染司よしおか」が再現する」とある。
吉岡さんの染色に関する実績をHPで見ると驚いてしまう。HPはこちら。
海外で多くの賞賛を受けているという事は、特別日本人だけが色の区別ができる訳ではないということにホッとしたりもする。色の微妙な差を区別し名前をつけて色を味わい、その色合いを染色のような形で再現していくというのはあるいは日本人の特性なのかもしれない。色の微妙な差に感動し話題にするかという部分では特性があるのかもしれない。
回りくどくなったが、自然農との関りについてだが。
平安時代の武士の甲冑が茜色の糸?紐?で装飾してあるのだが、近世(明治期?)になって傷んだ紐の部分を修復したという。しかしその際の修復部分の紐の染料は茜色でも化学染料が使用されたらしい。現在になるとその甲冑の紐の部分は以前修復しなかった平安時代の茜色の紐は鮮やかな色合いを出しているのだが、明治期に修復した紐はかつての茜色の色が落ち、薄い桃色になってしまっている。
この画像を見た時に、改めて平安期の染色技術に驚き、化学染料など人工的な色の薄っぺらな、儚(はかな)さのようなものを感じた。
古代色は主に植物などから色素などを取り出して布に色を付けていく。800~900年経っても布などに鮮やかな色合いを残している。しかし化学染料導入当時にはその退色の様子をみることなく、簡単に同じような色合いが出せると多くの染色業者は化学染料に切換えてしまった。その影響で植物などから染料の色素を抽出する技術、さらには染料を取り出すために栽培していた植物栽培自体が無くなってしまう事になる。古代に微妙な色の差を染色で表現するために長い時間と知恵で編み出してきたノウハウも無くなってしまうのです。技術や植物を絶やすのは簡単ですが、それを再生させる吉岡さんたちの苦労は大変なモノだったのでしょう。
農業においても、かつては身の回りにあるもので工夫し作物を育ててきた。しかし農薬や化学肥料が出回ってくると、それらに依存するあり方になる。便利で楽な方法が一般化すると多くがそちらへ流れる。そこには「明日の百円より今日の十円」という心理があるのでしょう。自然農やたんじゅん農が良くて、慣行農業が悪いと決めつけようというのではありません。染色も化学染料は使わず、古代染料に変えなさいと申し上げているのでもない。
何でも陰陽があるように、良いところがあれば都合悪いところもある。慣行農業にも、もちろんたんじゅん農にも良いとこも都合悪いとこもある。私は便利で楽な方が必ずしも良いわけではないと云いたい。野菜なども肥料や薬剤で生産者にとって楽に出荷できる野菜が収穫できることは都合いいかも知れないが、過保護気味に育てられた野菜の味わいよりは、しっかりと時間をかけて自分の力で必要な養分を蓄えて育った野菜の方が味わい深いと云いたいのです。そういった野菜が育てられたら、食べれるようになったら幸せだろうなと思って、いろいろ試行錯誤を積み重ねています。
本当の色、様々な色合いの違いを目の当たりにすると古代色の奥深さや微妙な加減を感じることができます。野菜もあまりニンジンらしくないあっさりしたニンジンよりも、個性的は味であっても主張してくるようなニンジンの方が生命力を感じますし、野菜を味わっている実感がありますよね。こうなってくると嗜好品の範疇ですね。
楽をして売れる生産者都合の野菜ではなく、どう育てることが自然の法則に沿った野菜を育てることになるのだろうかと考えながら作物に向き合うたんじゅん農の存在価値があると思うのです。もちろん薬剤やホルモン剤を使い、化学肥料で窒素を畑にばら撒いて作る野菜もあるし、そういうスーパーで売っているような野菜を何も考えずに買う消費者もたくさんいます。いろいろよく考える人が増えるといいと思うのですが、買う人がいる限り作る人がいます。それはそれで否定はしていません。