言わなければならない事は言わないと前には進まない

生活する中において言わなければならない事や、他の記事で共感したことなどを中心に。今その時の思いを表す。

2011/04/18日本農業新聞第一面「論点」掲載  評論家 内橋 克人氏の記事 (抜粋)

2011-12-03 23:05:09 | 言いたいことは何だ
2011/04/18日本農業新聞第一面「論点」掲載
 《問われる日本の選択》「住民投票で原発廃止 米国」
                     評論家 内橋 克人氏の記事 (抜粋)

 
 1989年、米国・カリフォルニア州の州都、サクラメント市で住民投票が行われ、サクラメント電力公社のランチョ・セコ原子力発電所の閉鎖が決まった。それまで14年間稼働してきた原発が市民の自由な意思で廃止された。
 [転換には3条件]
 「エネルギー転換」を可能にするには「理念」「政策」「制度」の三位一体が欠かせない。
 78年、カーター政権下、一つの法律が米国議会の下院を通過して成立。
 第一に、一定の条件さえ満たせば、誰でも小規模な発電所を創業できる。
 第二に、既存の大電力会社はこの新しい発電所から「買電」を要求されると拒否することができない。
 第三に、各州政府は「公益事業委員会」を設け電力の売買価格、その他、法律適用に必要な細目を決めなければならない。
「Public Utility Regulatory Policies Act of 1978
略して「PURPA法」と通称される。同法によって認定される新しい発電所は「適格発電所」と呼ばれた。
 重要な点は「アポイデッド・コスト」の考え方にある。新しい適格発電所からの「買電」を義務付けられた大手発電会社は、その買電価格をどう算定するのか。「PURPA法」の神髄がここに示される。
 仮に、新しい「適格発電所」がなければ、既存の電力会社は従来通りの方法によって火力(石炭、石油)、あるいは原子力を熱源とした発電所を新設しなければならないだろう。当然、相応のコストがかかる。
 しかし、現実には「適格発電所」があるおかげで、そのコスト分を免れる。この「免れた(避けられた)コスト分」、つまり「アポイデッド・コスト」は適格発電所からの買電(電力買い取り価格)に充てるべきだとする考え方だ。
[買電を義務付け]
 同法では、自社の発電コスト以下で買電してはならないと義務付けている(実際の買電価格は、はるかに高い水準に設定された)。わずか3年でエネルギー転換を遂げたサクラメント電力公社は、世界のモデルとなった。
 地震、津波に原発事故が追い打ちをかける。放射能汚染の進大地。私たちは「取り返しのつかないもの」を失った。「日本の選択」が世界の厳しい目に射すくめられている。


(water所感)
*アメリカのオバマ大統領は原発増設を表明していたが、現実にこうした動きがあると言うことは、国民の行動を無視して進めることになるのか。そのほかの州がどのような取り組みになっているかは調べてみないと解らないのだが。
 カリフォルニア州には太陽光発電、風力発電の同じような風景にしばしば出会うそうだ。行ってみたことがある方は御存知のことでしょうが。
 日本でも地域エネルギー政策として取り組んで行くべきと思う。これが新たな産業振興になり雇用増大に結びつくものであると私は思えるのだが。

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捨て石のやり方を考えてくれ

2011-12-03 22:46:14 | 言いたいことは何だ
 野田総理はTPP、消費税増税、日米安保について「捨て石になってやる」と言ったそうだが、捨て石になられても後に残された者たちが今より以上に不自由になることがわかることであるならば、捨て石になってもTPP反対、増税反対、安保破棄?をすべきではないのか。また、捨て石になる覚悟があるなら政党交付金廃止をそれこそ政治生命でもかけて行ってくれたら、捨て石となってよくやったと、国民すべてから喝さいを受けるのではないだろうか。同僚議員各位からは非難轟々だろうが、もともと国民の税金であるものが国民の思想信条の自由を認めた憲法に反する状態で使用されるというのだから、政党交付金は廃止するのが筋であるはずだ。
 国民生活をぼろぼろにする政策をするために捨て石になるより、政党交付金廃止、公務員改革断行で捨て石になってもらったほうが、どれほど喜ばれるか。
 
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雪がまだ消えない(4月15日)

2011-12-03 22:21:22 | 言いたいことは何だ
 昨日(4月14日)は穏やかで、春という日にふさわしい一日だ。雪はだいぶ消えたがまだ残っている。これほど雪の残った年は何十年ぶりぐらいではないだろうか。
 農作業、特に水稲作付けの準備に入るのだが、例年早い人は今頃水稲播種になる。だが雪が残っていて水田が完全に見えてない状態では、播種だけ早くしてもあとの作業が追いつかない。もう少し見極めて仕事をしなければならないが、野菜の定植準備のことも考えると、一気に作業をしなければならなくなるか。そうなるとそれをするまでの準備が必要。いや、無理をしない様にしていかないと、今年はどこで何が起きるか解らない。だからといって何もしないわけにはいかない。とりあえず準備だけはしておかないと、その時になってからでは遅すぎる。
 この分だと水稲は今月下旬か遅くとも5月連休中の播種作業になるか。田植えのピークは5/22過ぎになるか?生育期間の天候にもよるが、今年の作柄はどうなるだろうか。管理次第と言われればそうだが、管理以上の事については手の施しようがない。特に外的要因の強い問題については。
 しかし、まだ雪が残ってる。消えるのもあとわずかだが。それがなかなか消えない。

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川内村議 ちかちゃん No3のコピペ転載です

2011-12-03 22:09:45 | 言いたいことは何だ

南相馬市、川内村へ、その3




傑作(1)






川内村に入った。

ブロ友や身近な人たちから放射線量の高い福島には行かないように言われている。自分でも行きたいとは思わない、できれば安心な環境の中で暮らしていきたい。
だが、今となっては全国、どこも安心と言えるところはないのではないだろうか。世界のどこかに安心で暮らせる国があったとしても、自分だけ行けるわけがない。
経済的にそれが許せる人たちはそうした方がよいと思う。国同士がそれを許せる環境にあればその選択は正しい。

しかし、この地球の人類がある一部の権力者の被支配者となっているとしたら、どこに行こうとその被支配から逃れることはできないのではないだろうか。
そのことを知ってしまった自分がたとえ安全圏内に住むことが可能だとしても、なにかと関わり合って行かなければならない状況におかれる運命にあると思っている。
多分それが今、この世に生を受けている自分のするべきことなのだと思っている。

副島氏の学問道場に寄らせて頂いて、私はやはり川内村で何かをしなければならないことがあると感じた。

私は原発事故後、子供、若者の避難を優先的に考えてきた。
その支援団体と関わりあってきたり、何をすればよいか模索してきた。

原発事故に関する支援グループ、活動グループ、デモや集会、国会に陳情要望、多くの国民の皆さんがフクシマを何とかしなければ、自分の問題として真剣に活動を行ってきた。

しかし、8カ月たった今の現状はどうであろうか。
相変わらずほとんど同じ状況のままではないだろうか。
私たちはなにか大事なことを見ようとしていないのではないだろうか。
それは何か。

本当の闘う相手を間違えているのではないだろうか。
原発事故の根本的問題は何だろう。

それは世界の頂点に立つ権力者の権力争いの中に私たちは組み込まれていることをもっと自覚しなければならないと言うことではないだろうか。
そしてその権力争いの利権がらみの棄民政治を行っている、日本国の政治家の、否、官僚こそが私たちの闘う相手なのだということを、

日本国民お互い同士が責任の所在の追及に集中している間に世界覇権者による棄民政治がどんどん進んでいく。
そして原発事故で顕著に表れたこの棄民政治、にまだ希望を持っている国民は多い。

政府に何をかをしてもらうことは期待できないということに気づかなければならない。期待するからこそ政府もその存在のアピールに利用する。つまり、私たち国民が、「国民のためではないが国民のため」とカモフラージュ出来るものを与えてしまっているのである。

現実問題として棄民政治を行う政府に被ばくによる健康被害を訴えてどうにかなるだろうか、原発事故処理の指揮をしていた吉田所長の入院にしても、被ばくとの因果関係を認めない政府、それははっきり棄民政治を行っているという意思表示である。

それでもその真相はどうなのか、とか言っていること自体あまりにも棄民政治への認識が甘い、、と思う。

被ばくによる、健康被害がこれから先増える、それを最小限度に抑える知識の情報交換をして、最大限の自分で出来ることをして行かなければならない。
この放射能汚染環境の中で。

そのような自分の意識転換の中で川内村に入った。
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今回も司馬遼太郎氏

2011-12-03 19:32:04 | 言いたいことは何だ
今回も、司馬遼太郎氏小説から集めたの「人間というもの」という文庫本の続きを読む。(4月8日)
 
『翔ぶが如く  一』
 [政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人類の歴史ははるかにかがやけるものであったろうと思われる。しかし政治においては論理という機械の作動する部分は不幸なことにわずかでしかない。
 それよりも利害で動くということは大いにあるであろう。しかし革命早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していなかった。むしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きいといえるかもしれない。]

   *今は政商の代表が多いのかな?
 
『龍馬がゆく  六』
 [衰弱した政権というものほどみじめなものはない]

   *今がまさにそうではないのだろうか
 
『龍馬がゆく  三』
 [「日本では、戦国時代に領地を取った将軍、大名、武士が、二百数十年、無為徒食して威張り散らしてきた。政治というものは、一家一門のためにやるものだということになっている。アメリカでは、大統領が下駄屋の暮らしの立つような政治をする。なぜといえば、下駄屋どもが大統領をえらぶからだ。おれはそういう日本をつくる」
 龍馬のこの思想は、かれの仲間の「勤王の志士」にはまったくなかったもので、この一事のために、龍馬は、維新史上、輝ける奇蹟といわれる。]

   *下駄屋とは違ったものが選んでいるから、日本はこうなってしまったのか。
 
 『龍馬がゆく  七』
 [革命というのは、人間が思いつくかぎりの最大の陰謀といっていい。]

   *考え過ぎかもしれないが、別の形での陰謀がおこな((われているような気がする。    
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