世相の潮目  潮 観人

世相はうつろい易く、その底流は見極めにくい。世相の潮目を見つけて、その底流を発見したい。

ギリシャ債務危機はギリシャだけの責任ではない

2015年06月23日 | 政治
ギリシャの債務危機問題は最終段階に入ったと言われます。ギリシャの債務支払期限はIMFは6月末、ECBは7~8月であり、ギリシャが最終改善案を提出し、EU 側が検討中とのことです。

これまでの交渉経過を見ると、世界のメディアの多くは、借金を返さないギリシャが悪いと報じていて、ギリシャの行動を批判する傾向が強いのです。酷い報道になると、蟻とキリギリスの童話のように、働かないで高い報酬を求めるギリシャ人が悪いのだとまで言います。

しかし、果たしてギリシャ債務危機はギリシャ人だけの責任で生じたものでしょうか?

最大の原因は、そして責任も EU の経済システムの欠陥にあるのです。ドイツ人が勤勉でギリシャ人が怠惰だから生じた問題ではないのです。

欧州の経済統合が関税などの貿易面で単一市場を求めていた間は、産業の興廃、失業の発生などの摩擦が生じても、市場効率が高まるので EU 圏内の国家間の対立には至りませんでした。

しかし、通貨をユーロに統一してからは、EU 圏内の国家間の摩擦は激しくなってきました。

先ず最初に発生した問題は、財政規律を守れない国が出現したことです。EU が単一通貨ユーロを導入したとき、通貨価値を維持するため加盟国の財政支出を抑制することを求めましたが、国内政治の要求で財政規律を守れない国が出てきたのです。ドイツまでが規律違反をした時期があったのです。

次に発生したのが貿易赤字と財政赤字で借金が返済できない、今回のギリシャ問題です。最初に発生した財政規律違反の問題も、今回のギリシャ債務危機も、原因は同じものです。複数の国の通貨を統一しておいて、国内政治を動かす財政を各国に任せる EU の経済システムでは、一つの国の経済なら解決できたことも、解決出来ない事態に発展するのです。

通貨は国家主権の一部ですが、これをEU に預けるなら財政権も EU が預かり、EU 統一国家を構成すれば、ギリシャ問題は一国の地方政府の問題となり、統一国家は当然その支援に乗り出しますし、そうする義務があります。

現在の EU は統一国家ではありませんから法制上の支援の義務はありませんが、通貨を統合した以上、経済的には EU 構成国を支援する責任があるのです。

最近、ドイツのメルケル首相は、どんな手段を使ってでもギリシャを EU に残留させると言いました。これだけでは彼女が何を意図しているのか分かりませんが、ギリシャ債務危機を生み出し責任の多くはドイツにあると気づいたのかもしれません。

推測でその論理を追ってみましょう。
ユーロ圏内には経済的に最強のドイツと共に最弱のギリシャをおよに弱い南欧諸国が入っています。弱小国の存在のお陰でユーロの為替レートは、ドイツの輸出競争力を高めます。割安のユーロ通貨でドイツが世界市場で稼いだ外貨は、ドイツだけのものではないと理解できます。

更に深読みすれば、もしギリシャをユーロ圏外に追放すれば、それに続いて南欧諸国が脱落するとなれば、ドイツが支配している単一 EU 市場を失うことになり、それだけでなく、ユーロ通貨は割高の為替レートとなり、今までのドイツの国際競争力はかなり力を失うでしょう。

ギリシャ債務危機がギリシャだけの責任で発生したわけではないと理解すれば、IMF返済遅延、ECBの支援停止、銀行システム崩壊(預金引出規制)、政府支払用新紙幣の発行(新ドラクマ発行)、ギリシャのEU離脱のシナリオの道は避けなければなりません。

過去にも債務不履行危機は存在し、国際協力で解決されました。しかし、過去に生じた債務不履行は、短期の手元不如意だったのですが、今回のギリシャ危機は長期的にも支払不能に陥る可能性が高いのです。最終的には IMF も ECB も借金棒引きを視野に入れねばならないでしょう。

しかしギリシャの EU 加盟はソ連に対する政治的・軍事的意味合いが強かったのです。時恰もウクライナ問題で対露経済制裁の最中です。ギリシャ危機で西欧の結束が乱れることを米国は恐れていますから、IMF の支援も期待できます。 (以上) 
 
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国防論議が空論に陥るのは日米安保が成功したからだ

2015年06月05日 | 現代
国会で安全保障に関する法律審議が始まりましたが、世論調査などでは国民の理解が進んでいないと言います。しかし、軍事情勢を台所事情と同じ感覚で理解しようとしても無理な話で、理解が進まないのに不思議はありません。

それにも増して、日本の国防論議は国際常識から大きく乖離するものが多く、理解困難なのです。日本人の国防に関する議論には基本的欠陥があるので、いくら議論しても理解は深まらないのです。その欠陥とは、国際政治と軍事情勢についての正しい事実認識がないと言うことです。

その点について40年もの昔に、福田恆存氏はその著書「日米両国民に訴える」で次のように述べています。

「ソ聯の鐵のカーテンは今やアルミ程度のものになりつつあるが、それでも他國をして自國の内部を覗き見させないといふ効用は今なほ果してゐる。が、日米安保條約といふ鐵のカーテンは、これも今では大分アルミ化してゐるが、その効用はソ聯のそれとは相反し、日本人自身に他國の存在が見えぬ様にする役割を演じてゐるのである。」

戦後(1951年)締結された日米安保条約は、日本がアメリカ軍に基地を提供するための条約であり、基地を提供するからと言って日本防衛の義務を米国に課するものではありませんでした。岸内閣によって行われた安保条約の改定(1960年)は、米国側にも日本防衛の義務を負わせて、日米共同防衛を義務づけた、より平等な条約に改正したものです。

しかし、その時、それに対して、激烈な反米運動を起こしたのが日本人でした。所謂60年安保闘争がそれです。この時から日本は世にも不思議な国になったのです。

この不思議さは、日本の平和憲法への一種の信仰に由来します。戦後、日本が平和を享受できたのは、平和憲法があるから外国から攻撃されなかったという信仰です。米国に守ってもらわなくても、平和憲法があるから日本は安全だという信仰です。

しかし実態は、日米安全条約で日本に駐留している米軍が日本を守っているから、日本は他国から攻撃されること無く今日まで平和でこれたのです。日本人の多くは、長年の日米同盟という鉄のカーテンで目隠しされて、外部の世界が見えなくなってしまったと、福田恆存氏は国民の錯覚を批判したのです。

その錯覚は今なお根強く国民の心に住み着いています。だから国会議員達が国際的に見て不思議な議論を国会で行っていても、理解が進まないなどという、暢気な反応が国民から反ってくるのです。

例えば、不完全な安保法制を整備する国会審議なのに、最近の中国の侵略性、北鮮の攻撃性について殆ど危惧する討論は耳にしません。野党が言い立てるのは日本側の武力の行使の新三要件が曖昧であるとか、集団自衛権の拡充で自衛隊のリスクが高まることが良くないと言う議論です。

鉄のカーテンで目隠しされている間に、隣国が攻撃的なっていることも知らず、軍国主義だった日本は未だに攻撃的だと妄想しているのです。周辺国諸国の危険に対する知覚を失った日本人は、今なお過去への自責の念に汲々としているのです。

或いは、日本が集団的自衛権の行使を認めるのは日米安保条約の双務性からして当然のことなのに、地球の果てまで米国に従いていき戦争に巻き込まれるという議論をしています。領土・領海・領空を拡大している近隣国が、盛んに軍備を増強している時に、そして自国防衛に励まねばならない時に、攻撃的な近隣国に備えずに地球の果てまで自衛隊が出向いていくという空想論を想像できるのは、長年鉄のカーテンで目隠しされてきたからでしょう。

逆に、そこまで想像力が働くなら、むしろ日本に起因するアジアでの紛争に、米国は巻き込まれたくないだろう、その時米国は日本を助けてくれるのだろうかと危惧する想像力が何故働かないのでしょうか。これも同盟国も含めた外国が何を考え、どう行動するかに対する理解力が無く、自分のことばかり内向きに考える自閉症の患者が行う行動です。

外国から攻められたら如何にそれを防ぐのかを論じるのが本来の防衛論ですが、日本が外国を攻めるのを、如何に規制するかと言う防衛論(武力の行使の新三要件、集団自衛権)に熱中できるのは、皮肉なことに日米安保条約が、極めて長い間、有効に機能した結果です。 (以上)
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