そんな時、八木中学校サッカー部の歴史は動いた。
学級委員のTくんや、良く拙僧ブログに書き込みするYくん、みんなの僧-少年他数名で、市役所に談判に行ったのだ。
中学校の先生達に いくら掛け合っても話しが進展しなかった。所詮先生と生徒の関係で、らちはあかなかったのだ。
中学生ながら ない知恵を絞り、先生達に意見する立場の教育委員会や橿原市立と言うなら、橿原市の市長さんに話しを夢を聞いてもらおう!となったのだ。
どこまでも しぶとく どこまでも サッカー部を作りたかった。
ある日、勢い込んで市役所にいる市長さんに会いに行った。
「何しに来たの?」「全国中学生サッカー大会に出たいんです!」「だったらサッカー部の先生に言うとか、校長先生に言うとかしたら?」「いや、サッカー部が無いんです。だから市長さんにお願いに来ました!」「そうか、無いのか。分かったから今日は学校に帰りなさい」「ありがとうございました。よろしくお願いします」みたいな感じだった。
色々の部署をたらい回しされて 結局は市長の代理の人に話をしたのだった。
市長さんに会いに行った事がどういう事態を引き起こすのかは想像出来たが、それ以上にサッカー部設立に対する情熱が勝ったのだった。
案の定、翌日 校長室に呼び出され、こっぴどく叱られ、かつ両耳がちぎれるかと思うほど引っ張られた。
でも心の中で「サッカー部が出来るなら、耳の痛みも、叱られる事もへっちゃらや!」と 泣きながら歯を食いしばった。
「そんなに君たちはサッカーをしたいのか?」「はい、死ぬほどしたいです」「サッカーやるグラウンドの場所が無いだろう?」「最近バレー部が屋外から体育館に移りました。あのバレーコートでやらせて下さい」「サッカーは普通もっと広いとこでやるだろう?本当にバレーコートでもやるのか?」
勿論だった。便所前の空き地であろうが、何処でも良かった。サッカー部として正式に認められ、他の学校と試合が出来れば良かった。
そして、何よりも部活の時間にサッカーボールが触れる、蹴れる喜びは 何事にも代え難かった。
校長室に呼び出され、叱られて3日程経って、校長先生じゃなく、風紀顧問の先生に呼び出された。堅くて、怖くて、厳しい先生だ。
「サッカー部設立を認める事になった」「やったぁー!やったぁー!」「但し、一年後だ!」「えーーっ!」「お前たちは日頃の素行が悪い。一年間、タバコや暴力事件や何かしでかしたら、即、設立中止や!分かったか?それまでは学校が認めた同好会として活動し、練習場所は野外バレーコートでのみ認める!いいかっ?」「あ、それとサッカー同好会の管理と顧問は風紀のワシがやる。文句ないかっ?」
文句あっても聞かへんやん!びぇーーーつ!と言う学校側からの答えだった。
嬉しかった!死ねほど嬉しかった!一年間我慢すれば、晴れて正式なサッカー部が出来る。ひょっとしたら、全国中学生サッカー大会にも出場出来るかもしれない。そう思うと、風紀の先生の怖さも練習場所がバレーコートであっても全く問題はなかった。全てはバラ色に見えてきた。
確かにサッカー同好会にいる面々には ワルもいたし、モサもいた。
何とかタバコも吸わず、吸わせず、バレーコートで工夫しながら練習を重ねた。
青春、青春そのものだった。勉強は三の次だった。勉強してるふりして、ずうっとサッカーマガジン読みふけっていた。
一年が過ぎ、卒業まであと半年と言うところでサッカー同好会は 正式に 橿原市立八木中学校のサッカー部となった。感無量の初体験だった。
しかし、進学を控えて正式な試合は殆どなかった。いや、すべてが練習試合だった。
サッカーに中学三年間を打ち込めたことが 全てであった。
奈良県随一のサッカー強豪校 片塩中学との練習試合が決まった。
問題は正式にサッカー部となったものの、まだ部の予算が無いため、ユニフォームがなかった。何時も体育着をアレンジしていた。
しかし、強豪チームと対戦するのには、ユニフォームが着たかった。部員全員で小遣いを集めた。一人五千円ぐらいだったかな?
中学校に出入りしていた、橿原スポーツのお兄さんに五千円で、サッカーパンツ・サッカーストッキング・サッカーシャツをお願いしたが、無理な相談だった。
みんなの僧サッカー少年 は ベッケンバウワーやゲルト・ミュラーがいるドイツナショナルチームが好きで、ユニフォームも同じにしたかった。
到底無理な相談だった
。アディダスの三本線入りドイツナショナルチームに似せたユニフォームは予算の十倍はしたのだった。
ドイツもブラジルもデザインが複雑で高価だったが、メキシコワールドカップでブラジルと対戦したイタリアのユニフォームに似せるのは可能だった。
単なるブルーTシャツに近かったからだ。これなら買える!これならサッカーユニフォームぽく見える!
単なるブルーの丈夫なシャツに八木中学のYのワッペンと背番号を背中に付けた。
かくして、初めての強豪との試合はイタリアンブルーならぬサムライブルーのユニフォームで戦ったのだった。
戦った そのグラウンドは今は もう 無い。
中学校移転の為、無くなってしまった。
跡地には近鉄百貨店と橿原文化会館が建っている。フォトは橿原文化会館のものだ。
サッカー少年の夢舞台は 今は もう 無い。
当時、同時期に全国にいたサッカー少年やサッカー小僧も みなサッカーを応援するだけの オジサンになっているだろう。
みんなマイナースポーツのサッカーを愛した少年だった。
そのサッカーも40年と言う年月を経て、目の肥えた、超口うるさいサッカーオヤジから見ても ホンマに上手い、ホンマに凄い、ホンマにしぶといサッカー選手がいっぱいだ!
ホンマに日本代表は強くなった。今や子供達には野球よりサッカーの方がメジャーなスポーツだ。
あと10年後に日本代表は ワールドカップチャンピオンになっているかも知れない。
すべては変わる。すべては移り変わって行く。千変万化、諸行無常。
今回のアジアカップを見終えて、拙僧が思った事をインタビューに答えて青年が言っていた。「今回の日本代表は和でした。和が大事だと思います」と。「和」とは、自分の優れた所を出し合い、欠点と弱点を補い合う事だ。スタッフからサブから本田まで全員が「和」を分かっていた。そして、それこそが日本のアイデンティティなのだ。
日本代表がワールドカップチャンピオンになる頃、日本と日本人は 世界から尊敬される対象になっていれば更に良い。
サッカー少年の夢舞台はバレーコートからワールドカップのグリーンピッチとなった。
橿原市立八木中学校 サッカー部のみなさん。
みんなの僧-サッカー少年が叶えられなかった全国制覇!たのんます!(初代サッカー部キャプテンより)
学級委員のTくんや、良く拙僧ブログに書き込みするYくん、みんなの僧-少年他数名で、市役所に談判に行ったのだ。
中学校の先生達に いくら掛け合っても話しが進展しなかった。所詮先生と生徒の関係で、らちはあかなかったのだ。
中学生ながら ない知恵を絞り、先生達に意見する立場の教育委員会や橿原市立と言うなら、橿原市の市長さんに話しを夢を聞いてもらおう!となったのだ。
どこまでも しぶとく どこまでも サッカー部を作りたかった。
ある日、勢い込んで市役所にいる市長さんに会いに行った。
「何しに来たの?」「全国中学生サッカー大会に出たいんです!」「だったらサッカー部の先生に言うとか、校長先生に言うとかしたら?」「いや、サッカー部が無いんです。だから市長さんにお願いに来ました!」「そうか、無いのか。分かったから今日は学校に帰りなさい」「ありがとうございました。よろしくお願いします」みたいな感じだった。
色々の部署をたらい回しされて 結局は市長の代理の人に話をしたのだった。
市長さんに会いに行った事がどういう事態を引き起こすのかは想像出来たが、それ以上にサッカー部設立に対する情熱が勝ったのだった。
案の定、翌日 校長室に呼び出され、こっぴどく叱られ、かつ両耳がちぎれるかと思うほど引っ張られた。
でも心の中で「サッカー部が出来るなら、耳の痛みも、叱られる事もへっちゃらや!」と 泣きながら歯を食いしばった。
「そんなに君たちはサッカーをしたいのか?」「はい、死ぬほどしたいです」「サッカーやるグラウンドの場所が無いだろう?」「最近バレー部が屋外から体育館に移りました。あのバレーコートでやらせて下さい」「サッカーは普通もっと広いとこでやるだろう?本当にバレーコートでもやるのか?」
勿論だった。便所前の空き地であろうが、何処でも良かった。サッカー部として正式に認められ、他の学校と試合が出来れば良かった。
そして、何よりも部活の時間にサッカーボールが触れる、蹴れる喜びは 何事にも代え難かった。
校長室に呼び出され、叱られて3日程経って、校長先生じゃなく、風紀顧問の先生に呼び出された。堅くて、怖くて、厳しい先生だ。
「サッカー部設立を認める事になった」「やったぁー!やったぁー!」「但し、一年後だ!」「えーーっ!」「お前たちは日頃の素行が悪い。一年間、タバコや暴力事件や何かしでかしたら、即、設立中止や!分かったか?それまでは学校が認めた同好会として活動し、練習場所は野外バレーコートでのみ認める!いいかっ?」「あ、それとサッカー同好会の管理と顧問は風紀のワシがやる。文句ないかっ?」
文句あっても聞かへんやん!びぇーーーつ!と言う学校側からの答えだった。
嬉しかった!死ねほど嬉しかった!一年間我慢すれば、晴れて正式なサッカー部が出来る。ひょっとしたら、全国中学生サッカー大会にも出場出来るかもしれない。そう思うと、風紀の先生の怖さも練習場所がバレーコートであっても全く問題はなかった。全てはバラ色に見えてきた。
確かにサッカー同好会にいる面々には ワルもいたし、モサもいた。
何とかタバコも吸わず、吸わせず、バレーコートで工夫しながら練習を重ねた。
青春、青春そのものだった。勉強は三の次だった。勉強してるふりして、ずうっとサッカーマガジン読みふけっていた。
一年が過ぎ、卒業まであと半年と言うところでサッカー同好会は 正式に 橿原市立八木中学校のサッカー部となった。感無量の初体験だった。
しかし、進学を控えて正式な試合は殆どなかった。いや、すべてが練習試合だった。
サッカーに中学三年間を打ち込めたことが 全てであった。
奈良県随一のサッカー強豪校 片塩中学との練習試合が決まった。
問題は正式にサッカー部となったものの、まだ部の予算が無いため、ユニフォームがなかった。何時も体育着をアレンジしていた。
しかし、強豪チームと対戦するのには、ユニフォームが着たかった。部員全員で小遣いを集めた。一人五千円ぐらいだったかな?
中学校に出入りしていた、橿原スポーツのお兄さんに五千円で、サッカーパンツ・サッカーストッキング・サッカーシャツをお願いしたが、無理な相談だった。
みんなの僧サッカー少年 は ベッケンバウワーやゲルト・ミュラーがいるドイツナショナルチームが好きで、ユニフォームも同じにしたかった。
到底無理な相談だった
。アディダスの三本線入りドイツナショナルチームに似せたユニフォームは予算の十倍はしたのだった。
ドイツもブラジルもデザインが複雑で高価だったが、メキシコワールドカップでブラジルと対戦したイタリアのユニフォームに似せるのは可能だった。
単なるブルーTシャツに近かったからだ。これなら買える!これならサッカーユニフォームぽく見える!
単なるブルーの丈夫なシャツに八木中学のYのワッペンと背番号を背中に付けた。
かくして、初めての強豪との試合はイタリアンブルーならぬサムライブルーのユニフォームで戦ったのだった。
戦った そのグラウンドは今は もう 無い。
中学校移転の為、無くなってしまった。
跡地には近鉄百貨店と橿原文化会館が建っている。フォトは橿原文化会館のものだ。
サッカー少年の夢舞台は 今は もう 無い。
当時、同時期に全国にいたサッカー少年やサッカー小僧も みなサッカーを応援するだけの オジサンになっているだろう。
みんなマイナースポーツのサッカーを愛した少年だった。
そのサッカーも40年と言う年月を経て、目の肥えた、超口うるさいサッカーオヤジから見ても ホンマに上手い、ホンマに凄い、ホンマにしぶといサッカー選手がいっぱいだ!
ホンマに日本代表は強くなった。今や子供達には野球よりサッカーの方がメジャーなスポーツだ。
あと10年後に日本代表は ワールドカップチャンピオンになっているかも知れない。
すべては変わる。すべては移り変わって行く。千変万化、諸行無常。
今回のアジアカップを見終えて、拙僧が思った事をインタビューに答えて青年が言っていた。「今回の日本代表は和でした。和が大事だと思います」と。「和」とは、自分の優れた所を出し合い、欠点と弱点を補い合う事だ。スタッフからサブから本田まで全員が「和」を分かっていた。そして、それこそが日本のアイデンティティなのだ。
日本代表がワールドカップチャンピオンになる頃、日本と日本人は 世界から尊敬される対象になっていれば更に良い。
サッカー少年の夢舞台はバレーコートからワールドカップのグリーンピッチとなった。
橿原市立八木中学校 サッカー部のみなさん。
みんなの僧-サッカー少年が叶えられなかった全国制覇!たのんます!(初代サッカー部キャプテンより)