昔は年に四回、餅をついた。四月の太子参り(太子町にある叡福寺 大乗会式)、七月の半夏生(雑節の一つ)、十月の秋祭り、十二月の歳迎えである。
年末の餅つきは12月28日と決まっていた(仏滅の時は27日)。26日は「ろくでもない」、29日は「二重に苦になる」、30日からはおせち作りが始まるからだ。丸餅だけでなくかき餅も作るし、親戚にもわけるので二斗(20升)ほどつかなければならない。そこで、春やんが必ず手伝いにきた。
オトンと春やんが交代で杵でつき、祖母が合いの手(ひっくり返す)、オカンはもち米の準備、私と兄は釜いさん(かまど)の係りと決まっていた。
朝の九時ころから始まり、昼の三時ころまでかかる。昼食はオカンが夕べに作った巻きずしとうどんと決まっていた。昼食がすんで休憩しているとき、夕べテレビでやっていたナショナル劇場『水戸黄門』の話になった。オトンが、
「水戸黄門、富田林にも来るんかなあ?」
「なに言うてんねん、早ように来てるがな」
「えっ、いつ来たんや?」
そこから春やん劇場がはじまった。
――時は元禄八年の、花は野山に咲き乱れ、鳥はこずえに舞い歌う、弥生はじめのあるひと日、竹ノ内峠を越えてきたとみえる三人の旅人。浅黄のお召しに白手甲、同じ脚絆に網代笠(あじろがさ)、手に携わるはアカザの杖、首にかくるはずた袋という大店(おおだな)の御隠居に、付き従うは二人の手代。石川の東の渡し場にさしかかると、「出しまっせ! 早う乗っとくなはれや!」という船頭の声。
渡し賃を払って舟に乗る。先に乗っていた若い男が、
「お爺さん、舟先はあぶないさかいに、真ん中に座っとくなはれ」
と席を譲ってくれた。河内の若者は心優しいものじゃと礼を言って真ん中に座った。50メートルほどの川幅ゆえに舟はすぐに西の浜に着く。先に降りた若者が、
「お爺さん、危ないさかいに、手につかまっとくなはれ」
差し出された手につかまって陸に上がった。若者と体が触れたそのとき、若者の手がご隠居の懐にのびて財布をつかんだ。それに気付いたご隠居が、若者の手首をつかんで捻り上げた。それを見た手代ふたりが左右から若者を地面に押さえ込んだ。
「不届き者め、この方をどなたと心得る」
「どなたもこなちもあるかい! 煮るなと焼くなり、すきなようにさらせ!」
これを聞いて手代二人が手にますます力を込めた。それを見たご隠居、
「助さん、格さん、もうよろしかろう。財布をつかんだとはいえ、盗んだわけではないのですから、手を離しておやりなさい」
二人が手を離すと、観念したのか、若者はあぐらをかいて黙って座っている。
「盗人をはたらいて今日を終われば、末代までも盗人の名を残すことになりますぞ」とご隠居の説教が始まった。
若者はなおも黙って座っている。
「たとえばこの世でいい種を残しておけば、必ず未来の世で報われるのじゃ。よって人間の身は死しても名前は末まで残るのですよ。よろしいかな」
若者がようやく口をひらいた。
「へェー、それならおたずねしますが、昔の楠正成という人は、兵庫の湊川で討ち死にされたそうですが、あの人は善人ですか、それとも悪人ですかいな?」
「妙なことを問いだしたな。楠正成という人は南朝無二の忠臣、わが国では忠臣の鑑(かがみ)ともいうべき天っ晴れの人物じゃわい」
「へェー、わいの名は正吉いいますねんけど、親が楠正成のような人になるようにと付けてくれたそうでおます」
「それならば、なおいっそう改心して真人間にならなければなりますまい」
「それがでんねん、これは人から聞いた話ですねんけど、今でも湊川に行くと、楠の墓というて小さな石が建ってるそうです。ところが、地面に横倒しになり、土に半分うずまり、辺りは草がぼうぼうで、石碑に犬が小便かけてるそうです。それを聞いたときに、人間というのは生きてる間だけのことで、土となればそれっきり。それあったら、生きてる間に人の物を盗んでもかまへんから、気楽に生きた方がええんちゃうかと思うようになりましてん!」
正吉の話を聞いてご隠居はびっくりした。しばらく考え込み、
「よくぞ教えてくれた。しからば、この私がその楠の墓を立派に建て直し、皆がお参りできるようにしようではないか。そうなれば正吉、盗人稼業をやめられるか?」
「そらやめてみせます。それどころか坊主になってでも、お石碑を守りとおしてみせます! ところで、あなた様はどなたで?」
助さんが「名を聞くとはご無礼であるぞ!」
格さんが、ふところから印籠を取り出そうとしたら、印籠がない。必死になって探していると、正吉が、
「あっ、さっき舟の中で、ちょっと失敬しました」
と言って、ふところから印籠を取り出し、
「この紋どころが目にはいらぬか!」
格さん、それ見てははーとひれ伏したというこっちゃ! 人生楽ありゃ苦もあるさ――♪
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