わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

佐伯祐三

2010-05-31 | 日本人作家

 

 


立てる自画像
1924年(大正13年)   
油彩,カンヴァス  縦80. 554. 8センチ
大阪市立近代美術館建設準備室蔵
(※常時は展示しておりません)

 

 

佐伯 祐三    ( さえき ゆうぞう ) 

1898428日 - 1928816日)
大正~昭和初期の洋画家。大阪市生まれ。

 

 佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある

 佐伯は1898年(明治31年)、大阪市・中津の光徳寺という寺に、男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、1918年(大正7年)には、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。

       佐伯祐三アトリエ記念館

 

 東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。

 

  佐伯祐三 所蔵 東京藝術大学  1923

 

 佐伯はその後満 30歳で死去するまでの 6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、佐伯はパリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズ (ゴッホの終焉の地として知られる) に、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた。佐伯は持参した自作 『 裸婦 』 を見せたところ、ヴラマンクに 「 このアカデミックめ ! 」 と一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度か彼の下に足を運んでいる)。事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、彼の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である 前田寛治 、里見勝蔵  、小島善太郎 らと 「 1930年協会 」 を結成する。

 「オーヴェールの教会」(1924)(鳥取県立博物館)

 

 2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。自殺未遂を経て、セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、衰弱死した。

 現在、佐伯の作品は大阪市立近代美術館建設準備室 50点、和歌山県立近代美術館 14点など、全国 34ヶ所に所蔵されている。

 

 


「セーヌ河の見える風景」(1924)(東京藝術大学大学美術館)
「パリの寺院」(1924年)(大阪市立美術館)
「パリの裏街」(1924年)(大阪市立美術館)
「レ・ジュ・ド・ノエル」(1925)(和歌山県立近代美術館)
「広告のある門」(1925)(和歌山県立近代美術館)
「リュ・デュ・シャトーの歩道」(1925)(和歌山県立近代美術館)
「コルドヌリ」(1925)(石橋美術館)
「ガス灯と広告」(1927)(東京国立近代美術館)
「雪景色」(1927)(東京国立近代美術館)
「オプセルヴァトワール附近」(1927)(和歌山県立近代美術館)
「テラスの広告」(1927)(ブリヂストン美術館)
「裏街の広告」(1927)(京都国立近代美術館)
「リュクサンブール公園」(1927)(田辺市立美術館)
「広告”ヴェルダン”」(1927)(大原美術館)

「サンタンヌ教会」(1928)(三重県立美術館)
( wikipedia より抄出、 )

 

 

 クラマールの午後  1924

 

 佐伯祐三 裏町の広告  1927
京都国立近代美術館蔵

 

 ガス灯と広告

 

 

 モラン風景  19282

 


郵便配達夫」 (1928年(昭和3年)
油彩,カンヴァス  縦80. 865センチ  大阪市立近代美術館建設準備室蔵


 

 source
 モランの寺 1928年、東京国立近代美術館

 

 

 

 

 

 

 

長谷川利行 1891 ~ 1940

 

 エコール・ド・パリ
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斉藤真一

2010-05-27 | 日本人作家

 

                                      斉藤真一【日本人作家】紅い陽の山脈
                                                           紅い陽の山脈

 

 

落日がキレイだね

あれ あんた目がみえるのかい

 

いやなに、そんな気がした

モルゲンローテに染まってる。

 

瞽女がそんなハイカラなこと言っちゃいけないよ


 

 

  斉藤真一の経歴

 

 

 

 



Tranquil Thai sanctuary

 

 

                                                         

 

 

 

わたしも寒い。

 

                                                カネで縛る カネで縛る

 

 地中海の畜養マグロはおいしいよ

 

 

 


ピカソ美術館 MUSEE PICASSO

 

 

 

 

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斉藤真一の経歴

2010-05-27 | 日本人作家

 

 

 


斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、画家、作家。


年譜[編集]
 1922年(大正11年)7月6日 - 岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に、父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。
 1925年(大正14年)- 弟・彰男が生まれる。
 1929年(昭和4年) - 妹・昌子が生まれる。
 1935年(昭和10年)- 岡山県立天城中学校に入学する。味野から峠を越えて3里半の天城中学まで5年間、自転車で通学する。
 1937年(昭和12年)- 前年、陸上部に入部し、秋から県大会に出場し、しばしば入賞。この年、県下駅伝にアンカーとして出場し優勝し、天城中学の名を高める。
 1938年(昭和13年)- 県下駅伝の優勝でマラソンに誘われるが、絵が好きで断念する。油絵具を買ってもらい猛烈に絵に興味を抱き、天城中学より更に2里離れた大原美術館に毎日曜日に通い、グレコ、セガンチニ、コッテ に惹かれる。教師から藤田嗣治の複製画を見せられ虜になり、上野の美校(東京美術学校)に憧れる。
 1940年(昭和15年)- 岡山県立天城中学校を卒業し、岡山師範二部に入学する。美校に入学のため、師範2年間デッサン室にこもり親友と受験デッサンに明け暮れる。
 1942年(昭和17年)- 東京美術学校(現・東京芸術大学)師範科に入学する。在学中、学徒出陣で海軍に3年従軍する。
 1948年(昭和23年)- 東京美術学校を卒業。静岡市立第一中学校に就任する。第4回日展に「鶏小屋」が初入選する。
 1949年(昭和24年)- 岡山県味野中学校に転任。萩野悦子と結婚する。味野中学校を退職し、神奈川県の鵠沼に住む。
 1950年(昭和25年)- 岡山県立天城高等学校の非常勤講師として勤める。
 1951年(昭和26年)- 長男・裕重生れる。
 1952年(昭和27年)- 光風会第38回展に「閑窓」が入選する。
 1953年(昭和28年)- 静岡県立伊東高等学校に着任する。
 1957年(昭和32年)- 光風会第43回展に「立春の道」を出展し、プールヴ賞を受賞。
 1958年(昭和33年)- 船で横浜からマルセイユまで行き、パリに留学。静岡、伊東、岡山で個展を開いたり、弟・彰男、妹・昌子など親族の援助あり渡航の費用を捻出する。40日間かけてイタリアまで原動機付自転車で放浪する。滞欧中、藤田嗣治と親交を深める。
 1960年(昭和35年)- 日本に帰国。帰国の時に藤田嗣治から「日本に帰ったら秋田や東北の良さを教えられ、自分の画風で描きなさい。」と勧められる。文藝春秋画廊(東京)にて帰国後初の個展を開く。
 1961年(昭和36年)- 夏、津軽へ行き、ねぶた祭に感動する。津軽三味線の音色に驚き、宿の古老から瞽女のことを教えられる。
 1962年(昭和37年)- 瞽女に惹かれ、盲目の女性を描く。
 1964年(昭和39年)- 杉本キクエ瞽女に初めて訪ねる。
 1965年(昭和40年)- この年より、約10年間、休暇のほとんどをさいて瞽女を取材するため越後に通う。
 1970年(昭和45年)- 羽黒洞(東京)主催で文藝春秋画廊にて「越後瞽女日記展」を主催する。
 1971年(昭和46年)- 「星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)で第14回安井賞佳作賞を受賞。18年間勤めた伊東高校を退職する。この年、1年間水上勉「松吟庵記」(月刊誌「小原流挿花」)の挿し絵を描く。
 1972年(昭和47年)- 『越後瞽女日記』(河原書房新社)、『瞽女=盲目の旅芸人』(日本放送協会)を刊行。
 1973年(昭和48年)- 『瞽女=盲目の旅芸人』で第21回日本エッセイストクラブ賞を受賞。『越後瞽女日記』でADC賞(美術出版社)を受賞。以後、不幸な女たちを主たる題材として、画文を多く刊行する。映画『津軽じょんがら』のための挿入絵を制作し、考証にあたる。劇団文化座による「越後瞽女日記」を考証する。
 1974年(昭和49年)- 羽黒洞主催で上野松坂屋(東京)にて「津軽じょんから―瞽女日記展」を開催。『津軽じょんから―瞽女日記』(大西書店)を刊行。
 1975年(昭和50年)- 羽黒洞主催で上野松坂屋にて「お春瞽女物語り展」を開催。私家版『お春瞽女物語りノート』(制作=大西祥司)を刊行。この1年間瀬戸内寂聴「遠い風近い風」(朝日新聞)の挿し絵を描く。
 1976年(昭和51年)- イタリアのシチリア、ウンブリア、トスカーナを1ヶ月間旅行。
 1977年(昭和52年)- 『瞽女斎藤真一画集』(毎日新聞社)を刊行。カルド・マディニオン画廊(パリ)にて個展を開催。スイス、バーゼルのクンストメッセ(国際画商見本市)に出品し、3ヶ月滞欧する。以後79年まで毎年出品。『瞽女物語』(講談社)を刊行。この年、和田芳恵著『道祖神幕』(大西書店)の挿画、装丁を手がける。
 1978年(昭和53年)- 『絵日記瞽女を訪ねて』(日本放送出版協会)を刊行。ドイツのアキシオム画廊(ゲルン)主催での個展開催のため渡欧する。『斎藤真一放浪記』(美術出版社)から刊行。『いないいないの国』(文―神沢利子 画―斎藤真一 童心社)を刊行。
 1979年(昭和54年)- 池袋西武百貨店(東京)にて「さすらい・斎藤真一展」を開催。『斎藤真一作品集 1941~1979』(不忍画廊)を刊行。スペインのラマンチャ、アンダルシアを旅行する。
 1980年(昭和55年)- 『さすらい―斎藤真一画集』(講談社)を刊行。イタリア、スイスを旅行する。不忍画廊にて「斎藤真一・さすらい画集原画展」を開催。
 1981年(昭和56年)- カナダのヴィクトリア美術館(モントリオール)に作品が収蔵される。
 1982年(昭和57年)- 毎日新聞社主催で阪急ナビオ美術館(大阪)ほかにて「斎藤真一の世界展」。 スペイン、アンダルシア、トスカーナ、カタロニア、ランマシャを旅行する。不忍画廊にて「画廊コレクションによる斎藤真一展」を開催。
 1983年(昭和58年)- 『一寸昔』(青英社)を刊行。ミニアチュール銅版画集『走馬灯』(美術出版社)を刊行。『風雨雪』(青英社)を刊行。
 1984年(昭和59年)- 水上勉「長い橋」(日本経済新聞)の挿絵を一年間連載。
 1985年(昭和60年)- 『ぶっちんごまの女(母の記)』(角川書店)を刊行。『紙草紙 吉原炎上』(文藝春秋)を刊行。『明治吉原細見記』(河出書房新社)を刊行。毎日新聞紙社・西武美術館主催で西武アートフォーラム(東京)にて「斎藤真一・明治吉原細見記展」。以後阪急ナビオ美術館(毎日新聞主催)でも開催。
 1986年(昭和61年)- 不忍画廊にて「浪漫の女たち〈水墨淡彩掛軸シリーズ〉展」を開催。天満屋岡山店にて「明治吉原細見記展」。ポルトガルを旅行する。不忍画廊にて「浪漫の女たち〈水墨淡彩掛軸シリーズ〉展」。
 1987年(昭和62年)- 『斎藤真一放浪記』(美術出版社)を刊行。日本橋高島屋にて「明治の吉原とその女たち―斎藤真一展」。母の知り合いで、出身の倉敷の女性が吉原の花魁だったことから明治期吉原を描いた、『明治吉原細見記』と『絵草子吉原炎上』が五社英雄監督によって映画「吉原炎上」(東映株式会社)として上映される。
 1990年(平成2年)- 岡山県立美術館にて第7回洋画常設特別陳列「斎藤真一展」を開催。月刊誌『マリ・クレール』に3月号から翌年2月号まで連載された小川洋子「シュガータイム」の挿絵を描く。
 1991年(平成3年)- 『昭和の美術』(第6巻)(毎日新聞社)に「現代の孤独」(世田谷美術館蔵)が選ばれる。倉敷市立美術館にて「第4回郷土作家展 斎藤真一」を開催。
 1992年(平成4年)- ポルトガルを旅行する。不忍画廊にて「哀愁の街角ポルトガルにて斎藤真一新作小品展」を開催。
 1993年(平成5年)- フランス、ポルトガルを旅行する。山形県天童市に出羽桜美術館分館、斎藤真一心の美術館を開館する。斎藤真一心の美術館にて「風のうたれ雨にぬれて…斎藤真一展」を開催。
 1994年(平成6年)- 9月18日 膵臓癌により逝去。72歳。不忍画廊にて「斎藤真一遺作展I」
 死後 1995年(平成7年)- 池田二十世紀美術館(伊東)にて「斎藤真一の世界―想い出の伊東展」を開催。不忍画廊にて「斎藤真一遺作展II」。不忍画廊にて「斎藤真一〈瞽女シリーズ〉遺作展III」。
 1996年(平成8年)- 不忍画廊にて「斎藤真一〈女〉遺作展IV」。
 1997年(平成9年)- 劇団文化座により、「越後瞽女日記・瞽女さ、きてくんない」が再公演される。上越市立総合博物館にて「斎藤真一が描く、高田瞽女 越後瞽女日記展」が開催される。不忍画廊にて「斎藤真一〈放浪〉展遺作展V」。TIAF(東京インターナショナルアートフェスティバル)不忍画廊ブースにて「斎藤真一秀作展」。
 1998年(平成10年)- 不忍画廊にて「斎藤真一〈自画像と旅芸人〉遺作展VI」。
 1999年(平成11年)- 東京ステーションギャラリーにて「斎藤真一展」開催。不忍画廊にて「斎藤真一〈赫〉遺作展VII」。
 2000年(平成12年)- 不忍画廊にて「斎藤真一〈憂愁〉遺作展VIII」。
 2001年(平成13年)- 不忍画廊にて「斎藤真一〈道〉遺作展VIIII」。
 2002年(平成14年)- 不忍画廊にて「斎藤真一瞽女名作展〈GOZE〉 遺作展X」。
 2003年(平成15年)- 不忍画廊にて「斎藤真一 初期名作展 遺作展XI」。リアス・アーク美術館にて「出羽桜美術館コレクションによる斎藤真一名作展」。岡山県立美術館にて個展「斎藤真一 さすらい展―なつかしき故里をもとめて」。新津市美術館にて「越後の瞽女を描く 木下晋 斎藤真一展」。
 2004年(平成16年)- 不忍画廊にて「斎藤真一グラフィックワークス 遺作展XII」、滑川市博物館にて「瞽女の境涯を描く-斎藤真一展」。
 2005年(平成17年)- 不忍画廊にて「斎藤真一×野田雄一 師へ捧ぐGlass Works 遺作展XIII」展。
 
出典:不忍画廊 斎藤真一プロフィール、美術出版「斎藤真一 放浪記」私の放浪記
 他、本人、家族、親戚 の談話
 
著書[編集]
 瞽女 盲目の旅芸人 日本放送出版協会, 1972
 越後瞽女日記 河出書房新社, 1972
 津軽じよんから 瞽女日記 大西書店, 1975
 絵日記瞽女を訪ねて 日本放送出版協会, 1978
 斎藤真一放浪記 美術出版社, 1978
 雪国 オリジナル銅版画傑作集 毎日新聞社, 1980
 斎藤真一さすらい画集 講談社, 1980
 風雨雪 青英舎, 1983
 一寸昔 青英舎, 1983
 絵草紙吉原炎上 祖母紫遊女ものがたり 文藝春秋, 1985 のち文庫
 明治吉原細見記 河出書房新社, 1985
 ぶっちんごまの女 花魁だった祖母と、母の半生 角川書店, 1985
 斎藤真一淡彩画集哀歌 美術出版社, 1989
 斎藤真一の世界 想い出の伊東 池田20世紀美術館, 1995
 
図録・関連書籍[編集]
 斎藤真一展 失われし心への旅 東日本鉄道文化財団, 1999
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%9C%9F%E4%B8%80

 

わたしの里 美術館 斉藤真一 1922 ~ 1994
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坂本繁二郎

2010-05-26 | 日本人作家

日本人作家

坂本繁二郎【日本人作家】1882 ~ 1969 坂本繁二郎

 

 

坂本 繁二郎  (さかもと はんじろう)

 188232日 - 1969714
明治後期~昭和期の洋画家。
(wikipedia)


1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の 青木繁 がいる。

 

 

坂本は10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされたという。坂本の父・金三郎は有馬藩の中級武士であったが、坂本が4歳の時に死去していた。金三郎の長男で、やがて家長となるべき長兄・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず、高等小学校卒業後、5年ほどはもっぱら画作に時を過ごした。

前述の森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていたが、他校へ転任するにあたり坂本を自分の後任として指名した。その結果、坂本は1900年(明治33年)、母校の図画代用教員となった。その頃、ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902年(明治35年)、徴兵検査のため、郷里に戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚いた坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満20歳の時であった。

1907年(明治40年)『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。

 

1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923年(大正12年)の 『ブルターニュ』 は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画にも挑み、同年の 『帽子を持てる女』 は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、本場の画家たちから高く評価された。

 《帽子を持てる女》
 1923年 石橋財団石橋美術館

 

1924年(大正13年)9月に郷里の久留米に戻り、以後は東京へ戻ることはなく、終生九州で制作を続けた。1927年(昭和2年)の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で地元の風景を描いたものである。1931年(昭和6年)には友人の高校教師梅野満雄(青木繁作品のコレクターとしても知られる)の援助で、福岡県八女(やめ)の梅野宅の隣地にアトリエを建立。ここが以後の制作の拠点となる。

 

 

1942年(昭和17年)に第29回二科美術展覧会では、坂本の還暦記念特別陳列も開かれ、一つの部屋に坂本の21作品を一挙に展示され、それまで未発表であった1927年(昭和2年)に描いた『母の像』も公開された。

第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。1954年(昭和29年)毎日美術賞、1956年(昭和31年)文化勲章を受章。1969年(昭和44年)87歳で没した。墓所は八女市無量寿院。

坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている

 

 

 

 

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里見勝蔵

2010-05-25 | 日本人作家

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里見勝蔵  さとみ かつぞう
1895-1981 大正-昭和時代の洋画家。

1895(明治28年)6月9日京都市に開業医の四男として生れる。
1913年 関西美術院に入学し、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。翌1914年、東京美術学校(現東京芸大)西洋画科に学ぶ。1921年(大正10年)にフランスに渡り、パリでヴラマンクに師事した。
1925 に帰国後,二科展で樗牛(ちょぎゅう)賞,二科賞を受賞した。
1926前田寛治 や 佐伯祐三 らと 「1930年協会」 を設立。
1930年 児島善三郎らと独立美術協会を創立。
1937年 に独立美術協会を退会するが、晩年までフォーヴの画風を貫き、日本におけるフォーヴィスムの受容に貢献した。
戦後は国画会会員。著書に 『ブラマンク』 等がある。
1981(昭和56年) 5月13日死去。85

 

   裸婦
1921年  油彩,カンヴァス
72.6×60.5

 


溪谷の春  1924
油彩画布・額   72×104 
12回二科展 
京都国立近代美術館所蔵

 


静物  1926 
東京国立美術館所蔵

 

 

 



1929
茨城県立近代美術館所蔵

 

 

 

 

 
花のある生物
1931~2

 

 

 

 

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下村観山

2010-05-23 | 日本人作家

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下村 観山  (しもむら かんざん)

1873年(明治 6年) 410日 - 1930年(昭和 5年) 510
明治 - 昭和初期の日本画の大家。

 

 

1873年(明治 6年)、和歌山県和歌山市に生まれる。(本名 晴三郎) 8歳のとき東京へ移住。最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。明治22(1889)東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。第一期生として卒業後、同校で教えていたが、1898年に 岡倉 天心 が野に下ったときに行動を共にし 横山大観菱田春草 とともに日本美術院の創設に参加した。

1905年に、師に同行し茨城県北部の五浦海岸の別荘「六角堂」へ移住し画業を深めた。

明治36(1903) 文部省給費留学生として、イギリス等に渡欧(~同38年)。
明治39(1906)日本美術院第一部(絵画)の五浦移転に伴い、家族と伴に五浦に移住する。大正 3(1914)大観らとともに日本美術院を再興する。代表作には「白狐」「弱法師」がある。

 昭和 5(1930) 神奈川県横浜市で死去

 

 

『弱法師(よろぼし)』画像をクリックすれば、全体図が大きな画面で見られます。

 弱法師 (よろぼし)
6 1双 絹本金地着色
大正 4(1915)

本図は第2回再興院展の出品作。謡曲『弱法師』に取材したもので,父を求めて摂津の天王寺にさまよう俊徳丸が,日輪を拝している場面である。
(東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 弱法師(よろぼし) )

 
 
 

     『白狐図屏風』画像をクリックすれば、大画面になります。
        白狐図屏風     東京国立博物館 )
           186.1×207.6

 
 
 
 
 
 
 下村観山 「魚籃観音(1928)
 
 
 
 
 
 
 
 

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写楽

2010-05-22 | 日本人作家

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 写楽

東洲斎 写楽 (とうしゅうさい しゃらく  旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)
江戸時代の浮世絵師。

 

寛政6年(1794年)から翌年にかけて、およそ10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消した。本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者 斎藤十郎兵衛( さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?) だとする説が有力となっている(詳細は後述)。Wikipedia


 市川蝦蔵「竹村定之進」

 

 

   
市川男女蔵(いちかわおめぞう)の奴一平(やっこいっぺい)

 

 

 

2011 09 27  講和政治は終わって  強い政治がはじまる わが郷】 

 

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杉浦 則夫

2010-05-21 | 日本人作家

 

杉浦 則夫【日本人作家】 杉浦 則夫 日本人作家

 


杉浦 則夫(すぎうら のりお、本名、194249日 - )
愛知県名古屋市出身の緊縛写真家。
(wikipedia わたしの里にて、画像など添付し、編集をくわえた。)

 

 

 


略 歴

18歳まで名古屋で暮らし、デザイン専門学校に進むが得るものなく中退。TV用人形劇の大道具のバイトを経験し、70年代の初めに浅草東洋劇場というストリップ劇場の進行係・照明係などを務める。

    SMペディア「杉浦則夫」

当時すでに伝説的な踊り子たちは引退し興行は斜陽だった。その一方でピンク映画がめざましい台頭ぶりを示すころである。 当時のピンク映画は今観ても一時代を築いた影像の美しさを持っている昭和48年頃、故太古八郎から 団 鬼六 を紹介され、鬼プロ制作助手のような仕事につく。当時の鬼プロは、ピンク映画製作とピンク映画上映館で幕間に1時間程行われるピンク芝居をとりおこなっていた。この興行には都内で劇団が10余ほど参加し、鬼プロも作団鬼六、女優紅まちこ、座長太古八郎で大いに活躍したものだった。 その後、鬼プロは「SMキング」を発刊し、編集者として参加する。主に写真撮影を担当するうちに手習いでカメラも扱えるようになる。SM撮影の現場を3〜4年の経験し、その後カメラマンとして独立する。 当時SM雑誌の主流だった「SMセレクト」「SMファン」などを軸に仕事をし、昭和末期には「SMマニア」「SM秘小説」の巻頭グラビアも担当するようになる。 この頃は、SM雑誌がもっとも勢いをもっていた頃で団鬼六、千草忠夫、美濃村晃、辻村隆などなど大家が、多くの読者を魅了していた。 その後三和出版に活動を移し、SM写真集から各種のマニア雑誌の巻頭カラーを撮影し現在に至る。


主な作品[編集]
三和出版 マニア倶楽部 巻頭グラビア
三和出版 おもらし倶楽部
杉浦則夫電網雑誌 緊縛写真 (2002〜)
杉浦則夫緊縛桟敷 緊縛写真 (2005〜)
昭和緊縛史 (2007〜)
緊縛映像美集 川上ゆう…しかし本当の快楽は (2008)
電子書籍 プライベート緊縛記録 和室編 (2012)

 

写真展[編集]
杉浦則夫写真展「女、裸、縄 〜感じいるもの〜」 (2012)


SMペディア「杉浦則夫」
https://twitter.com/smpedia/status/542529394682523649
【SMペディア豆知識】「浅草東洋劇場」http://bit.ly/12LbvR8 :1959年から1971年まで浅草にあった名門ストリップ劇場。東八郎、萩本欽一などが出演していた。杉浦則夫が60年代の後半から進行係・照明係として勤務。

https://pbs.twimg.com/media/B4dzm_zCYAMLpze.jpg

 

 

2015 04 01 習近平は、詐欺師。【わが郷】 

 

 

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