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河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史29 明治――川面の浜①

2022年12月12日 | 歴史

河南橋の近くにある建具屋さんの材木置き場の空き地で「瓦当て(かわらあて)」をしていた。
10センチほどの割れた瓦を拾ってきて、地面に立てやすく、投げやすいようにコンクリートでこすって加工する。
グッパーで二つのチームに分け、5、6メートルほど離れた二本の線を引き、攻撃側と守り側に別れる。
守り側は線の上に瓦を立てる。攻撃側がそれを瓦で倒す。全部倒すことが出来れば次のフェーズ(段階)に移って攻撃が続けられるが、一つでも残れば攻守交替になるという遊びだ。
フェーズは、足の甲から始まって、膝・股・腹・胸・肩・額・頭に瓦を乗せて当てるるという具合にグレードアップしていく。

攻撃側が、片手をグーにして胸にひっつけ、その上に瓦を乗せて当てるフェーズになった。
攻撃側のコウンチャンがトモヤンの瓦をねらって見事に倒した。
「あかん。胸から手がはなれてたやん!」とトモヤンが言った。
「はなれてないわ!」とコウチャンが言い返した。
「はなれてた。じぇったいにはなれてた!」
「はなれてるかい。天の神さんに誓うてもはなれてへんわ!」
言い合いになっていくうちに興奮してきたのか、コウチャンが左手でトモヤンの胸ぐらをつかんだ。
トモヤンがその手を振り払ううとしたが空振りして、その手がコウチャンの鼻先に当たった。
カーとなったコウチャンは右手をグーにしてトモヤンの頬っぺたを殴った。
カシアスクレーのような強烈なパンチだった。
トモヤンは頬っぺたを押さえながらしゃがみこみ、ウワ、ワワワ、ワーと大きな声で泣き叫んだ。そして、瓦を拾ってコウチャンに投げつけようとした。
「こら! やめんかい!」
黒色の大きな自転車に乗った春やんだった。

「なにケンカしとんねん!」と言いながら、月光仮面がオートバイを止めるように、二人のそばで自転車を止めた。
「ケンカみたいしても何の得にもならんやろ!」
ああ、大事にならなくてよかったとホッとした。
「お前らもなんで止めにはいらへんねん!」と大きな目でにらまれた。
みんなシュンとなった。
「瓦が当たって血ーでも出たらどないすんねん!」と言いながら、積んであった材木の上にあぐらをかいて座った。
「川面(かわづら)の子は川面の子どおし仲ようせなあかんのじゃ!」といいながら、わいの前に座れという手振りをした。
みんなは体育の時間に先生の説明を聞くように体育座りで春やんの前に座った。
「今、お前らが座っている所は昔なにあったか知ってるか?」
「・・・?」
「ここは船溜まりというて、仰山のの舟が止まってた所や」と言って、ズボンのポケットからワンカップを取り出し、シュカーンと開けてゴクリと一口飲んで、春やんが話し出した。
②につづく

※上の絵は川面出身の故鶴島そんのスケッチ。下は河南橋から見た今の川面の浜。

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歴史28 幕末――テンチュウ③

2022年11月24日 | 歴史

天誅組が代官所を襲撃したのは午後4時ごろ。
五條代官所の座敷には、代官の鈴木源内と妻のやえ、取次役の木村裕二郎。
そして、病み上がりの源内に按摩をしていた嘉吉という男がいた。
「ああ、嘉吉、もうよい。ずいぶんと楽になったわい。そなたは名人じゃ」
「めっそうもございません。そこらの田舎按摩でございます」
その時、遠くでドドンドンドンと太鼓の音。
「木村、なんじゃ、あの太鼓は?」
「秋祭りが近いゆえ、村人が俄の稽古をしているのでございましょう」
しばらくして、表門の方で鉄砲の音が一発、二発・・・。
刀を抜いた役人が「代官様。天誅組と申す者たちが攻めてまいりました。ご用意を!」
源内は奥座敷へと逃げる。嘉吉は羽織を頭からかぶって震えている。木村は刀の柄に手をかけて庭に出た。
役人が四、五人座敷に逃げて来た。その後ろから天誅組の池内源太が追って来て、役人二人を切り伏せ、奥に逃げていく役人を追って行く。
木村は後から来た天誅組の同志に四方を囲まれにらみ合っている。
その時、奥座敷から阿鼻叫喚に交じって「鈴木源内、討ち取った」の声。
それを聞いた木村はニ、三人を切って浅手をおわせ、そのすきに裏手へと逃げていった。
後に残った嘉吉を同志が見つけ「奸臣め、覚悟せよ」
嘉吉は手を合わせて「私は、按摩の、按摩の・・・」と言うところを、
「問答無用」と一人の同志が一太刀で嘉吉を切り倒した。
一時間もせんうちに、代官所の役人十数名は捕らえられて制圧は完了や。
代官所を焼き払って、北東へ200メートルほど離れた桜井寺に本陣を構えよった。

さあ、これで天皇の大和行幸がされ、一気に討幕に向かえば、天誅組は明治維新の立役者やが、
やが、やがやがやがや・・・。
桜井の本陣で天誅組の面々が、昼の疲れもあってぐっすりと眠っている頃、京都ではどえらいことが起こってた。
8月18日の午前1時頃から、京都守護職[松平容保(かたもり)]や京都所司代[稲葉正邦]が指揮する会津・淀藩の兵が続々と御所に入って守りを固めた。
そのあとから、薩摩藩の兵に護衛されて主だった公家さんが入っていく。
午前4時ごろ、ドカーンと警備完了の号砲が鳴り響くと、御所の門は一斉に閉じられた。
公武合体派の薩摩藩と会津藩が連合して、討幕派の長州藩を絞め出しよったんや。
そいでもって、朝の早よから会議を開き、長州藩や三条実美らの過激な公家さんを京都から追い出すことを決めよった。
当然のことながら天皇の大和行幸も延期が決定さた[8月18日の政変]。
大和行幸(=討幕の出陣)があればこそ五條代官所襲撃の大義名分が立つんやが、それがなくなった。
18日の朝、天誅組はまだそのことを知らん。それどころか、五條、大和高田、十津川の尊皇攘夷派が次々と集まって来ていた。
桜井寺の本陣に「五条御政府」の看板を掲げた昼過ぎに、ようやく政変の知らせが届いた。
維新の立役者が一日にして政敵、朝敵になってしもうた。
不条理とはまさしくこのこっちゃ。思い通りにはならんもんや・・・。


(高取町ホームページより借用)

しかし、大義名分を失った天誅組がこれでバラバラになると思いきや、逆に奮い立ちよった。
それならば、自分たちだけで幕府を倒そう。
やがて奈良・三重・和歌山の幕府軍が攻めてくるに違いない。
その兵に立ち向かうために、まずは5キロほど離れた高取城(高市郡高取町)を奪い取ろう!
ところがや、高取城というのは日本三大山城と言われるほどの城や。
徳川家康に付いていたんで、豊臣方の石田三成が攻めたんやが落とせなかったという城や。
案の定、8月26日に天誅組は攻めたんやが鉄砲攻撃を受けて失敗や。
その後一ケ月ほど転戦するのやが、多くは戦死か囚われの身となってしもうた。

春やんは泣きそうな顔であかね色した空を見上げた。
「春やん、えらい寂しい話やなあ・・・」
「寂しいことあるかい。天誅組は討幕の目的を果たせんかったが、四年後に幕府は倒され、明治という新しい時代がきたんや」
「あの時、とばっちりを受けた按摩の嘉吉という人はどないなったんや?」
「次の日に町年寄りから話を聞いた天誅組は、過ちを反省して奥さんに丁寧に謝り、葬式代として米五斗と五両を渡したそうや」
「ふーん・・・」
「嫌なことや辛いこともあるが、いずれええことになる。そうならんとしても、何にもなかったと思えるようになる」
そう言って春やん、用事があったのだろう。我が家の中に入って行った。
   ★ ★ ★
それから何日か経って、担任のコガキが盲腸で学校の近くにある診療所に入院した。
私はテンチュウが下ったのだと思った。
二週間ほどしてコガキは退院してきた。
入院中に、「これを飲めば元気になる」とある保護者から鯉の生き血を見舞にもらったと嬉しそうに話していた。
家に帰ってオカンに「鯉の生き血って病気に効くんか?」とたずねると、
「そんなん効かへんやろ」と笑っていた。
あとで聞いた話だが、鯉の生き血を持って行ったのはうちのオカンだった。
春やんが石川で釣ってきた鯉をオカンがさばいて生き血を取り、見舞にしたのだ。
「命の痛みを知れ」という怖ろしい見舞だった。

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歴史28 幕末――テンチュウ②

2022年11月23日 | 歴史

「みんながちゃんと集まってるのに、なんで来えへんかったんや」
そう言うやいなや、コガキが私の頬っぺたを思い切りたたいた。
涙もでなかった。
クラスのみんなは「・・・!」。
ただ幸いだったのは、その時もその後も誰も私を非難しなかったこと。

たぶんその日は誰とも話さなかったように思う。話す気力もなかった。
一人で下校して、庭の片隅に積んである風呂柴の上に座ってぼんやりしていた。
前栽の樹々で庭は暗いのに、夕陽をうけた東の空はやけに明るかった。
そこへ秋日の中をふらふらと春やんが歩いてきた。私を見つけて、
「どないしたんや? えらい寂しそうやなあ」
「・・・」
「秋の日のヴィオロンのためいきの 身にしみてひたぶるにうら悲し・・というやつか」
春やんがわけのわからないことを言ったので、少しおかしかった。それで、その日あったことを春やんに話した。
「そうか。義はあっても不条理なことというのはようあるこっちゃ」
「ギ」も「フジョウリ」も何のことかわからなかったが、「思い通りにはならない」という意味だとなんとなくわかった。
今から百年前の、ちょうど今くらいの季節のこっちゃ。
西日を受けてまぶしいのか、目をしくしくさせて春やんが話し出した。

今にも江戸幕府が倒されようとしていた時[幕末]。
日本に貿易を求めてきた外国に対して幕府は次々と港を開いていった[開国]。
その一方で、日本を侵略しようとしている外国をやっつけなあかんという勢力がいた[攘夷]。
幕府はそんな勢力を捕まえては牢屋にいれていきよった[安政の大獄]。
攘夷派は、もはや幕府では日本はつぶれてしまう。天皇を大将にして外国をやっつけよやないかい[尊皇攘夷]と朝廷と仲良くなっていく。
幕府は、朝廷をないがしろにはしてません。朝廷と幕府が一つになって政治をしていきましょう[公武合体]。
幕府は、天皇にお仕えすることに勤めて朝廷を補佐します[勤王佐幕]と、のらりくらりとかわしていきよった。
これではらちがあかん。もはや幕府を武力で倒すしかない[倒幕・討幕]と長州という国が立ち上がった。
ほんでもって、しぶる孝明天皇を説き伏せて倒幕の約束をもらう。
そいでもって、文久3年(1863)旧暦8月13日に天皇自らが先頭に立って外国を打ち払う[攘夷親征]ために、大和の橿原神宮に祈願に行く[大和行幸]と決定した。
さあここがようわからんとこなんやが、外国を打ち払うということは、それに反対する幕府も倒すということになるんや。
ほんでもって、その祈願に行くということは倒幕の出陣をするということになるのや。

これを聞いて喜んだのが、京の都にいた大納言中山忠能の三男坊の中山忠光(18歳)をとりまく仲間や。
時期来たらば真っ先に帝の軍に参陣せんと勇みはやってた。そこへ大和行幸の知らせや。
8月14日、すぐさま大和行幸の先鋒として大和へ向かおうと連絡が流れる。
夜には38人の仲間が集まった。ほとんどが二十代の血気盛んな連中が皇軍御先鋒隊を名乗って京を立った。
淀川を舟で下って15日の昼前に大阪、16日の早朝に堺の港に着いた。
徒歩で狭山を経て、やって来たんが富田林や。
水郡善之助という大庄屋がいて、大将の中山忠光とは見知った仲。
楠公以来、富田林は尊皇の気風が強いところや。水郡善之助、その子栄太郎(13歳)ほか、河内の尊皇の志士20人と荷物運びの百姓数十人が加わった[天誅組河内勢]。

8月17日のまだ夜の明けやらぬころに水郡邸(上写真)を出発。河内長野の三日市から観心寺へ。大楠公の首塚に参拝して水越峠を越えて大和の五條に向かった。
五條の代官所を攻めようという計画や。五條は幕府が治める天領や。その代官所を攻めるということは幕府を攻めるということになる。
つまり、尊皇討幕のさきがけ(魁)や!
大和に出陣される天皇の軍にさきがけて幕府を討つ。天に代わって幕府を誅する。つまり天誅をくだすというわけや。
そこから、誰言うとなく天誅組という名が使われるようになっていった。

③につづく

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歴史28 幕末――テンチュウ①

2022年11月22日 | 歴史

昭和41年(1966)は台風の発生が多い年だった。
6月の下旬から8号が大きな被害をもたらした。9月には今でも最高風速(85.3m/s)の記録を残す18号が宮古島に大被害をもたらし、下旬には24号、26号が続けて上陸して日本列島を襲った。
その都度、学校は臨時休校になるので、小学生の私にとっては少しばかりうれしかった。
ところが、それが私に大被害をもたらす。

9月最後の学級会(ホームルーム)の時だった。
20歳代後半くらいの担任のコガキが教室に入ってくるや、10月にある学級発表会について話し出した。
普段なら、みんなで話し合って出し物を決めるのだが、休校続きで時間がなかったのだろう。
勝手に話を進めて、最後には15分ほどの寸劇を参観に来た保護者に見せようと言う。
普段なら「どんな劇にする?」とみんなで話し合うのだが、焦っていたコガキは強引に、
「時間がないので、先生が考えてきた。『大きなかぶ』という昔話や!」
勝手に話を進められて、同級生は皆「・・・!」になっている。
「ほんで、時間がないんで台本を作ってきた! これや!」
そう言って皆に台本を配った。たしかこんな話だった。
――昔むかし、おじいさんがカブの種を植えた。おじいさんは大きく育ったカブを抜こうとするが、まったく抜けない。
そこに、いろんな人や動物が手伝いにやってくる。みんなで力を合わせると、みごと! カブが抜けた――。
「そいでや、時間がないので今日に配役を決めたい。まずは主人公のおじいさんや! 誰か立候補するもんおらへんか?」
クラスのみんなは「・・・!」で沈黙。困ったコガキが教室を見渡し、なぜか私の方を向いて、
「Y(私)どないや? みんなを一つにまとめる重要な役や!」
クラスのみんなは「・・・!」
私は私で「なに言うとんねん?」と黙っていると、
「なあ・・・、ええやろ!」 
コガキがゆっくりと手をたたき、皆の拍手をうながす。
しばしの「・・・!」があって、あちらこちらからかしわ手のような拍手がする。
「よっしゃ! Yに決定や! あとの配役は『おじいさん、私もお手伝いします』のセリフだけやから」
そう言って、その他のサルやリスやらの配役を黒板に書いていった。
私は泣きそうになって「そんなんイヤや!」と言うと、
「ミンシュシュギでみなが決めたんや!」とコガキがにらむ。
なにからなにまでミンシュシュギで決定する時代だった。
「台風続きで授業中に練習時間がとられへんから、今日の4時から教室で練習する。ええか、みな来るように!」
それで、起立、礼。私は席を立たなかった。

下校する途中も帰ってからも悩んだ。
「行くべきか行かざるべきか」
子どもの悩みだから不安しかない悩みだった。そして決断した。
「行かへん!」
決断しても不安だった。その夜は眠れなかった。
次の日の学級朝礼でコガキにおもいっきり頬っぺたをたたかれた。

②に続く

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その27 幕末「松陰独行」③

2022年10月14日 | 歴史

安政元年(1854)10月24日、吉田松陰は萩の野山獄の囚人となり一年余りを過ごすことになる。
安政二年(1855)12月15日、藩主毛利敬親の温情により、病気保養の名目で野山獄を出され、実家の杉家に閉門蟄居する。
家には人を入れられないので、松下村塾の納屋を改造、増築し多くの門下生を育て、明治維新へとつながっていく。
二年間あまりのしばしの安穏の時だった。
29年間の生涯の中で松陰が成し遂げた業績は、松下村塾で後進を育てた以外、形として残っているものは何もない。
それどころか為すことすべてに失敗している。それは、どうしようもない現状を打破するために、真っ先に自ら艱難辛苦に飛び込んで行ったからだった。
 真個(しんこ=まことの)関西志士の魁(さきがけ)、英風(=立派な姿は)我が邦(くに)を鼓舞し来たれり
高弟高杉晋作の彼を賛するの辞である。

安政五年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任する。そして、すぐさま6月19日に、天皇の許し(勅許)を得ないまま日米修好通商条約に調印。
日本は騒然となる。そこで、井伊直弼は攘夷派を次々と捕まえて弾圧をしていく。安政の大獄である。
これによって松陰は12月26日に再び野山獄に投獄される。
安政六年(1859)4月、幕府より吉田松陰を江戸に送れの命令が届く。
5月25日 松陰は江戸に送還される。
  鳴かずあらば誰かは知らん郭公(ほととぎす)  さみだれ暗く降り続く夜は
 はるか右手に淡路島が見える。
  別れつつまたも淡路の島ぞとは 知らでや人の余所(よそ)に過ぐらん
 左手には一の谷の古戦場。
  一の谷討ち死にとげし壮士(ますらお=兵士)を 起こして旅のみちづれにせん
 大阪に入り、
  こと問わん淀の川瀬の水ぐるま 幾まわりして浮世へぬらん(過ごすのだろうか)

6月25日、長州藩江戸屋敷に入り、7月9日、江戸町奉行所に送られ、その後、伝馬町の獄に入る。
10月になり、取り調べをした奉行は「流罪」が相当と判断し、書面にしたためて大老井伊直弼に見せる。
直弼は筆を執り、「流」の字を消し、「死」と付け加えた。
10月20日 松陰は家族にむけて遺書を書く「永訣の書」。
 平生の学問、浅薄(せんぱく)にして、至誠天地を感格する事出来申さず、非常のここに立至り申し候。さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察つかまつり候。
  親思う心にまさる親心 きょうの音ずれ何と聞くらん
10月25日 松下村塾の塾生に「留魂録」を書く。その最後の部分。
 心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ思い残せしことなかりけり〔安心〕
 呼だしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな〔静寂〕
 討たれたるわれをあわれと見ん人はきみを崇(あが)めて夷(えびす)払えよ〔尊王攘夷〕
 愚かなる吾をも友とめず人はわがとも友とめでよ人びと〔汝ら相い愛せよ〕
 七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘(はら)わん心吾れ忘れめや〔七たび生れて賊を滅ぼす〕
  十月二十六日|黄昏書す 二十一回猛士
10月27日 吉田松陰 伝馬町獄舎で処刑される。

歴史に「もしも」はないが、
もしも密航に成功していたら。もし流罪になっていたら。
松陰は明治維新の大指導者になっていただろう。
もしも春やんがこの記事を書いていたら、こう言うだろう。
――明治になった時に、首都をどこにするかという議論があったんや。
その中で大久保利通が、幕府との縁を絶つために大阪遷都論を唱えよった。
残念ながら東京になってしもたけど、もしも吉田松陰が生きていたら、絶対に思い出深い大阪にしてるはずや。
その大阪でもいちばん世話になったんはどこや?
富田林やないかい!
富田林が日本の首都や!!――

※真ん中の版画は川瀬巴水(国立国会図書館デジタルコレクション)
※下図は「浪速百景・大阪高麗橋」(大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

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