いつのまにか、多臓器不全

普通より元気なオッサンがいきなり多臓器不全!?生死の境をさまよった約2か月間の闘病と、その後。

6月4日(木):感染症!?

2009-08-26 13:01:19 | 入院、転院、最初の1週間
いつのまにか、多臓器不全
6月4日(木):感染症!?


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[Tの定期メール]

朝:安定していました。やはりまだ熱があるようなので脈拍は105位でした。血圧は114、5でした。
昼:DOB(2つ目の昇圧剤)が2㍉減っていました。
夜:脈拍、血圧ともに特に変化なしです。あと熱が下がったみたいです。脈拍109前後位で血圧112~4です。



[JからKへのメール] ※すいかは3兄弟の長男。Jが二男でKが三男。

 アメリカでの凡例ですが、A(Jの妻)の親族には病院関係者が多く、IVIG(Intravenous immunoglobulin ) therapy で、18グラムを6時間投与して回復したということがあったそうです。溶連菌に効くとのこと。原因は感染症かもしれないし、一度確認してください。



[主治医O先生の話]

・ときどき期外収縮も起こっているようだが、たいしたことがなく、現状と関連があるとは思えない。原因を追及しなければならないが、わからないままである。

・気管支鏡を入れてみたが、チューブを入れて抜かねばならないほどではないが、片肺に水がたまっている。

・腹部のCTをとったが、相変わらずかなりの水がたまっている。膵臓がむくんだ状態となっているため、機能が少し低下している。

・本日午後より透析の量を少し多くして、調整している。酸性に傾いている状態は良くなっていない。あまりひどいと、慢性腎不全患者の透析と同じような量を一度にやる必要があるが、血圧の関係上現在ではこれが精一杯。もう少しこれで様子を見る。

・昇圧剤を下げてもあまり変化がなかったが、今もっと調整すると、他に支障が出てくる可能性があるので、今はこの量を維持する。

・全体として少しずつ良くはなっているが、原因はまだわからない。もう少し長く維持的な治療を行っていきながら対処していく。



[妻の記録]

 医師によると、血液検査では最初から炎症反応が低く、感染症で今のようなことになったとは考えにくいそうだ。しかし、家族は気になるものだ。夫の兄弟もずいぶんいろいろと知恵をしぼってくれている。私たちも何が原因なのか、寝ても覚めてもそのことばかり考えている。

 原因がわからなければ、また起こる可能性がある、というのだが。
 感染症の方がまだマシらしい。その原因を治療すれば治るからだ。

6月3日(水):主治医からの説明

2009-08-26 12:38:07 | 入院、転院、最初の1週間
いつのまにか、多臓器不全
6月3日(水):主治医からの状態の説明



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[Tの定期メール]

朝:かなり安定していました。少し熱があったので脈拍は少し高めでした。脈拍は97~107位で血圧は110~115位でした。

昼:落ち着いた感じでした。脈拍105~117位でした。やはり少し熱があったので脈拍が高めでした。血圧は112~117位でした。カタボン(※昇圧剤)の投与量が60㌫減で8になっていました。先生の話しだと腎臓はまだ下向きですが、肺は炎症反応がほとんどなくて肝臓や心臓は上向きらしいです。

夕:6月3日午後4時ごろ、担当医のO医師が来て、状態について話してくれました。



[主治医O医師の話]

・肝臓は数値的には下がっている。よくなっているとみている。

・今、継続的に透析しているが、毒素がたまっていっている。腎臓は、この先回復しても定期的な透析の必要が出てくるかもしれない(慢性腎不全)。しかしまだあまり時間が経っていないので何ともいえない。

・呼吸状態が良くなっても、24時間の透析したままだと微動だにできないので、その状態で意識が戻るのは、本人にとって辛いのではないか。なので、いつ麻酔投与をやめて「起こす」かは十分に考えなくてはならない。

・血が止まりにくい状況(出血傾向)は、肝臓の動きが悪いためであり、それは徐々に改善されるだろう。それに、(今の点滴ルートが)足の付け根ということもあり、出血しやすい事もあると思っている。

・心臓の側壁の動きの判断はまだついていない。いちおう問い合わせはしたが、まだ循環器の専門医に評価を仰いでも、脈が速い(100回/分前後)ため判断できないと言われた。

・血圧は上がりよくなったが、まだ多少の上下はあるだろう(現在はカタボンHi 20ml→8ml)。この先は若干の上下があると思われるので、これ以上は簡単には薬を下げるわけにはいかないだろう。モニタの血圧は高いようだが、手動で測ったものは少し薬を減らすと下がっている。昇圧剤がきいているのかどうかもわからないが。

・肺の炎症はなくなった。炎症自体も今はもう無い。左の肺の状態がよくなっている。寝ているので、自然に痰を排出できないため、それが下にたまってきている。そのため、もうすこししたら気管支鏡で痰を出すようにする。これは単に痰を出すということであり、今回の治療そのものではない。そのかわり、肺の酸素をためる量が増える可能性もある。全体として呼吸状態は良くなってきているといえる。

・「起こし」てみて、何か脳に異常は出ないか?ということに関してだが、もともと脳の疾患でこのような状況になったということは考えにくいし、副作用もほとんどないこの静脈麻酔で「起きない」ということはまずないだろう。疾患があれば脳のCTなどをとる必要があるが、現時点では他に優先することがある。

・本日、救命スタッフ全員で、今回の原因について考えたが、やはりわからない状態である。医師の率直な意見として、感染症はきっかけであったかもしれないが、それがこの状態をつくりだしているということはどうしても考えにくい。それ以外の何かがあると思っている。



[妻の記録]

 この日まで、医師の話を聞いて理解するということができず、自分がショックで認知症になってしまったのではないかと本気で心配した。
 しかし、ようやく意識がはっきりしてきて、医師に状況を訊いたり、説明事項をしっかりと理解することが可能になってきた。
 救命センターに入院して初めて詳細な状態記録がかけた。文章を息子にメールで送り、必要な人に定期メールとしてさらに内容を咀嚼して送信してくれるようになっている。私たちは突然の電話に対して(突然でない電話があるかどうかわからないが)非常に過敏になっており、何かよい連絡方法はないかということで、メールが最適だということに落ち付いたのだった。

6月2日(木):意識はなくとも、知る権利。

2009-08-26 12:19:24 | 入院、転院、最初の1週間
いつのまにか、多臓器不全
6月2日(木):意識はなくとも、知る権利。


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[Tのメール]

朝:昨日と変わりなかったです。心拍数が99~102位、血圧も95の前後位でした。
昼:脈拍→98~105、血圧→96~100、酸素→98~100、足を柔く指圧してマッサージしました。腫れてる足も少し柔らかくなりました。
夕:安定していました。いろいろと今日あったことを話しました。脈拍104~111位、血圧101~106位で手動で測るほうでは115位でした。




[妻の記録]

 この日の晩くらいからだったか、血栓防止のため、医療用のストッキングをはいていた。かなり引き締まるので、足がもみにくい。見回すと、周りの患者さんもみんな白いのをはいていた。
 このストッキングを一般病棟に移るまでの一か月くらい、はき続けることになる。

 意識がないけど、聞こえている、という信念から、私たちは彼に何でも話しかける。そういえば看護師さんも「●●さん、ちょっとチクッとしますよ」などと本人に声をかけてから処置を始めている。
 ある看護師さんが、
「静脈麻酔をしてる患者さんが、周りの会話が全部聞こえていることはあるんです。」と話してくれた。
 すでに静脈麻酔を経験している夫の弟は、そのことを身を持って知っていたため、入院当初から積極的に声をかけ続けていた。
 それから、より一層私たちは話しかけるようになった。
 病院で、しかも救命センターで、眠っている夫を含めた家族の通常の会話が戻りつつあった。

6月1日(月)

2009-08-25 19:17:07 | 入院、転院、最初の1週間
いつまにか、多臓器不全
6月1日(月)


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[Tのメール]

基本的に安定していましたが、血圧が80~85位と低かったです。
でも看護師さんに聞いたところ、手動で測るほうはずっと安定しているので、大丈夫だそうです。




[娘の記録]

 家では皆不安な気持ちが隠しきれなかった。電話がかかってきたら「ビクッ」と3人とも反応し、受話器まで突進した。もしもの連絡があるかもしれないからだ。それがセールスの電話だったりすると、脱力→憤慨→おおいに疲弊した。
 24時間体制で見てもらえていて、最高の医療を受けているのだから、自分たちは前の病院とは違って何も手伝うことができないし、するべきでない。つまり、治療のことは「おまかせ」し、自分たちは一刻も早く日常生活を取り戻して、建設的にこれからのことを考えなくてはと思う。
 けれどやっぱり不安であった。

5月31日(日)

2009-08-25 19:09:37 | 入院、転院、最初の1週間
いつのまにか、多臓器不全
5月31日(日)



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[Tのメール]

脈拍が103~8位でした。
※すいかの平常時はだいたい一分間に60前後くらいだった。



[娘の記録]

 救命センターに入院してから2日たった。
 だいぶ、顔に生気がもどってきたように思う。
 前の病院では、顔が白くて表情もなく、「らしさ」がまるでなかったのに、この病院に来てから少しずつ「生きる力」が湧いてきているんじゃないか、そう感じた。

5月30日(土)

2009-08-25 19:04:40 | 入院、転院、最初の1週間
いつのまにか、多臓器不全
5月30日(土):

※以降、目覚めるまでT(息子)のメール記録が加わります。Tは連絡メール係りでした。



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[Tの定期メール]

血圧が94~104位でした。心拍数も120位。顔のむくみもとれています。



[妻の記録]

 昨晩から持続的な透析が始まっている。昇圧剤が効かない中、透析の影響によってもし血圧が下がったら、ただちに透析治療を中止するという。もしそんなことになってしまったら、まさに「成す術なし」だ。どうか下がらないで、と祈るような気持ち。
 転院前の病院ではあれほどややこしかった血中酸素濃度は、最新の医療機器で完全に管理され、安心していられる。

 主治医は、本人の「治る力」で治るのだという。医療はそれをサポートすることしかできないという。

 多臓器不全という状態で個々の内臓の数値が良くなったからと言って、本当に良くなったかどうかはわからないし、逆に最悪の数値が出ていても、本当に内臓自体が最悪な状況かどうかもわからない。内臓は関連しあっていて、互いに影響し合っている。
 それを良くしていこうと思えば、やはり血液濾過が鍵となる治療となる。

5月29日(金):急変から転院、救急救命センター

2009-08-25 18:58:25 | 入院、転院、最初の1週間
いつのまにか、多臓器不全
5月29日(金):急変から転院、救急救命センター



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[すいかの記録]

 昨夜からこの日の早朝にかけて生命のヤマ場だったそうで、妻子を始め親兄弟が集合した。
 K大学のK先生という方がこの日の内科担当として来られており、私のただならぬ容態に、設備の揃ったK大の救命救急センターへ転送の手配をしてくれたそうだ。
 それから、市の救急車でK大に運ばれる。
 このK先生の判断が、生命が救われた大きなポイントになった。




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[妻の記録]

 朝になり、相変わらずずっと名前を呼び、夫の体をさすり続けていた。私の母や、夫の兄弟らが到着し、血圧の乱れが少しましになった。
 そのとき、K医師(担当医とは違う人だ)に呼ばれ、夫の弟と一緒に話を聞きに行った。
 話によると、K大病院の救命センターに搬送するらしい。私はほっとすると同時に再度少し意識が薄れた。救命センターはもう絶対に助からないと言われた人でも助かったと言う話を聞いていたが、「そんなに悪いのか」という絶望感もあったからだ。
 後で知ったことだが、そのK先生はK大医学部の教授で、毎週金曜日はこの病院に出向されていて、たまたま夫のその危機的状況に陥った朝が金曜日だったのだ。その先生が救命センターに交渉して送ってくれることがなければ、絶対に助からなかっただろうと思う。
 とにかく、すぐに準備がはじめられ、10時半には市の救急車を手配してもらい、救命センターに搬送された。距離にして1キロもないと思う。10分程度だったが、何時間にも感じた。夫には手動の人工呼吸器をつけ、救急隊員、医師、看護師と私、7人ほどを乗せて、搬送中は私以外全ての人の手が忙しく動いていた。
 K大病院の救命センターに到着し、検査などで3時間ほど待った。そのあと主治医になった先生から状況と治療の方針を聞いた。

 何らかのショック状態から、呼吸困難、現在は多臓器不全、だという。
「たぞうきふぜん」
その響きだけで意識を失ってしまう。
人間の終末期の状態だからだ。

 肺は水がたまっていて、無気肺もあり、ほんのわずかな健康な部分で息をしている状態であること、そのために人工呼吸器で酸素の量、圧力などを、酸素濃度が下がらないように調整していること、急性腎不全から尿毒症の状態で、体が酸性に傾いていて、そのために昇圧剤(血圧を上げる薬)が効かなくなっていること、心不全、肝臓のうっ血、出血傾向、とにかくありとあらゆる状態が悪いようだ。

 ショック状態なので、大量のステロイドをまず投与していくこと、積極的な治療としては24時間の血液濾過(透析)が最も手がかりになるとのこと。それについては早々にその治療を始めるとのこと。助かる確率は五分五分くらいだという。
 その言葉はうれしかった。半分も助かる可能性があるのだ。転院前の病院では朝まで持たないといわれていたのだから。

 転院前の病院では間に合わせの治療という感じだったが、救命では所狭しと部屋中に並べられた最先端の医療機器、数え切れない点滴薬の真ん中に夫がつながれて「命を創られている」と感じた。救命では夜も昼もなく、24時間積極的治療が続くのだ。

夜:救命センターでは面会時間が通常とは違い、朝7時~8時、14時~16時、20時~21時の3回となっていた。夜の面会でも、主治医と少し話をし、まだ21時にはなっていなかったが、「そろそろ透析の処置を始めたいので・・・」と言われたので、すぐに子どもたちと一緒に引き上げた。透析は救命するための最も重要な治療で、一刻も早く始めた方がいいという状況だった。

5月28日(木):夜、入院、急変

2009-08-23 22:46:40 | 入院、転院、最初の1週間

いつのまにか、多臓器不全

5月28日(木):夜、入院、急変


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[すいかの記録]

 この日、仕事は休みを取った。大体寝ていたが、時々パソコンに向かっていたと思う。記憶が定かでない。
 K医院が定休日だったので朝、妻が電話で相談していた。やたらに喉が渇き、妻が買ってきてくれたリンゴジュースをがぶのみした。しかし、飲んでも飲んでも喉が渇き、 「体に水分がまわっていない。」と、思ったらしいが、実のところ、あまり覚えていない。
 そしてなぜだか、横になって休むと息苦しく、ずっと座っていた。
 ついに夕方、病院に行くことを決めた。
 まず、T病院に電話をしたが、都合が悪いといわれ(内科医がいなかった)、次にK病院に電話をし、妻とともに自動車を自分で運転して行った。その際、自宅の駐車場に向かう途中軽い息切れを感じ、あれっと思った。
 5分ほどで病院に着き、病院の駐車場から歩いて病院に向かう途中強い息切れを感じたが、何とか歩くことができた。しかし息苦しさは増すばかりで、病院の中ではとうとう歩けず車いすで移動し、検査を受けた。
 検温、採血の後、なぜか検尿をしてくれと強く言ったことを覚えている。この時点でまだ肺炎を起こしているとは思いもよらなかった。その後、胸のレントゲンを撮り、肺が真っ白だといわれた。直ちに入院だという。
 まず点滴で、左手の甲から入れるらしい。2人の看護師のうち1人が、点滴の針をうまく入れることができず、
「難しいわ。この人。」

と言う。これまで点滴が難しいと言われたことがなかったが、手の甲は初めてなのでそうかなとも思う。

するともう一人の看護師がちゃっちゃと入れてくれたので、私のせいではないようだ。が、ちょっと先行き不安を感じた。
 職場に携帯メールで緊急入院のことを連絡し、これから暇になるだろうとテレビカードを買い、病室に入った。また、2,3千円と運転免許証だけ財布に残して、残りのお金を持って帰ってもらう。後に判ったことだが、その財布はどこかで紛失したようだ。

看護師がやたらに私のことを若いと言っていた。「若いというけど、もう60やで」などと答えたように思う。後で思うに、このときすでに頭がもうろうとし、50と60の区別がつかなくなっていたようだ。

 明日はパソコンを持ってきてくれ、と妻に言ったらしい。
 しかし、その後、夜中に急変し、呼吸困難に陥った。

 酸素吸入器を口に当てて必死に呼吸するも息苦しかったことを覚えているが、呼吸器をつけた記憶は全くない。やがて意識がなくなり17日間に及ぶ眠りにつくことになった。




[妻の記録]

 緊急入院が決まり、病院と家を往復し、11時前くらいに帰宅。片づけものをしていたら、夜中の1時半位に病院から電話がかかってきた。
 病状が急変し呼吸困難に陥ったため、人工呼吸器を入れるので、すぐに来てほしいという。
 夫は詰所(ナースステーション)直通の観察室にいて、酸素マスクを着けていた。横たわると苦しいとのことで、処置用ベッドの上に座っていた。
「えらいことになってきたわ」
と苦しそうに言う。私も
「うん」
と頷いた。
(未だにこのときのことを思い出すと、胸が苦しくなって頭が混乱する。)
 人工呼吸器をつけるときの夫の苦痛の声に耐えられず、私自身が何度か意識を失いかけた。そこから坂道を転げるように状況が悪くなった。

 二次救急の病院なので、このようなことに慣れていないし、十分な設備もなかったのだろうと思うが、血圧が下がってきて、血中酸素も下がってきた。
 非常に危ない状態になってきた。
 ひどい汗をかいたあと、汗がひき、またひどい汗をかく、それを短いタームで繰り返していた。尿量もほとんどなくなっていた。

 私が看護師に「尿が出ていませんが」と言っても、「それどころじゃない、血圧が下がっているの!」と言われた。

「呼んでおかなければならない人を呼んでください」
「この人の母親が隣県に住んでいるんです」
と言ったら、
「えっ隣県、そんなの、もう間に合わない!」

と看護師。
 そこでまた少し私の意識が薄れた。

 子どもに電話をし、すぐに来るように言った。とにかく子どもたちには早く来てほしかった。
 電話をしたりしている間に何度か意識を失って、足が崩れ、意識を取り戻すということを、私は一人で繰り返していた。今から思えばこの間が最も辛く長い時間だった。子供たちが来るまでひとりで夫の名前を呼び続け、休むことなく体中をこすっていた。

 子どもたちが来て、そこでやっとひとりではなくなった。少しでも手を止めたり呼ぶのをやめたりすると、私は「あきらめるな!呼び続けろ!」と何度も怒鳴っていた。子どもたちが一緒に呼び続けたら必ず呼び戻せるという妙な確信があった。静かにして夫を眠らせたりしてはいけなかった。

 隣県から夫の母が来た。

 相変わらず危険な状態は続いていたが、血中酸素が60まで下がったのは一瞬だけだった。それからは血圧も最低ラインを保っていた。

 病院は朝まで持たないだろうと思っていたようだ。医療関係者は詰所に全員戻ってしまい、朝までの多くの時間は私たち家族の絶えることのない体のマッサージと呼びかけだけだった。ふらりと来たN医師は「できることは全てやっている。大病院に行ったって同じやから。肺炎でやることは決まっている」と夫の母に言い訳のように繰り返し説明していた。

私はそのとき、絶対にそんなはずはないと心の中で叫んでいたが、具体的にそれを表現する余裕も力もそのときは完全に失っていた。




[娘の記録]

 一週間近く、具合が悪そうだった。熱があり、新型インフルエンザかと思いきや、かかりつけ医の病院での結果は陰性。
 しかし、もともと病気なんてめったにしない父である。なんとなくではあるが、いつものカンジとは違った。顔色や、雰囲気、こりゃただの風邪じゃなくて何か他に悪いところがあるんじゃないかとでもいうようなものがあった。
 ただ、K病院で緊急入院だといわれ、肺炎だと知ったときは「なぁんだ。」と思った。風邪をこじらせて肺炎→一週間から十日ほど入院、というのはよくある話で、早めに診てもらってちゃんと治療すれば治るものだ。そう思っていた。
 母がせわしなく病院と家を往復していたが、私と弟は割合のんびりしていた。
 しかし夜遅くにK病院から電話がかかり、母が顔色を変えてとんでいったのを見て、「ちょっと、ヤバイんじゃないの」と思った。弟はいつもの調子だったが、私はなぜだか嫌な予感がして、深夜まで帰ってこない母を起きて待っていた。
 すると母から電話がかかり、「すぐきて」とだけ。
 母から詳しいことは何も聞いていなかったが、弟をたたきおこし、とにかく父が危ない、と事情を話し、走った。弟はまだ現実のものと思っていないのか、トボトボと歩いているので、怒鳴り散らして病院まで走った。
 まず、病院についても夜間の入口がわからず立ち往生。イライラとドキドキは頂点に達する。一番不安で目の前がグラグラして辛かったのはこのときだ。早く早く早く早く・・・。

 母に電話をかけてどうやって入ればよいのか聞いて、夜間のインターホンを鳴らす。心臓がどきどきし手が震え、体中が「非常事態!」と叫んでいた。ほどなくナースが出てきて、「●●さんね、早く入って、こっち」と私と弟は2階に連れて行かれた。
 観察室。
 母は父の名前を必死に呼び続けていて、その傍らに、真白になって死相がハッキリと出ている誰だかわからない父が横たわっていた。
 夜中の2時過ぎだった。
 それから約5~6時間、冷え切った父の体をさすり、名前を呼び続けた。
 私は、頭を、ポジティブなことでいっぱいにした。もう起きる、もう戻ってくる、すぐに普通に生活できる、絶対大丈夫。そう念じ続けながら、名前を呼び、エネルギーを注入するかの如くマッサージを続けた。
 それでも、「交代するよ」と弟が私と位置を変えるとき、父から目を離し、時計を確認して、ふと窓の外を見ると、どうしようもない不安が襲ってくるのだった。終始ずっと涙が止まらなかったが、涙でネガティブなことを出しきって、それで頭の中はポジティブなことで一杯にするんじゃ、それでエネルギーを送るんじゃ、と思って、涙をふくのも忘れて名前を呼び続けた。
 途中、心電図や血圧グラフが揺れると、頼む耐えてくれ、と祈った。