アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ②成唯識論

2012-09-28 06:44:27 | 第18章 真理
大乗の唯識思想に就いて引き続き考えてみたい。筆者は三十代の後半から般若心経に惹かれ、写経したり暗誦したりしていたが、恥ずかしながら、般若心経の一部の訳が玄奘三蔵によるものであることは最近まで知らなかったし、まして玄奘三蔵が大乗の『成唯識論』という書物を著したことは今年になって初めて知ったような次第である。ところで、この大乗思想と『成唯識論』の関係が、前回も引用した横山紘一氏の『やさしい唯識』の中で簡潔に説明されているので、先ずはその部分を引用する。

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唯識思想は、インドにおいて弥勒、無著、世親の三人によって宣唱されました。このうち弥勒については、兜率天の弥勒菩薩であるという説と歴史的人物とみる二つの説がありますが、いずれにしても唯識思想を学ぶ上ではこの問題は然程重要ではありません。
インドにおける唯識思想は無著と世親という兄弟によって組織体系化されました。このうち兄の無著の代表作は『摂大乗論』で、この書によって唯識説がほぼ組織的にまとめあげられました。これを受けて、弟の世親がまず『唯識二十論』のなかで、「外界には事物は存在しない」という唯識無境の理を多方面から論証し、外界実在論を破斥しました。そして晩年、僅かに三十の頌の中に唯識の教理と実践と悟りとを巧みに表した『唯識三十頌』を表しました。
この書は世親の最晩年の著作であり、自らの解説が施されていません。したがって彼の死後多くの論師たちがこの書を註釈しましたが、後にインドで唯識を学んだ玄奘によって十人の注釈者の名が伝えられています。
玄奘はその中の一人、護法の弟子である戒賢から護法系の唯識教理を学び、帰国後、十大論師の説を紹介しつつも護法の註釈を正しい説とする『成唯識論』を表しました。この書の成立によって唯識思想が完成されたといえます。
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という訳で、この大乗の唯識思想について曲がりなりにも何か意見を述べるのであれば、この玄奘三蔵による『成唯識論』を読まなければいけないと思い、アマゾンで捜してみたところ、竹村牧男氏(以下、著者)が『“成唯識論”を読む』(以下、同書)という本を著していることを知り、早速買い求めて読み始めた(正直なところ未だ読み終わってはいない)。

前稿で紹介した『やさしい唯識』も当然ながら大乗の『瑜伽師地論』に基づくものであり、基本的に説いている処はほぼ同じように思えるのであるが、多少の違いやニュアンスの差も有るようなので、それら重要なポイントや、前稿において説明できなかった点、それに筆者の見解なども交えて説明する。

因みに、著者は同書の中で次のように述べている。「・・・ですから『成唯識論』を拝読するということは、実は『唯識三十頌』を拝読するということでもあるわけです。・・・世親の『唯識三十頌』に対する護法の解釈は古唯識と異なるのかについては、私の見解ですが、逆にむしろ無著の『摂大乗論』の立場、あるいは『瑜伽師地論』の立場、それらに基づいて、少し表現の違う世親の『唯識三十頌』をきちっと解釈する、そういうものが『成唯識論』ではないか、と考えております。」

ところで、著者は「唯識とは何か」ということを、同書で非常に判り易く説明している。

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見ることを考えた時に、なるほど外側に物があるのかもしれません。しかし、その物の姿は眼球の水晶体を通って、網膜にその像が映り、その像が視神経を通じて脳に伝えられるでしょう。・・・脳はその情報を解読して、映像を作りだします。眼の向こう側んい映像を投影するのです。こうして、少し反省してみますと、決して我々は外のものを直接見ているのではなくて、脳が作りだした映像を脳が見ていると考えざるを得ないでしょう。・・。意識の世界でいえば、心の中に言語の観念などを浮かべてそれを認識している。その場合、心の中において認識が行われています。物を見るということに関しても、視覚という感覚の中に、視覚の対象が現れてそれを見ているのです。脳が対象像を作りだす働きを心と言えば、心は心の中に映像を浮かべてそれを見るものであります。それが心なのです。・・・唯識で考えている識は正にそういうものです。単なる透明な主観ではなくて、自分の中に対象像を現わし出して見るもの、そのような構造を持っているのが識です。心の中に、見られるものと見るものがあるのです。識の中に見られる側と見る側が備わっている。そういうものが唯識の識であります。その見られるものを「相分」、見る側を「見分」といいます。識というのは少なくともその中に相分と見分を具えたものです。
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ということで、我々が実際に外界(唯識では対境という言葉を良く使う)に在ると思っているモノは、実際に識(心)の中に対象として映し出されたものであるということが判るが、それではこの身体や自然(地球)はどうなのかという疑問を持つ方も居ると思う。この点に関しては前稿で、『やさしい唯識』に示されている阿頼耶識の機能を既に引用して説明しているのを覚えている方もおられるかと思うが、それとは別の個所から横山氏の文章を引用する。

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阿頼耶識は、一切の存在を生じるから一切種子識ともいいます。「有根身」(うこんじん)
とは身体で、「根」とは眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官のことですので、身体を感覚器官を有したものと捉えているところが仏教の身体観の特徴です。「器世間」(きせけん)とは現代でいる山や川などの自然を意味し、自然とはその中に生命あるもの(それを「有情」といい、その世界を「有情世間」といいます)が、生息する器と考えているところが自然観の特徴です。当然のことですが、器が壊れると、その中のものも存続不可能です。ところで、この阿頼耶識説によれば、山や川という感覚で捉える自然は本当の自然ではありません。それは、図では点線の円で表されていますが(筆者註:『やさしい唯識』の144頁参照)、いわば第二次的な自然であり、その奥に阿頼耶識から変化し、つくり出した阿頼耶識が自ら認識し続けている対象(それを「本質」という)が真の自然です。
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此処までは、筆者は理解できるし、その通りだと思うのであるが、唯識の書籍(或いは仏教の本は殆ど全てそうなのかも知れないが)を読み進めて行くと、前稿と同様「アートマンは有りや無しや」という点で納得の行かない個所にどうしても突き当たってしまう。それは「五蘊無我」(因みに、般若心教には「五蘊皆空」との句がある)という釈尊の言葉であり、通常これは「アートマン」は存在しないと説明されているようなのであるが、果たしてそうなのであろうか? 関連する部分を同書より引用する。

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仏教は昔から心を一つのものとは見ません。多くの別々の心が仮に和合して心理現象を構成すると考えます。釈尊の最も初期の説法に「五蘊無我」という教えがあります。五蘊の色・受・想・行・識の、最初の色は物質的な要素。受・想・行・識は別々の心と分析されたものです。受は感情、想は認知、行は意思、識は知性。それらは別々の心であって、そういうものが縁によって仮に和合して流れている。その相続があるのみなのであり、常住で不変で、かつ主体的な存在、常・一・主・宰の我すなわちアートマンは、一切ない。これが無我の教えです。無我というのは自分が全く存在しないのではなくて、常・一・主・宰であるものは存在しないということです。現象としての自己はないわけではありません。その現象の自己において、根本的な主体をどこに見いだすかが問題になるかと思いますが、ともかく、五蘊無我の教えでも、心を別々のものの複合体として考えていて、単一の自我はないといいうのです。唯識ではその心がさらに細かく分析されているわけです。
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ということで、ここでは「無我」の「我」をアートマンと解釈している。尚、筆者はサンスクリット語を学んで釈尊の本当の教えに触れた訳ではないので、ここでもう一つの書籍(NHKテレビテキスト「ブッダ 真理のことば」)からも念の為に引用しておきたい。著者は花園大学教授の佐々木閑氏である。

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では、ここで根本的な問題として、執着はなぜ生まれるのかを考えてみましょう。第二回で、「無明」というものが、この世のものは全てうつろうという真理、即ち「所行無常」を理解していないことだと説明しました。これに加えて、実はもう一つ、無明のもとになっている、人間の根本的な愚かさがあります。それは、自分、すなわち「自我」というものに対する誤った認識です。我々は普通、自分の利益のため、自分の功名のため、自分の楽しさのため、自分の幸せのため・・・・と、何事も自分を中心に置き、自分に都合のよい方向でものを考えます。ところがブッダは、そもそも自分などないのであり、ありもしない自分を中心に世界を捉えるのは愚かの極みだと説きました。
我々はまず、自我というものを世界の中心に想定し、その周りに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に形作っていきます。そしてその一番外側に、世間と呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の主ですから、手に入っていないものがあったら手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やしていこうとします。これが執着です。即ち執着とは、この「自分中心」の世界観から発生するのです。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は消えませんし、きりがありません。しかし、ここでその中心人物たる自分を、「それは実在しない仮想の存在である」としてその絶対存在性を否定しまうと、周りにある所有世界も自然に消えます。自分というのは、本質のない仮想存在なのですから、当然、それを取り巻く世界もカオスだということになり、執着もおのずと消えるわけです。これを現わす言葉を「諸法無我」と言います。『ダンマパダ』(筆者註:釈尊の語った真理の言葉を編纂した経典)では次のように言います。
「すべての存在に、自我なるものはない」(諸法無我)と智慧によって見る時、人は苦しみを厭い離れる。これが、人が清らかになるための道である(279)
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚して、自我の空しい主張と縁を切った時、執着との縁も切れ、初めて苦しみの無い状態を達成できると説いています。
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ということで、ここで佐々木氏は「無我」の「我」を「自我」と捉えている(尤も佐々木氏の云う「自我」がエゴを意味し、アートマンではないのであればという前提であるが)。筆者も、仮に「無我」の「無」という言葉が、実在性を否定する意味で用いられているのであれば、「五蘊無我」に表された「我」というのも、「自我」の意味に捉える、即ち「自我は実在ではない」と解釈するのが妥当だと思う。
しかし、仮に「無我」の「我」が、間違い無く「アートマン」即ち「真我」を現わしているというのであれば、「無」を単なる否定(漢字では「非」と書いた方が判り易い)の意味で用いて、「五蘊無我」は、「五蘊(即ち肉体とその感官や心)はアートマンでは無い(アートマンに非ず)」と解釈し、「アートマン」の実在性を否定しない解釈をするのが妥当だと思う。と言うのも、アートマンは実在そのものであり、それを否定すること自体矛盾しているからである。但し、筆者は仏典を詳しく研究した訳ではないので、他にも釈尊の言葉で、アートマンの実在性を否定する言葉が有るのかもしれない(尤もそのようなことは筆者には全く信じられず、釈尊の言葉を曲解したものとしか思われないが)。尚、この問題に就いては、いずれ阿頼耶識と真如との関連で再度検討する予定である。

本来『成唯識論』に基づく「心の構造」をもう少し説明したかったのであるが、「五蘊無我」の解釈をめぐって大分長くなってしまったので次稿に譲りたい。

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