河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その26 幕末「松陰一人旅」③

2022年10月10日 | 歴史

2月15日 晴 
なおしばし佐渡屋に逗留する。
董其昌(とうきしょう)や趙礼叟(ちょうれいそう)などの中国の画家および空海の書や雪舟の龍虎図などを観る。
どれもこれもめったには見ることの出来ないもので、節斎先生も大いにお褒めになっていた。
また、伊勢神戸藩が河内の国に7000石を領しているが、近頃は財政困難に陥り、新しく領民たちに法令を掲げていうことには、
「百両出せば名字帯刀を一代だけ許し、百五十両出せば苗字は世襲として帯刀は一代だけ許す。二百両出せば苗字太刀を世襲、二百五十両出せば名字帯刀持槍を世襲、三百両出せば名字帯刀槍騎馬を世襲とする」
これによって7000石の地ながら三千両を得て、借金をことごとく返却したという。
河内大和は公領(幕府直轄)で、管轄する組頭である伍長(五人組頭)や年寄(庄屋の補佐)や庄屋(村の長)は代官がたばねているのだが、代官の中で領国を持っている者はおおよそは領国に帰っていて公領にはいない。
 ※伊勢神戸藩河内領=現在の長野小学校(西代陣屋跡)とその西隣にある西代神社一帯。
 ※武士の身分の売買や管轄地に代官がいないことなどは、長州藩では考えられないことだったのだろう。

2月16日 雨
安芸の相撲取り緋縅(ひおどし)のこと及び若狭小浜の僧琅山(ろうざん)から明徳説を聞く。
〇将棋の名人天野富三郎・紀州の小林東四郎のこと。
〇肥後の相撲取り不知火(しらぬい)のこと。
〇本因坊道玄が朝鮮人と碁盤を囲み、朝鮮人が今風の詰碁で、道元が本来の詰碁を用いたこと。
 ※明徳説=儒教の経書の一つ『大学』の中の、「自分が生まれつき持っている素晴らしい徳を明らかにせよ」という説。
 ※緋縅=阿武松・稲妻とともに「文政の三傑」と呼ばれて人気を博した力士。
 ※不知火=秀の山・剣山とともに「天保の三傑」と呼ばれる。大関になって横綱免許を受けたのに関脇に下げられたという。

2月17日 晴
大和郡山15万石は松平甲斐守時之助、泉州岸和田5万3000石は岡部美濃守、大和高取2万5000石は植村出羽守
植村氏は土岐氏より出で、明智光秀と同族なり。今はこれを忌みて、土岐を改めて土喜と称しているという。家紋は三ツ割桔梗。
〇河内和泉では、女性は非常によく働き、男子もまた暇があれば綿を紡いでいる。なんとも珍しいことだ。
 ※植村出羽守=高取藩の第13代藩主家保。文久3年(1863)には天誅組の変で天誅組と戦い勝利している。

2月23日 晴
14日より今日に至るまで富田林に逗留する(=10日間)。
再び節斎先生に従い和泉岸和田に向かう。富田林を出発して、低い丘(羽曳野丘陵)を越え、南野田村を通る。館林領である。
福町で昼食。制令(高札?)には小出伊織[和泉陶器藩主]とある。土生(はぶ)を経て岸和田に着く。行程六里(24k)。
四方はみな菜畑・麦畑。土地は肥沃で、生き生きとして青々と茂っている。
節斎先生が途中で詩を詠んだ。
 人情反して(=意に反して)雨や雲覆うも(=が)
 気は我に似て楼たるは(=気高い)は独り(=ただ)君有るのみ
 他日忘るるなかれ河内の路
 輿中輿外(=駕籠の内と外とで)共に文を論ずるを
夜、相馬一郎[藩主に仕える儒者]を訪ねる。 以下省略  

④につづく

勧進大相撲繁栄之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)


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