河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その四 古墳時代 ―― 太陽の道

2022年02月01日 | 歴史

 高校二年生の二学期の中間試験の真っ最中だった。苦手な日本史の試験を明日に控えて、私は離れの自室で試験勉強をしていた。そのとき、庭に面した部屋の窓を誰かがコツコツとたたいた。窓を開けると春やんがのっぺりと顔を出した。

 「お父ん、居るか」

 「居てへんで、まだ田いえ(田畑)や」

 「お母んは」

 「田いえ」

 春やんは「ほおっ」とため息をもらし、続けて「ああ・・・」と嘆息した。

 私は「ややこしい話」で相談に来やはったとすぐに思った。というのは、このころ、春やんは隠居して、一人息子に家を譲っていたのだが、その息子さんというのがけっこうな遊び好きで、何度か息子さんの嫁はんが、私の父母に相談に来ているのを知っていたからだ。村の中でも「飲む打つ買う」の三道楽は、春やんの息子さんだという噂がたっていた。そして、その後には「やっぱり血は争えんなあ」という言葉が付いた。

 窓の外の春やんが口を大きくあけ、舌なめずりして、

 「まあ、おまえでもええわ」

 おいおい何んでやねん。とっさに春やんとの五十年ほどの歳の差を感じた。そんなもん、俺に相談してどないするねん。それよりも、明日の試験に出る、千五百年前の古墳時代にあった出来事、いや、明日の日本史の問題を教えてくれと逆に相談したかった。

 春やんが、外に出て来いというふうに、中指を一本上下に動かして手招きした。私は、しぶしぶ外に出た。ランニングシャツの上に「じんべさん」を着た、暑いのか寒いのかわからない格好をした春やんは、目で合図をして、私を前栽の庭石に座らせ、仁王のような格好で前に立ち、ゴジラのように私を見下ろしながら、ぼそりとつぶやいた。

 「わしは情けない・・・」

 ああ、始まったと思った。これから息子はんの、わけも分からぬ愚痴を聞かねばならぬのかと憂鬱になった。

 「みんな間違うとる!」

 今、逆らっては話を長引かすだけだと感じた私は、「そやそや」と相づちをうちながら、「せやけど、息子はんも、仕事は一生懸命してるんとちゃうか?」と慰めた。すると、春やんは血相を変えて、

 「あほんだら! 息子のことはどうでもええわい。こないだのテレビや。テレビのこと言うてんのじゃ!」

 国語の試験に出た「虻蜂取らず」ということわざを思い出した。春やんが話し出した。

 

 「こないだの『知られざる古代』というNHKの番組や。北緯34度32分という線の上に、伊勢神宮や大神神社(みわじんじゃ)、二上山や大鳥神社(堺市)などが並んでるというやっちゃ。34度12分というのは秋分の日に太陽が真上を通る線やねん。知ってるやろ?」

 魚熊という名の日本史の先生が、そのことを授業のマクラに話したのを思い出した。、さも自分が経験したかのように、聖徳太子も秀吉があたかも友達であるかのようにしゃべるのが、はなもちならなくて、イヤな教師だったが、そのときは、あの岩熊が神様のように思えた。

 「ああ、知ってるがな! 古代の測量技術のすごさ、というか不思議さ、それどころか太陽信仰から、箸墓古墳は卑弥呼の墓に違いない(とまでは言ってなかったが)と説明できるというやつやろ」と、私は岩熊から聞いたままを答えた。

 「おお、よう知ってるやないか!」

 春やんに、ようやく笑みが生まれた。と、思うやいなや、立て板に水でまくしたててきた。

 ――実はわしもあれとよく似たこと考えてたんや。しかし、34度32分という緯度の線上にあるというのは気がつかなんだ。わしが考えたのは、大神神社のある三輪山、藤原宮を囲む大和三山の一番北側にある耳成山、それと二上山を結ぶ線や。どれも神聖な山や。南北に二、三キロはずれるけど、奈良盆地に立って見たら、ほぼ一直線上にある。しかも、三輪山から真東に行くと伊勢神宮がある。これが昔のやつらには不思議あったんや。そやからこの線の上に「横大路」という大きな道を造った。ええか、こっからが問題や・・・。東に真っ直ぐ道を伸ばしたら西にも伸ばさんかい。それが人情というもんじゃい。二上山から真っ直ぐ西に線を伸ばしたら、こんもりとした山があるやろ――

 私はとっさに「喜志の宮さんとちゃうか」と答えた。

 「そや、喜志の宮さんや、つまり美具久留御魂神社やがな!」

 そういいながら春やんは、落ちていた棒切れで地面に書き出した。

 

 【西】 ▲美具久留御魂神社--▲聖徳太子廟--▲二上山--▲耳成山--▲三輪神社 【東】

           ( ? 王朝)            (大和王朝)

 

 「ええか。三輪神社や耳成山あたりには、大和王朝がある。ほんなら・・・」

 しばらく間をおいて、春やんがおそろしいことを言い出した。

 

 「実は、この二上山と美具久留御魂神社の間にある平地にも王朝を造らんかいな。その平地というのは・・・喜志やがな、喜志王朝や! ところがや、どうしたはずみか、ちょっとずれて、羽曳野・堺に行ってしもた。河内王朝や・・・。

 世の中というのはうまいこといかんもんや。わしもこの年で息子のために何でこないに悩まんならんのかと思うと情けないわ・・・。ところで、おまえ、うちの息子のことどない思う?」

 えっ、ここから本題の「ややこしい話」に入るんかいな!!

 

【補説】

 NHKテレビの「知られざる古代 謎の北緯34度32分をいく」という番組の元になったのは、小川光三という人の『大和の原像――古代の祭と崇神王朝』という著書です。これに感銘を受けたNHKのディレクター水谷慶一さんが番組の内容を書物に書き、世に広まりました。

 北緯34度12分というのは、春秋のお彼岸の日に、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。そこで、奈良県の飛鳥地方には、彼岸に「日迎え」「日送り」という行事があったそうです。早朝に弁当を持って家を出て、東にあるお宮、つまり、大神神社(三輪神社)に参拝して日の出を迎え、それから太陽の進むままに西に歩いていき行き、当麻寺へお参りして、西願浄土を願います。神仏習合の見本のような行事です。

 喜志に、この行事はありません。東にあるのは聖徳太子の陵墓がある叡福寺で、西は美具久留御魂神社で、東西が逆になるからです。飛鳥と喜志は、二上山をはさんで東西対称になっているのです。ただ、喜志でも、彼岸に限らぬ日々の生活の中で、朝日に向かって柏手をうち、夕日に向かって南無阿弥陀仏を唱えている人をよく見かけました。

 「太陽の道」の線上に美具久留御魂神社もあるという春やんの説は新鮮でした。そこで、日本史の副読本や地図で調べると、三輪神社の拝殿は西を向き、美具久留御魂神社の拝殿は東を向いている。付近の地名を調べると、美具久留御魂神社のある喜志は、かつて喜志の茅原(かやはら)と呼ばれ、一の鳥居があるあたりは桜井という地名。三輪神社の西側にも茅原という地名があり、その一帯は桜井だということです。意図的に東西対称したのではないでしょうか。

 春やんの「太陽の道――喜志王朝」説は案外、的を得ているのかもしれません。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« その一 古代 ―― 縄文土器の... | トップ | その五 古墳時代 ―― 出雲鎮石 »

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事