いつのまにか、多臓器不全
6月25日(木):あっさりと人工呼吸器離脱
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[妻の記録]
朝。
すいかが、
「ブラシをもってきたか」
と言う。
「持ってきた、シャンプーペーパーも買ってきた」
シャンプーペーパーで頭をマッサージし、そのあと蒸しタオルで拭いた。最後にブラシで頭を刺激。延々と刺激。すると、
「そのブラシ、おいといてくれ」
といった。
よほど気持ちよかったのだ。看護師さんが今日は頭をあらいましょうか、と言ってくれたので、それをお願いする。
昼。
「朝、車いすに乗った」
と言った。
怖かったらしい。
呼吸器の離脱がいつの間にかアッサリと終わっていた。気道チューブからは酸素が入っていた。
あれだけ自発呼吸に慣れるまで、すったもんだしたのに、あっけないものだ。
シャンプーをしてもらいはじめたとき、事務の人がきて、今月分の窓口支払い分について教えてくれた。
数日前に、早い目に概算を出してくれとクラークにお願いしていたのだ。救命センターの入院というのは間違いなく高額医療費になるからだ。早く自己負担額を知り、手をうたなければならない。
しかしながら、そうはいっても命の値段としては安い。アメリカだと桁違いになる。お金のない人は救急車も呼べないし、十分な医療が受けられないらしい。つくづく日本に生れて良かったと思う。
シャンプーが終わって、がっつり横を向いて、痰を出やすくするモードに入った。なぜそうするのかを十分に説明されているので、本人も一生懸命だ。痰がごっそりとれた。
楽になった~、と喜んでいた。いつもの調子だった。
観察室の外は廊下で、そこに大きな窓がある。ふと目をやると、隣のYさんが家族の人と話をしながら陽にあたって外を眺めていた。
うらやましいと思った。
夫があんなに車いすに座って話せるようになるには、あとどれくらいかかるのだろうか。
夜。
看護師さんによると、明日、午後の面会時間に腎臓内科の先生と会えるという。透析に関するリーフレットをもらった。
かえりぎわに、夫の呼吸がおかしくなり、看護師を呼んだ。吸引をしたり、胸を抑えたりしていたが、担当看護師は、さらにベテランの看護師か医師(看護師も医師も救命センターでは同じ青いコスチュームの場合が多いので、どちらかわからないときがある)を呼びに行った。
胸の音を聞いたり押さえたり、寝間着やベッドを整えたりしているうちに脈拍もましになってきた。
看護師(医師?)によると、過呼吸ではないかと言っていた。
経過観察をしつつ、必要があれば当直の医師にも相談するとのこと。担当看護師はしばらく夫の様子を傍らで経過観察していた。
[すいかの記録]
前日にリハビリの先生が車いすに乗りたいかって聞いたので、すぐにでも乗りたいと答えたが、今朝、早速乗りましょうと準備をしてくれた。
点滴が入っているし、鼻から栄養ドリンクのチューブが入っているし、心拍数、酸素濃度などのモニター線も繋がっているので、ベッドから起きて車いすに座るだけで一仕事である。
この日は初めてでもありリハの先生が2人がかりで身体を起こしてくれた。それまでベッドを精一杯起こしたリクライニング姿勢を取ったことはあったが、ベッドの支持なしに頭を垂直にしたとき、平衡感覚が失われ、目が回ってしまった。
とても首だけで頭を支えることなどできないと思った。
ベッドに座るだけでこの体たらくなので、車いすに乗るなんてとてもとても、また明日にしたいと思ったが、そんなことにはお構いなしに、
「さっ、乗ってみましょう。ぐっと頭を前に出して、しっかり支えていますから。」
尻込みする私、一瞬両足で立ったはずだが全く足に力が入らない。
それでも次の瞬間車いすに座っていた。
リハの先生はヤッタという顔をしている。その車いすは背が高く首まで支えることができるタイプで、何とか小一時間ほど座ることができた。
夜。
雷が鳴り雨が強かったと思う。家族が帰るとき、呼吸がおかしくなった。
今や呼吸器が外されているので、息苦しくこのまま逝ってしまうのではないかと思った。生きる目処がついたとき、死の恐怖が甦ったものであろう。
パニックになっていた。いつの間にか寝ていたが、家族もこのまま帰れず一夜を明かしたという錯覚に陥った。
[Tから、すいかの弟Jへのメール]
Jおじさんへ O先生は、多分金曜日に夜勤なので土日はいないと思います。
それと、人工呼吸器を離脱しました。思ったよりも早い離脱でした。
ですが酸素を首のところからおくっているみたいでした。けど一応、呼吸器からは完全に離脱していました。
[Jからのメール]
そうですか、ありがとう。
私の妻のお兄さんのTさん一家から、お見舞の手紙が届くと思います。にいちゃん(すいか)もTさんとアメリカで会ったことがありますよ。では、またメール読んでください。J
[妻の母Yからのメール]
夜遅くにすいません。明日の昼に腎臓内科の先生が透析のために来られます。人工呼吸器も取れたので、多分転院の話がでるとおもいます。頼みかたとか、何か方法はないでしょうか?
もうしばらく腎臓内科の先生の監視下でないと。本人も家族も死の恐怖をあじわった、以前のK病院は無理です。
O先生が、人工呼吸器付けたままでは引き受けられない、と言われたんじゃなかったかな。今はそれが取れたのだから、むしろ受け入れてくださるのでないかなあ。 あくまで精神的ストレスがある、ということを前面に出してお話しした方が良いと思いますが。本当に飛んで行きたい。役に立たない自分がうらめしいよ。Y
[すいかの母からのメール]
どうしても、転院させるのであればK病院以外を紹介して欲しい。K病院は家族みんながトラウマになっているから、絶対避けたい。母
6月25日(木):あっさりと人工呼吸器離脱
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[妻の記録]
朝。
すいかが、
「ブラシをもってきたか」
と言う。
「持ってきた、シャンプーペーパーも買ってきた」
シャンプーペーパーで頭をマッサージし、そのあと蒸しタオルで拭いた。最後にブラシで頭を刺激。延々と刺激。すると、
「そのブラシ、おいといてくれ」
といった。
よほど気持ちよかったのだ。看護師さんが今日は頭をあらいましょうか、と言ってくれたので、それをお願いする。
昼。
「朝、車いすに乗った」
と言った。
怖かったらしい。
呼吸器の離脱がいつの間にかアッサリと終わっていた。気道チューブからは酸素が入っていた。
あれだけ自発呼吸に慣れるまで、すったもんだしたのに、あっけないものだ。
シャンプーをしてもらいはじめたとき、事務の人がきて、今月分の窓口支払い分について教えてくれた。
数日前に、早い目に概算を出してくれとクラークにお願いしていたのだ。救命センターの入院というのは間違いなく高額医療費になるからだ。早く自己負担額を知り、手をうたなければならない。
しかしながら、そうはいっても命の値段としては安い。アメリカだと桁違いになる。お金のない人は救急車も呼べないし、十分な医療が受けられないらしい。つくづく日本に生れて良かったと思う。
シャンプーが終わって、がっつり横を向いて、痰を出やすくするモードに入った。なぜそうするのかを十分に説明されているので、本人も一生懸命だ。痰がごっそりとれた。
楽になった~、と喜んでいた。いつもの調子だった。
観察室の外は廊下で、そこに大きな窓がある。ふと目をやると、隣のYさんが家族の人と話をしながら陽にあたって外を眺めていた。
うらやましいと思った。
夫があんなに車いすに座って話せるようになるには、あとどれくらいかかるのだろうか。
夜。
看護師さんによると、明日、午後の面会時間に腎臓内科の先生と会えるという。透析に関するリーフレットをもらった。
かえりぎわに、夫の呼吸がおかしくなり、看護師を呼んだ。吸引をしたり、胸を抑えたりしていたが、担当看護師は、さらにベテランの看護師か医師(看護師も医師も救命センターでは同じ青いコスチュームの場合が多いので、どちらかわからないときがある)を呼びに行った。
胸の音を聞いたり押さえたり、寝間着やベッドを整えたりしているうちに脈拍もましになってきた。
看護師(医師?)によると、過呼吸ではないかと言っていた。
経過観察をしつつ、必要があれば当直の医師にも相談するとのこと。担当看護師はしばらく夫の様子を傍らで経過観察していた。
[すいかの記録]
前日にリハビリの先生が車いすに乗りたいかって聞いたので、すぐにでも乗りたいと答えたが、今朝、早速乗りましょうと準備をしてくれた。
点滴が入っているし、鼻から栄養ドリンクのチューブが入っているし、心拍数、酸素濃度などのモニター線も繋がっているので、ベッドから起きて車いすに座るだけで一仕事である。
この日は初めてでもありリハの先生が2人がかりで身体を起こしてくれた。それまでベッドを精一杯起こしたリクライニング姿勢を取ったことはあったが、ベッドの支持なしに頭を垂直にしたとき、平衡感覚が失われ、目が回ってしまった。
とても首だけで頭を支えることなどできないと思った。
ベッドに座るだけでこの体たらくなので、車いすに乗るなんてとてもとても、また明日にしたいと思ったが、そんなことにはお構いなしに、
「さっ、乗ってみましょう。ぐっと頭を前に出して、しっかり支えていますから。」
尻込みする私、一瞬両足で立ったはずだが全く足に力が入らない。
それでも次の瞬間車いすに座っていた。
リハの先生はヤッタという顔をしている。その車いすは背が高く首まで支えることができるタイプで、何とか小一時間ほど座ることができた。
夜。
雷が鳴り雨が強かったと思う。家族が帰るとき、呼吸がおかしくなった。
今や呼吸器が外されているので、息苦しくこのまま逝ってしまうのではないかと思った。生きる目処がついたとき、死の恐怖が甦ったものであろう。
パニックになっていた。いつの間にか寝ていたが、家族もこのまま帰れず一夜を明かしたという錯覚に陥った。
[Tから、すいかの弟Jへのメール]
Jおじさんへ O先生は、多分金曜日に夜勤なので土日はいないと思います。
それと、人工呼吸器を離脱しました。思ったよりも早い離脱でした。
ですが酸素を首のところからおくっているみたいでした。けど一応、呼吸器からは完全に離脱していました。
[Jからのメール]
そうですか、ありがとう。
私の妻のお兄さんのTさん一家から、お見舞の手紙が届くと思います。にいちゃん(すいか)もTさんとアメリカで会ったことがありますよ。では、またメール読んでください。J
[妻の母Yからのメール]
夜遅くにすいません。明日の昼に腎臓内科の先生が透析のために来られます。人工呼吸器も取れたので、多分転院の話がでるとおもいます。頼みかたとか、何か方法はないでしょうか?
もうしばらく腎臓内科の先生の監視下でないと。本人も家族も死の恐怖をあじわった、以前のK病院は無理です。
O先生が、人工呼吸器付けたままでは引き受けられない、と言われたんじゃなかったかな。今はそれが取れたのだから、むしろ受け入れてくださるのでないかなあ。 あくまで精神的ストレスがある、ということを前面に出してお話しした方が良いと思いますが。本当に飛んで行きたい。役に立たない自分がうらめしいよ。Y
[すいかの母からのメール]
どうしても、転院させるのであればK病院以外を紹介して欲しい。K病院は家族みんながトラウマになっているから、絶対避けたい。母