いつのまにか、多臓器不全
5月28日(木):夜、入院、急変
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[すいかの記録]
この日、仕事は休みを取った。大体寝ていたが、時々パソコンに向かっていたと思う。記憶が定かでない。
K医院が定休日だったので朝、妻が電話で相談していた。やたらに喉が渇き、妻が買ってきてくれたリンゴジュースをがぶのみした。しかし、飲んでも飲んでも喉が渇き、 「体に水分がまわっていない。」と、思ったらしいが、実のところ、あまり覚えていない。
そしてなぜだか、横になって休むと息苦しく、ずっと座っていた。
ついに夕方、病院に行くことを決めた。
まず、T病院に電話をしたが、都合が悪いといわれ(内科医がいなかった)、次にK病院に電話をし、妻とともに自動車を自分で運転して行った。その際、自宅の駐車場に向かう途中軽い息切れを感じ、あれっと思った。
5分ほどで病院に着き、病院の駐車場から歩いて病院に向かう途中強い息切れを感じたが、何とか歩くことができた。しかし息苦しさは増すばかりで、病院の中ではとうとう歩けず車いすで移動し、検査を受けた。
検温、採血の後、なぜか検尿をしてくれと強く言ったことを覚えている。この時点でまだ肺炎を起こしているとは思いもよらなかった。その後、胸のレントゲンを撮り、肺が真っ白だといわれた。直ちに入院だという。
まず点滴で、左手の甲から入れるらしい。2人の看護師のうち1人が、点滴の針をうまく入れることができず、
「難しいわ。この人。」
と言う。これまで点滴が難しいと言われたことがなかったが、手の甲は初めてなのでそうかなとも思う。
するともう一人の看護師がちゃっちゃと入れてくれたので、私のせいではないようだ。が、ちょっと先行き不安を感じた。
職場に携帯メールで緊急入院のことを連絡し、これから暇になるだろうとテレビカードを買い、病室に入った。また、2,3千円と運転免許証だけ財布に残して、残りのお金を持って帰ってもらう。後に判ったことだが、その財布はどこかで紛失したようだ。
看護師がやたらに私のことを若いと言っていた。「若いというけど、もう60やで」などと答えたように思う。後で思うに、このときすでに頭がもうろうとし、50と60の区別がつかなくなっていたようだ。
明日はパソコンを持ってきてくれ、と妻に言ったらしい。
しかし、その後、夜中に急変し、呼吸困難に陥った。
酸素吸入器を口に当てて必死に呼吸するも息苦しかったことを覚えているが、呼吸器をつけた記憶は全くない。やがて意識がなくなり17日間に及ぶ眠りにつくことになった。
[妻の記録]
緊急入院が決まり、病院と家を往復し、11時前くらいに帰宅。片づけものをしていたら、夜中の1時半位に病院から電話がかかってきた。
病状が急変し呼吸困難に陥ったため、人工呼吸器を入れるので、すぐに来てほしいという。
夫は詰所(ナースステーション)直通の観察室にいて、酸素マスクを着けていた。横たわると苦しいとのことで、処置用ベッドの上に座っていた。
「えらいことになってきたわ」
と苦しそうに言う。私も
「うん」
と頷いた。
(未だにこのときのことを思い出すと、胸が苦しくなって頭が混乱する。)
人工呼吸器をつけるときの夫の苦痛の声に耐えられず、私自身が何度か意識を失いかけた。そこから坂道を転げるように状況が悪くなった。
二次救急の病院なので、このようなことに慣れていないし、十分な設備もなかったのだろうと思うが、血圧が下がってきて、血中酸素も下がってきた。
非常に危ない状態になってきた。
ひどい汗をかいたあと、汗がひき、またひどい汗をかく、それを短いタームで繰り返していた。尿量もほとんどなくなっていた。
私が看護師に「尿が出ていませんが」と言っても、「それどころじゃない、血圧が下がっているの!」と言われた。
「呼んでおかなければならない人を呼んでください」
「この人の母親が隣県に住んでいるんです」
と言ったら、
「えっ隣県、そんなの、もう間に合わない!」
と看護師。
そこでまた少し私の意識が薄れた。
子どもに電話をし、すぐに来るように言った。とにかく子どもたちには早く来てほしかった。
電話をしたりしている間に何度か意識を失って、足が崩れ、意識を取り戻すということを、私は一人で繰り返していた。今から思えばこの間が最も辛く長い時間だった。子供たちが来るまでひとりで夫の名前を呼び続け、休むことなく体中をこすっていた。
子どもたちが来て、そこでやっとひとりではなくなった。少しでも手を止めたり呼ぶのをやめたりすると、私は「あきらめるな!呼び続けろ!」と何度も怒鳴っていた。子どもたちが一緒に呼び続けたら必ず呼び戻せるという妙な確信があった。静かにして夫を眠らせたりしてはいけなかった。
隣県から夫の母が来た。
相変わらず危険な状態は続いていたが、血中酸素が60まで下がったのは一瞬だけだった。それからは血圧も最低ラインを保っていた。
病院は朝まで持たないだろうと思っていたようだ。医療関係者は詰所に全員戻ってしまい、朝までの多くの時間は私たち家族の絶えることのない体のマッサージと呼びかけだけだった。ふらりと来たN医師は「できることは全てやっている。大病院に行ったって同じやから。肺炎でやることは決まっている」と夫の母に言い訳のように繰り返し説明していた。
私はそのとき、絶対にそんなはずはないと心の中で叫んでいたが、具体的にそれを表現する余裕も力もそのときは完全に失っていた。
[娘の記録]
一週間近く、具合が悪そうだった。熱があり、新型インフルエンザかと思いきや、かかりつけ医の病院での結果は陰性。
しかし、もともと病気なんてめったにしない父である。なんとなくではあるが、いつものカンジとは違った。顔色や、雰囲気、こりゃただの風邪じゃなくて何か他に悪いところがあるんじゃないかとでもいうようなものがあった。
ただ、K病院で緊急入院だといわれ、肺炎だと知ったときは「なぁんだ。」と思った。風邪をこじらせて肺炎→一週間から十日ほど入院、というのはよくある話で、早めに診てもらってちゃんと治療すれば治るものだ。そう思っていた。
母がせわしなく病院と家を往復していたが、私と弟は割合のんびりしていた。
しかし夜遅くにK病院から電話がかかり、母が顔色を変えてとんでいったのを見て、「ちょっと、ヤバイんじゃないの」と思った。弟はいつもの調子だったが、私はなぜだか嫌な予感がして、深夜まで帰ってこない母を起きて待っていた。
すると母から電話がかかり、「すぐきて」とだけ。
母から詳しいことは何も聞いていなかったが、弟をたたきおこし、とにかく父が危ない、と事情を話し、走った。弟はまだ現実のものと思っていないのか、トボトボと歩いているので、怒鳴り散らして病院まで走った。
まず、病院についても夜間の入口がわからず立ち往生。イライラとドキドキは頂点に達する。一番不安で目の前がグラグラして辛かったのはこのときだ。早く早く早く早く・・・。
母に電話をかけてどうやって入ればよいのか聞いて、夜間のインターホンを鳴らす。心臓がどきどきし手が震え、体中が「非常事態!」と叫んでいた。ほどなくナースが出てきて、「●●さんね、早く入って、こっち」と私と弟は2階に連れて行かれた。
観察室。
母は父の名前を必死に呼び続けていて、その傍らに、真白になって死相がハッキリと出ている誰だかわからない父が横たわっていた。
夜中の2時過ぎだった。
それから約5~6時間、冷え切った父の体をさすり、名前を呼び続けた。
私は、頭を、ポジティブなことでいっぱいにした。もう起きる、もう戻ってくる、すぐに普通に生活できる、絶対大丈夫。そう念じ続けながら、名前を呼び、エネルギーを注入するかの如くマッサージを続けた。
それでも、「交代するよ」と弟が私と位置を変えるとき、父から目を離し、時計を確認して、ふと窓の外を見ると、どうしようもない不安が襲ってくるのだった。終始ずっと涙が止まらなかったが、涙でネガティブなことを出しきって、それで頭の中はポジティブなことで一杯にするんじゃ、それでエネルギーを送るんじゃ、と思って、涙をふくのも忘れて名前を呼び続けた。
途中、心電図や血圧グラフが揺れると、頼む耐えてくれ、と祈った。