うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

サラリーマン政治家と職業と社会人(書き込み中)

2008年09月12日 07時43分43秒 | わたしの日常です。
 
 たまには社会、政治のことについて触れてみる。
 二、三日前に中曽根康弘(大勲位!)さんが、福田首相の突然の辞職について、政治家はサラリーマンじゃないと批評していた。会社員の常識が政治家の常識とはき違えている。
 やはり、わたしがこのブログで 「小沢一郎Part2--071112」 の記事で触れたとおり、急場しのぎの政権で終わったことになる。情けなくも、予想通りだ。
 わたしも、中曽根さんのこの意見に賛成だ。たしか、前の安倍さんは神戸製鋼、福田さんは丸善石油と株式一部上場の会社勤務から、親の跡を継いで政治家になった二世議員である。世間では、この会社はいちおう一流会社であるらしい。
 そして、一般的に社会とか、世間を理解していくのはこの会社員生活を通じてやる仕事の領域で専念することであり、そういうものであると認識されている。ほかにはない、と。
 しかし、今はわたしはそうは思わない。それは偏った見方だと思う。

 このことで、わたしは会社員と職業を考え思い悩んでいる(?!)ことをここに書きたい。
 とどのつまり、わたしのボランティア活動の自覚もここから派生してきたのだ。そこでは、専門的知識と経験を生かし地域になにができるか。このブログでも片鱗を載せているが、私の場合は次の通りだ。

 1. 土木的なものとして、わが住宅地374戸の雨水調整池補修計画プロジェクトのチームリーダーをこの1月からつとめている。定期的な打ち合わせと準備作業を入れると、ひと月に2~3日分の時間を占めている。
  2. まもなく5年目になるが、八街市まちづくり市民会議のメンバーで、市役所の担当部署と協働しながらその時々の市政に供するように、市民有志による勉強会、現地調査をおこない提言している。今のところ2~3ヵ月に1日を費やしている。
 3. 個人的には郷土の植生や里山についての知見を活かし、野外活動の自然観察指導員の資格(NACS-J)を持ち自前の体制をつくりつつある。具体的な動きはまだ先になる予定。しかし、このボランティア活動は、安定した生活費を稼ぐことが大前提である。

 ほかに、おととし、施設管理組合の理事長として一年間つとめた。これは他人が嫌がる役目であった。その際、先送りされてきた四つの懸案事項をひととおり解決にみちびいた。
 そして、これらはすべて金銭の授受はなく無償のボランティアで動いている。

 安倍さん、福田さんははっきり言って政治家ではないと思う。単なる自民党という任意の政治団体に勤める会社員だ。理想、理念を追求し国民に奉仕する、政治とはわかりやく言えば絵空事、屁理屈に命をかけることだろう。見立ては、口先三寸の渡世が身上、さあ、どうする、責任の所在は何処に? だからこの両者は、一義的にはこの場合は政治家修行が足りないことになる。
 いや、二世議員であってもいいのだが、だが、一般的に職業というものは親譲りが適正な選択であろうか。結果的には、単に無難な生き方を選んだに過ぎない。他の職業はいいとしても不特定多数を相手にする政治家には不向きである。いや、ややもすると国民にとって不利益を被る場合もあるのだ。
 ただし、政治家にも職業的な特徴がありそうだ。それは男性っぽい職業でありながら、この世界特有の見栄と女性的な感情、嫉妬ねたみのすさまじさだ。いくら立派な主義主張を唱えようが、このきわめて人間的な感情をうまく処理できないとこの職業を全うできないだろう。こればかりはわたしたちの日常の生活感情でもわかるが、無視はできない、やり過ごすことが一番の解決方法だ。人間関係を左右する面倒な心理的摩擦、軋轢に対して、田中角栄や小泉純一郎は金銭、人気投票の力で解決したから実力を持ちえたものと思う。成しえた業績の有無と大小、またそれに毀誉褒貶があるにしても、まあ、大出世したものと思う。

 現代の社会でも、高校なり大学を出て会社に入り仕事をして世間を知るのが社会的通念であり通例になっている。それで、それを脇道にそれずストレートに生きてきてなんぼの評価だそうだ。学校を卒業して入社して定年までひとつの会社に勤め上げる。素直に考えれば、それは会社員業を生きてきたに過ぎないのであって、ひとつの職業を生きてきたのではない場合が多い、ましてや社会人を生きてきたとも言えない場合が多い。ややもすると、スペシャリストも専門バカあつかいされて同然の場合がある。ある意味、視野の狭く社会性を感じ社会的な責任を自覚せずに生きてきたことになる。
 そのことに大部分の会社員は、会社をリタイアした時に気づくものである、そこで人生観の深刻な見直しに迫られる。世間では会社の序列、役職、評価は通じない、意見は誰も聞いてくれない。たちまちにして家庭内問題、地域社会との意識のずれに悩まされるであろう。そんなことは、会社員時代に自覚しおこなってくるべきものだ。
 わたしも、諸般の事情で、会社をやめ、自営を余儀なくされたが、なんでもかんでも自らの考えで生業をたてるという仕事の厳しさを味わっている。早朝時の目覚めのみじめさ、無間地獄のような孤独が襲ってくる。日々の糧はどうするのか?
 サラリーマンに対してビジネス的に感じるのは会社という組織に属しているメリットを感じずにいることだ。それに加えて、社会とか、世間は会社員だけで成り立っているという思い込みの激しさである。会社員という一組織員に過ぎず、社会における職業人という自覚のなさである。
 単に、目の前の仕事環境しか知らないくせに。

 わたしが自営してから感じたのは会社員の冷淡さである。未必の故意にでも見えるかのような会社員特有の要領、社交術。ビジネス面では取引の断絶、会社員時代の知人の金銭的な裏切りを知ることになったもの。実際、わたしは物損もこうむった。
 特に好人物ふう、能力がなさそうで自信なさげな性格の同僚、知人がひどかった。
 だから、総じて会社での同僚、知友の交友関係はパッタリと途切れた。むしろ、得意先や協力業者の経営者との付き合いの方がつづいたのである。

 しかしながらここでは、なにも、社内告発のすすめとか、コンプライアンスとか、仕事の倫理性を大上段に構えて言っているのではない。まあ、わずかに建設業に従事する技術者としての良心とか正義については関係するかもしれないが。

 わたしの会社員時代は、進んで就いた好きな仕事のせいもあるが、仕事上の会社経費のうち3割から4割は自腹を切っていたものだ。おもに設計資料(書籍)道具の入手、設計スキルの習得、植物、デザインに関する国内各地での現地への踏査、見学費用である。まあ、わたしは、公然と変人を自称しワンマン社長にも認められていた社内背景もある。しかし一般的にはこのわたしの会社員のありようは、このこと自体異例であり、理解に苦しむかもしれない。
 しかしながら振り返ってみると、今はなき会社には在社中に恵まれたとは言えないが、わたし自身、比較的大きなプロジェクト、仕事には何度も担当させていただいたことには感謝している。

 ※これは、文章化にあたり考え考え修正し、推敲しながら書き込み中ですので、このブログを見ている方はどしどしコメントをしてください。反対意見なども大歓迎します。
         
コメント
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