何だろ。観終わった今でも全く考えがまとまらない。
結局僕は「カナリア」に何を求めてたんだろうか。何を期待していたのか?
この国を震撼させたあの事件の犠牲者たる子供達の行き場のない激烈な感情の発露に
同情と哀れみの涙を流す事が望みだったのか?事件を風化させてはいけないと言う
ありきたりの道徳観を再認識するために劇場に向かったのか?
その両方だったのかもしれない。
でも「カナリア」はそんな陳腐な発想とはかけ離れた所にあった。
高尚だとか言ってるんではなくて、ただ、単純に別のところに存在していた。
こんなにも考えさせられた、むしろまだ考えている作品は初めてかもしれない。
今後これから公開される地域もあるし、そのとき色んな意見や考えがきっとまた生まれるだろうから
しばらくはblogでも注目して行きたい。
このテーマに向かい合うことは、
「社会人として映画監督として試されているという緊張感があった。
事件に向かい合うやりかたとして、ふたつの道があった。ひとつは事件を総括する方法。
もうひとつは、こうもありえたかもしれない、というひとつの可能性を探り、
そこから見えてくることをフィクションとして構築することで現実と向かいあう方法。
『カナリア』は後者の映画だ」。
監督のこの発言を事前に読んでいたら、この映画への接し方はまた変わっていたかもしれない。
カルトとその周辺を中心に描かれるんだろうと言う勝手な先入観に
少女が大阪弁で土足で踏み込んで来た。しかもどうしようもない悲しみと一緒に。
「カナリア」はカルトが生んだ悲劇の子供(達)のみならず、
そこに加害者として対峙する大人達の立場をさらに際立たせるべく、
もう一人の悲劇のヒロインを描いていた。
(“ヒロイン”というのは他に表現が浮かばない自分への自嘲として使ってるけど)
少女が問う。痛々しいほどに。
「万引きが悪いって言うんなら、何の罪もない何十人の人を殺したあんたたちはどうなんや!?」
それはそのまま映画を観ている傍観者としての僕らへの問いかけでもあった。
あの事件の「加害者と被害者の違い」なんてもしかしたら本当に紙一重で。
ほんのふとした事で加害者側の立場にいたかもしれなくて。
単純に年齢から考えれば既に僕はあの事件に遭遇した者として「答えを出す側」にいる。
身勝手な大人の犠牲者になった子供達の、「昔あった事」として事件を知った子供達の、
さらにはこれから事件を知る子供達の「あれは何だったの?何故起きたの?」に
本来なら答えるべき側であるのに、未だに、もしかしたらこれからもずっと答えは
出せないままなのかもしれない。
でも、きっと「カナリア」はきっと答えを捜し続ける切っ掛けを
一つ与えてくれたのかも知れない。
少女が問う。
「あんた、これからどこ行くつもりや?」「東京に行って爺ちゃんから妹を取り返す」
似合わない言葉だけど、ロード・ムーヴィーの様相を持って
救いようの悲しみを背負ったまま二人の旅が続く。
少女が話す。
「おまえ(少女)のことは本当は生みたくなかったけど、もう手遅れで仕方なく生んだんや」
少年が話す。
「爺ちゃんは妹だけを引き取って自分と母親を見捨てた」
ここにも身勝手な大人の犠牲者が。
「ローレライ」の時にも少し書いたけど、
「観る上で自分の視点となるべく感情移入の対象がいないと映画に入り込めない」…
この二人は12歳にしては大人びた、醒めた視点も持っていてその意味では自分に近いかも
しれなかったんだけど、「数年をカルトで過ごした事実を持つ少年」には自分とはどう頑張っても
合わせられない意識と境遇と経験があるはずで。
その意味ではこの少女の境遇の方がむしろ自分に近かった気がする。
まぁ個人的なことも含めて。
後半、オムライスを食べながら笑顔をかわした二人をあまりにも無情に襲う悪夢。
ここからの展開はちょと言葉を失った。絶句だった。激烈だった。
最後に再び少女が問う。
「うちら、これからどうしてくの?」「生きてく」。
あまりにも普通だったかもしれないけど・・・結局、それしかないんだと思う。
まだ答えが見つからない。事件にもこの作品にも。
けど後者にはまた触れたい。味わいたい。
P.S 互いに引っぱたいた後にキスする咲樹と梢。
小突き合って突き飛ばして、でも手を握り合って逃げる光一と由希。
この演出がスゴく良かった。もはやエロティックだったのだ。うん。
Now Listening : Music For Mallet Instruments, Voices And Organ / Steve Reich