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うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

夕焼け--吉野弘の詩

2009年01月12日 07時40分28秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

夕焼け

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。 
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて-----。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。 
 [吉野弘全詩集- 青土社] [吉野弘詩集- ハルキ文庫 角川春樹事務所]

 昨日につづいて2編目である。相手の気持ちを純粋に思いやる、こんなにかなしいほどの優しさはわたしには辛すぎる。若い女性の未来を思うのだ。
 吉野弘の詩は平明さが特徴的である。しかし、自分でも真似して作ろうとするとなかなかうまくいかない。気取り、けれんみ、ペダンチックには無縁、ごく日常の言葉をつかって表現している。そして、その言葉はわたしをふり返らせてくれる。
 吉野弘さんは、今、長寿を全うしつつあるようだ。これからも、よりいっそうのご健康をお祈りしたい。
 いつか、わたしの隠れた特技(!)である詩の朗読の席があったら宮沢賢治の‘風の叉三郎’の一節、‘雨ニモ負ケズ’とともに、とりあげたい内容の詩だ。
   
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祝婚歌--吉野弘の詩

2009年01月11日 07時53分50秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

祝婚歌

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい
 [吉野弘全詩集- 青土社] [吉野弘詩集- ハルキ文庫 角川春樹事務所]

 先日ある本を読んでいたら、政治評論家であるその著者にしては意外なことに吉野弘という詩人が紹介されていた。わたしは、戦後の詩人では山本太郎、吉本隆明が好きであったが、あらためてここに掲載する。よく若いカップルの結婚式などに、長渕剛の‘乾杯’の歌のように、詩の朗読などでこの詩が式場で披露されるらしい。
 もちろん、ここには、わたしの結婚生活30余年の感慨もはいっている。
   
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ギボウシの紅葉とよもやま話

2008年11月24日 04時24分31秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

 これは今のギボウシの圃場である。黄色くなったり、紅葉が一面にひろがり、なんだか、春先から夏までの移り変わりを思い出し、静かな生命の名残りを感じる。
 そういえば、昔、北海道の登別からオロフレ峠を経て、洞爺湖付近の北湯沢というひなびた温泉場の小さな渓谷で白い葉の紅葉を見たっけなあ。オトコヨウゾメであったか、なんという灌木だったか。彼の地の紅葉は本州と異なり、降るような落ち葉、そこはざっくりとして荒々しい光景であったが、あれは良かった。その場の空気に透明感がありハラハラとしていた。
 今はこんなふうに、見わたす限り、草紅葉に季節は変わった。これからは霜が降り、場合によっては白い世界に変わっていく。人事の苛酷さと森羅万象の輪廻。そして、それでもその無常感にあらがう日々の暮らしがある。
      
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晩秋七句--偶成

2008年11月16日 07時11分54秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

 ・秋憂い 芋虫が角を出し わが手の甲

 ・奈落の陽 思いめぐらす 落ち葉かな

 ・滾(たぎ)りおる 犬の険しき声 小春日和

 ・電話のベル 昏(くら)い西空 いついつと    
  
 ・立ち止まり 過ぎ去る想いを 草紅葉

 ・昼時分 ミルクとパンを餐(さん)し カラス啼く

 ・濁るあたま 足もと寒し 秋の日の入り

    
 
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60年安保、岸上大作の短歌

2008年11月07日 03時40分57秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
今日は立冬。
 “文藝別冊-総特集-吉本隆明-” 河出書房新社 という雑誌を読んでいたら、岸上大作の短歌を思い出した。わたしの所蔵している中にはかれの短歌集は見つからず、やむを得ず、ほかの本からの孫引きやWEB検索をしてここに採録した。煩雑を恐れることなく、ここでは重複を厭わず記している。まずは関係者の方々に対して、どうか了承のうえご寛恕を請いたい。

 樺美智子さんが亡くなった60年安保のとき、 岸上大作は国学院大学の短歌研究会に所属していた。もうすぐ、死後50年になる。
 当時、彼は煩悶の情を持って、歌人寺山修司(突っぱねられたが・・)や吉本隆明を訪ねたらしい。吉本隆明は岸上大作の葬儀に参列するが、遺族から死因について、あんな本を読んだためにと、責められるのだ。
 「意志表示」の解題に吉本隆明の分析と解説があり、また自身の“追悼私記”にも転載されている。(ちなみに、吉本隆明の追悼の文章は秀逸ぞろいだ)。
 どうぞ、若い気魄と切迫した心情をたどっていただきたい。

岸上大作 【きしがみ だいさく】
昭和14年10月21日~昭和35年12月5日。60年安保闘争に参加し、革命と恋の青春を、ナイーブな感性でうたった歌を作った。21歳で自殺。

戦病死で父親(岸上繁一)をなくした後、貧困な母子家庭に育つ(母はまさゑ)。長男。中学時代に社会主義に興味を持つ。兵庫県立福崎高等学校に入学して、文芸部に入部。詩、俳句、小説、ドラマなどを書くが、「まひる野」に入会して短歌のみを志すこととなる。國學院大學文学部に入学し、安保闘争に身を投じて負傷。1960年の秋、安保闘争のデモの渦中に身を投じた経験と恋とをうたった「意思表示」で短歌研究新人賞推薦次席。安保世代の学生歌人として「東の岸上大作、西の清原日出夫」と謳われた。同年12月、失恋を理由として自殺。死の寸前まで書かれた絶筆「ぼくのためのノート」がある。著書は作品集・白玉書房刊「意志表示」(1960年)、日記・大和書房刊、「もうひとつの意志表示」(1973年)など。現在、角川文庫版がある。
現在、兵庫県の姫路文学館に展示ブースが設置されており、「意志表示」などの直筆作品を見ることが出来る。

昭和35年の冬、岸上大作は、最後の炎を燃え上がらせて54枚もの原稿用紙に遺書を書いた。七時間をかけて死の寸前まで書き続けられた「ぼくのためのノート」は、東京郊外、四畳半の下宿の窓で縊死した学生歌人の烈しい青春の情熱をほとばしらせ、その熱気は一瞬の閃光を残して彼方へ消えた。

21歳2ヶ月のあまりにも短い生涯を「恋と革命」の挫折によって区切った大作の墓は、兵庫県西部、民俗学者柳田国男の生家に近い山裾の墓地にあった。戦病死した父繁一と、平成3年、74歳で逝った母まさゑの墓に挟まれて、貧困と孤独の十八年間を過ごした里の靄った反射光を受けた鈍く黒光りする碑面は、羨ましいほどの強い意志を持って立っていた。

代表歌集
「意志表示」 昭和36年
---------------------------------------------------------------------
   (意志表示)
   ・意志表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ

   ・装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている

   ・海のこと言いてあがりし屋上に風に乱れる髪をみている

   ・プラカード持ちしほてりを残す手に汝に伝えん受話器をつかむ

   ・ヘルメットついにとらざりし列のまえ屈辱ならぬ黙祷の位置 

   ・血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする
 
   ・断絶を知りてしまいしわたくしにもはやしゅったつは告げられている 

   ・口つけて水道の水飲みおりぬ母への手紙長かりし夜は

   ・美しき誤算のひとつわれのみが昂ぶりて逢い重ねしことも

   ・幅ひろく見せて連行さるる背がわれの解答もとめてやまぬ

   ・生きている不潔とむすぶたびに切れついに何本の手はなくすとも

   ・不用意に見せているその背わがためのあるいは答案用紙1枚

   ・学連旗たくみにふられ訴えやまぬ内部の声のごときその青

   ・戦いて父の逝きたる日の祈りジグザグにあるを激しくさせる

(高校時代)
・人恋うる思いはるけし秋の野の眉引きつきの光にも似て

・悲しきは百姓の子よ蒸し芋もうましうましと言いて食う吾

・恋を知る日は遠からじ妹の初潮を母は吾にも云いし

・ひっそりと暗きほかげで夜なべする母の日も母は常のごとくに

・白き骨五つ六つを父と言われわれは小さき手をあわせたり

・分けあって一つのリンゴ母と食う今朝は涼しきわが眼ならん

・かがまりてこんろに赤き火をおこす母とふたりの夢をつくるため

(その母たちのように)
・木の橋に刻む靴の音拒まれて帰る姿勢を確かにさせる
            
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「群青」という歌と、嫌な思い出

2008年10月29日 06時13分22秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

 先日につづいて、歌謡曲をとりあげる。「群青」という歌である。谷村新司の中ではそこそこ売れたのだろうか、知る人ぞ知る曲だと思う。これは、後で知ったのだが、つくられたのは映画の製作時の時だそうだ。この歌手は、非常に器用でメロディとともに歌詞のつかいかたは手慣れている。
 多分、国語力の低下と教養不足だろうが、最近の若い歌手には日本語のボキャブラリィ、言葉のつなげかた、比喩、形容詞のもちいかたにおかしいものが多いように感じられる。オーディオ機器の発達で耳に対する音感は広く深く育ってきた。それに伴い作曲者側のサウンドはすぐれて良くなってきたようだが、如何せん、日本語のもつ語感と音律に無知なせいで、何となくちぐはぐで表現力が落ちている。
 挙句の果てには、あり得ない日本語の歌詞を作り平然としている。わたしには滑稽を通り越して暗い気持ちになる。書き言葉ではなく、基本は話し言葉だろうが、メロディだけで引っ張ると残らないよ。

 数年前、マンション建設の造園工事に際し、金沢市の業者と打ち合わせを兼ねて流れて行った浦安市内のカラオケ店で、相手の営業担当がこの「群青」を歌ったのだ。りゅっとしたなりの明るく如才ないその人が、この静かな曲を歌い意外感にうたれて聞き入ったものである。
 なんだ、なんだ・・という思いでいたが、やはりそうか、太平洋戦争の時の特攻隊だな、ふむ、そうすると散華ということか。
 わたしの父は銃後の守りの役目ということで、出征はしていない。農業のかたわら馬喰もしていて、軍馬の調達をしていたようである。そしてわたしは戦後の生まれ、戦争を知らない世代だ。
 厳粛とやるせなさ、吸い込まれるような透明感と、残された者の祈りになんとも言いようのない無常感が漂う。

 ところで、その後、わたしが独立してからだが、その営業担当者とは、電話で、仕事上の思いもよらぬ一方的な激しいやりとりがあって仲違いしてしまう。意味も分からず闇討ちも同然である。世間に鬱屈したことでもあったのだろうか。まあ、そんなもの、当人が好きで歌い客観的に上手であってもその人のキャラクターがそうであるとか、歌詞の内容を熟知しているかは別問題である。

谷村新司 作詞/作曲

空を染めて行く この雪が静かに
海に積もりて 波を凍らせる
空を染めて行く この雪が静かに
海を眠らせ あなたを眠らせる
手折れば散る薄紫の
野辺に咲きたる一輪の
花に似てはかなきは人の命か
せめて海に散れ 思いが届かば
せめて海に咲け 心の冬薔薇

老いた足どりで 思いをめぐらせ
海に向かいて 一人佇めば
我より先に行く 不幸は許せど
残りて悲しみを 抱く身のつらさよ
君を背負い歩いた日の
温もり背中に消えかけて
泣けとごとく群青の海に降る雪
砂に腹這いて 海の声を聞く
待っていておくれ もうすぐ帰るよ

空を染めて行く この雪が静かに
海に積もりて 波を凍らせる
空を染めて行く この雪が静かに
海を眠らせ あなたを眠らせる
     
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北京のオリンピック騒動

2008年08月22日 03時23分08秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
やや、暑さが和らいできた。
 連日、私は北京のオリンピックのテレビ放送にかじりつく。中国はこの国家的なイベントにかける熱意と喧騒とその虚妄と、悲惨な少数民族に対する人種差別、所得差の激しい国情の国であるが、それでも興味津々で見ている。

 日本のマスコミは、中国のインターネット世論を重大に取り上げすぎる。得手勝手な意見をふりまわす。中国共産党に抑えられて、単に外国を知らず国内でエネルギーのやり場に困っているに過ぎない。為政者から見たらそのかじ取りは難しいかもしれぬが、そればかりだとどんな政治体制であっても、衆愚政治の世の中になってしまう。
 徹頭徹尾、生存競争に明け暮れせざるを得ない自己中心主義の大河の砂粒のような無数の国民の集まりだ。この国は、比較するときにわたしたちがおもわず感じる日本人特有の美意識などクスリにもしたくない。かつて礼の国と言われた中国は、何処にありや。孔孟思想、四書五経の国、史記、漢字文化の源の国などと、憧憬を持って善意に解釈するのはそろそろ大外にした方がいい。これはこれ、あれはあれである。現代の中国に対してわたしはそう思う。

 以前、一週間程度、中国に旅行した時に現地で不承々々に実感させられたのは、比喩的に表現するならば、社会主義の国とは市民が存在せず公務員だらけの国民で成り立っているということだった。むろん、そこには公務員の良し悪しもある。旅先で、わたしはてっとり早くそのように理解したものだ。

 国境など冷厳な国際関係には、国として主張すべきは、何度も何度も繰り返し主張すること。相手は国際法を守るではなく、国自体が法治国家でなく中国共産党による人治国家だ。そうしないと、かれらは真実ではなく既成事実を積み上げそれを現実化していくだろう。イミテ-ションを正々堂々と何度も繰り出せば本物であるとする、というお国柄だ。日本人は海洋民族だからか、国境にのほほんと無頓着すぎる。親愛の情を示すのはその次だろう。
 それに、わたしたちは日本国民、国益第一、むしろマスコミは日本人から見た、共産党独裁の部分を勇気を持って取り上げてほしいものだ。アイデンティティーを持てず思い込みの激しい国民性の韓国と同様に、願わくば、中国も隣国なのだから是々非々で適切な距離感を持って交流したいものだ。
 その当時知り合った、昆明のイー族のあの雲南大学出身の女性はどうなっただろう。漢民族で北京師範大学出のエリートの彼は出世したかな。などと、日本人選手の活躍とともに、わたしは身近に思いながらテレビでオリンピックを見ている。
      
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庭先で春を詠む、8句

2008年04月29日 07時23分20秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

     ・こころ濁る 気をうしないし菜の花や

     ・おぼろ夜や 丹色のせて立つ 虞美人草

    はかなげな諸葛菜を屈んで見つ、
     ・無骨な面立ち 紫紺の花びらこぼれ咲く

     ・つややかに 菫ほころぶ 小さきしじま

    今年初めて、姫林檎も咲いた日、
     ・温かし 白い花束まとう 小夜時雨 

     ・赤蛙 遠きにうごめきおり 春霖

    雪柳にとりかかる雀を見て、
     ・春日和 実をついばみたり すずめ急く

     ・躑躅咲き 人の間のせわし 春の往く日
 
           

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白川静の『字訓』と、映画『実録・連合赤軍』

2008年04月19日 04時48分31秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
4月16日。快晴、日中は最高気温が20℃を越えた模様だ。
有楽町駅前に着いて、9時を待ってから用事をすませて3,40分、新宿に向かう、東南口の改札を出てルミネ新宿を探した。相変わらず入口がわかりにくい。JR発行の商品券が手元に昨年の夏ごろからあり何かを買わなければいけない。というのは利用先が千葉の地元になくそのままになっていたのだ。5階の書店に行く。ブックファースト、だそうだ、開店直後の店をぐるぐる回ってて気づいた。なあんだ、あの青山ブックセンターだったところじゃないか。書棚、本の配列ではなく店舗のレイアウトでわかるのだ。数年前に倒産したが、とうとう再建はならなかったのだろう。あるいは縮小しているのか。本好きに言わせれば、業界では好評だった店のはずだ。
 最近の書店は、チェインストア展開ばかりで味気ない。本に詳しく、いかにも読書好きの店員のいる店にぶつかったことがない。
 わたしは読書も購入意欲もこのごろは落ちているのだが、よしっ、これにする。お亡くなりになられたが、敬愛する立命館大学の白川静先生の本だ。正真正銘、学問の王道を進んだ人だ。漢字の起源を長年にかけて解き明かした独創的な労作だ。大部だからほどほど重いのだが、まあいい。
   新訂 字訓(普及版) 白川静 平凡社 6,300.

 それから新宿駅東口を遠巻きにするように、わたしはおもむろに伊勢丹側に歩いていく。今日は「テアトル新宿」で映画を見る予定だ。若松孝二監督の〈実録・連合赤軍--あさま山荘への道程〉である。映画製作には難しいと思われたが、まとめかたにメリハリがあり作品としては成功したと思う。カメラワークもいいし、若松監督の意図に質の良い良心的なものを感じた。わたしは同世代だ。
 しかし、わたしには重苦しく感じて考えさせられた作品だ。映画の内容である内ゲバ、同志のなかで14人も残忍な粛清にした‘総括’の事態にでは、必ずしもない。純粋さと野蛮さが自然に同居する若さという心理と生理。人生、時代性と自我とか世界観とか、いずれにしても若者特有の問題意識、目的設定になるのか。ちょっとうまく言えない。

 映画の前半部分で、当時の報道フィルムのラッシュがこれでもかこれでもか、というように使われている。ベトナム戦争、日米安保条約、三里塚闘争、大学紛争、全共闘、三派系全学連。
 かれこれ、40年の歳月がたったことになる。わたしが上京してきたばかり、まだ18歳の秋のころだ。
 昭和43年の、10.21国際反戦デーのとき、あの新宿騒乱事件のときにわたしは飯田橋の大学を抜け出して新宿駅に行ったのである。電車は止まり線路は角材や投石で散乱し、西口広場はあたかも市街戦の様相であった。
 当時、わたしは勤労学生であり、しかも心情三派でありノンポリのラジカルを気取っていた。
 社会が、何かおかしい、こんなことはしていられない。
 それから、都内錦糸町にあった選挙事務所の、日本社会党の衆議院選挙に手弁当で参加した。そこで今でも交際のつづく、当時の青年反戦委員会I氏とも知り合う。
 しかし、高校卒業後、親の支援も得ず、兄弟の援助をことわり、大学に二度入り、二度とも中退した。もちろん、学費負担が大変だったせいもあるが、当時は大学は卒業するものではない中退するものだ、という妙な同世代特有の衒気(パラダイム)もあったのである。
 だが、わたしはこのことで、世間に迷惑もかけず誰にも世話にもなっていない。
 それからやっと、造園設計という好きなことで生きていく道を見つけたのは結婚して一年後のこと、29歳の夏のころである。遅い出発ではあったが、独学と、結婚式、新居購入、会社設立と自立の生涯は続いた。


 帰りには紀伊国屋書店の奥まった1階のDVDショップに立ち寄る。もはや病的とも言えるほど、反射的に大手の店ではいつも、ヒッチコック監督の見洩らしている映画のものを探している。かなりコレクションを持っているが、まだまだ足りないものがあるのだ。
 それから、JR中央線で移動する。窓外の外堀周辺、千鳥ケ淵はすっぽりといまだ淡いみどりいろにおおわれている。そういえば、このあいだの桜花爛漫のころは寄れなかった。小さな谷の斜面にある桜、雑木などの新芽は清々しい。萌黄色に満ちている。そうか、こういう薫風香る静寂もあるのだ。

 今日は、なんだか頭が痺れたようで、落ち着かない気持ちとおぼつかない足取りだ。
 東京駅ではめずらしく右往左往したが、家族の大好きな舟和の芋羊羹を買い、わたしは総武本線快速の乗り場の地下4階まで降りて帰途に着いた。
               
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上野の桜

2008年04月07日 05時53分13秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
快晴、この時季、早くも紫外線が強い。
 ウルビーノのヴィーナス展(国立西洋美術館)をそれ程でもなかったなあ、絵の題材は神話から採ったもの、配色がつたなく構図が類型的に過ぎる、と思い、入場料1,400円も払ったのか。
 それから踵を進めて、例の有名な花見場所に向かう。
 何年ぶりか。今年は東京地方が早咲きで満開の頃合いである。まるでパステル画に似て欅や小楢やくぬぎ、そろなどの若葉が滴り落ちるような雑木林の広場の中を東京国立博物館前から大噴水を経て、広小路の通りにむかう道筋の不忍池方面だ。今日は時間的に薬師寺展には余裕がない。公開が6月8日までだから、あの優美な月光、日光菩薩のかんばせにまみえるのもまだ先になる。まあいいか。

 金曜日の平日の午後。空は一面の碧空である。それを背景に染井吉野の花は咲いている。家族連れと旅行途中のおのぼりさんの行き交う中、わたしは呆然自失かそれともなすがままに、ぽつねんと一目千本の桜の広場を眺め渡す。
 シンメトリーとビスタ。中央に向かい我れ先とそれぞれが枝を差し掛けている桜並木。重なり合う淡紅色の世界。肌に感じぬほどの風に、今、花吹雪が舞う。どうだろう、俳句でもひねろうか。
 桜花爛漫。さんざめきと静寂。
 たわわに花びらをつける古木ぽいっ幹をたどると、淫らでいびつともいえるほどの灰褐色の盤根錯節の樹幹と樹姿。短命で病気や虫害にかかりやすくも、この桜たちは、今を先途として咲き誇る。

 しかし、わたしの心情はある無機質な印象に変わる。寒々とした風情。こんな気持ちになったのは今年が初めてだ。
 どこへ行っても同じ桜じゃないか。均一の特性の染井吉野じゃないか。

 山桜系を台木に接ぎ木され人工的に大量繁殖し、全国津々浦々に植えつけられた染井吉野桜は無残な桜だ。
 わたしには、里山など近くに自然に生えているおしとやかな山桜が好ましい。
 
 なに、只のおっさんなんですけどね。
          
      
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ある春の日の立ち話

2008年03月23日 06時24分24秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

 これから住民説明会を始める直前、昼下がりの会場前にて、主催する関係者同士でのつかの間の談笑。クルマなどの人工的な騒音もなく閑かなさま、微温的な気配。今日は快晴である。
   「暖かくなりましたね」
  「そうですね、もう早咲きの桜は咲いてますもの」
  「この陽気では鶯が鳴きそうですね」
  「そうです、もう直ぐですよ。いやもう、ここの住宅地は山に囲まれて自然度が高いですよ」
  「そういえば、このあいだ庭に目白が来ていましたよ」
 実は、ここには迷惑で獰猛なヒヨドリのほかに、きりりとして端正な容姿の四十雀も、自然界にありえない配色の体の色、頭から背の羽は黒っぽく翼には白斑があり、腹部には橙色のスッキリしたジョウビタキもいるのだ。下っていくと住宅の後背地は谷津田になっていて、運が良よければカワセミがたまにシャープな飛翔を見せてくれる。

 現地見学会も終わって、自宅へ戻るとテレビでは気象庁が例年より六日早い東京地方の桜の開花宣言を報じていた。
 これからはまるで計ったように、一瀉千里に若葉萌えいづる、百花繚乱、青葉繁れる、めくるめく季節が来る。良くも悪くも自然の摂理にはさからえない。
            
   
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新年会などを・・

2008年01月16日 06時59分14秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
今年になって、先日急遽連絡があり、昨日、新年会に呼ばれた。その日は雨曇りの寒い一日で家内とこたつに入りテレビばかりを見ていた。場所は電車が使えずもっぱらクルマでいくほかはない所だ。わたしは直前までやきもきしていたが、なんとか工事現場で待ち合わせ、30代の気のいい職人さんに迎えに来ていただき富里市内の割烹屋さんまで連れて行ってもらった。
 ここは例の成田空港建設工事でいろんな産業が発展したところだ。いまでも滑走路工事などで建設中ではあるが、元来、明治時代以来の開拓地で農業が盛んなところであり、この空港によって町が様変わりした。こういう場合、成金の地元土地所有者、金離れのいい建設労働者を相手に通常夜の商売も栄えていくのだが、サービス業、飲食業をなりわいとする店があちこちにある。
 周りは畑などのつぎはぎだらけの農地と、パチンコ、バッティングセンターなどの遊興地の真ん中である。そこはよく見かける新開地特有の、洒落っ気もなく華やかさもなくしもた屋風の平屋で、田舎じみた奥行きのある畳敷きの個室が連なっている魚料理の店だった。ちょっと行くと、成田空港建設反対闘争で激しかった三里塚がある。

 招待してくださった、Aさんは地元の名士で親が町議会議長していたと聞く。農業を完全にやめ植木生産、流通業に専念してきた。当然、この造園の世界では日本国内にネットワークを持つ。
 しばらく振りで、じっくり会うと、顔を見合わせてやあやあと懐古談にふけっていく。同じ仕事のグループであった、T社長がおととしの2月に肺ガンで病没した。そのことがあって仕事の流れとはいえ、東京都品川区内“天王アイル”開発計画、15年来、連綿とつきあいが続いてきた。細かいことの言わぬおおぴっらな性格のAさんは明るい人だ。せかせかとして行動的な人だ。
 わたしは事前に考えて、平成13年にT社長と行った青森県の白神山地・奥入瀬川の旅行の写真アルバムを用意して行ったのだ。
 まわりはみんなわたしより年下だ。同席した人によると、感激のあまりやや目が潤んでいたとのことである。
 わたしに何が出来るか。わたしは何をしたらいい。
 樹木材料を注文したらいいのは分かっている。しかし、今の境遇では、立場では望むべくもない。世代も変わる。商売の世の中も変遷している。ただただ、わたしは業界の大先輩に敬愛の念を表し、ご長命を祈るのみだ。
      
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寒中三句

2008年01月01日 19時08分17秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ

  祝い日 物音立たず 気革まる

  清められ 松飾りて 目白来たる
  
  キーボードに 指の行き来す 背中寒し

 今までの無味乾燥の日々が続いてきたことがわが身に沁み込む。何か、深く、思い込む気分の日のくさぐさの気配を詠む。いざや、来たりなん睦月、新年。
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小倉市街のミュージアム

2007年10月13日 09時13分15秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
数日前にやっと、長引いていた秋雨前線も日本列島上からなくなったようだ。でも今日の天気はうす曇り。
 
 このあいだ、『北九州市自分史文学賞』のこと、郵便局から福岡県の小倉西郵便局10/3付け押印の届けた旨のはがきがついたと思ったら、北九州市役所からも受付のはがきがあった。
 10/4付け,受付番号、第360号である。どうも応募件数は、この数年は300から400件台のようである。大賞賞金は200万と、㈱学習研究社から単行本として出版される。

 北九州市に最初に行った時には、小倉市街の「松本清張記念館」と「小倉城」、「小倉城庭園」を回った。その後、業務の都合で当地に滞在中、「リバーウォーク」それに紫川沿いの「北九州市立水環境館」、「北九州市立美術館分館」と散策見学したものである。
 この中で建築物、内容展示方法でピカ一なのが、博物館的にすぐれた「松本清張記念館」であり、全国に先駆けた河川改修記念施設が「水環境館」である。
 わたしなりに数年前までは、植物と植生と(秘湯も!)をほぼ全国を見て歩いたが、実は絵画好きが嵩じてこういう美術館などの特殊建築物もフォルム・意匠と機能を意識的に見て歩いた。
 わたしとしては、この二つのミュージアムをぜひ推薦したい。一般的には門司港レトロ観光から足をのばし、訪れてみてもいい。しかし特に業界関係者、担当官庁関係者にである。
 ものごとはなんでも一長一短があるとわたしは思い込んでいるが、ここでは北九州市の宣伝をした。
         
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金木犀の香り

2007年10月09日 07時12分17秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
そろそろ、秋。
  おとといの朝、まだ薄暗い玄関のドアを開けたら、わたしの鼻腔に金木犀の甘い香りが飛び込んできた。金木犀が2本。わが家の庭は北向きで日照も良くなく植物の育ちがいつもは近所よりも遅れるのだが、今年は同じらしい。
 金木犀はトイレの臭い消しなどと、世の商品のイメージが先行しがちであるが、そんなことはない。日常の煩瑣な雑念、他人の受け売りの想像を捨て去ればいいのだ。実物を見ず本とか画像でのみで分かったつもりになるのではなく、みずからの日常の暮らしの中の感覚でものをとらえればいいのだ。
 わたしにとって、鼻から頭蓋に抜けていき気持ちがやさしくなれるのだ。甘い、なにか焼き上がったばかりのお菓子のような誘い込む甘さだ。

 昨日は思い立って、3メートルはある実生で育てたホルトノキ、隣のはみだしたトウネズミモチの剪定をする。主庭の生垣用に植えてあったプリベット(西洋いぼた)を切り詰める、伸びすぎで、これで今年は二度目か。
 それから、回収してきたブッドレア、ぎぼうし、風知草など信楽、常滑、テラコッタ、プラ鉢の6鉢を水洗いする。前に預けておいた場所が、軒内で風通しが悪くすす病にかかり見苦しくなっていたのである。
 途中から雨がひどくなったが、作業を続行しておこなう。所要2時間か。

 心配していた今日の朝、まだ金木犀の香りがする。金木犀は花の成熟が早いし、雨で米粒ほどの黄金色の花蕾が落ちたかと心配していたのである。
 曇り空の中、わたしの気持ちはきりりとする。これから秋色が濃くなり、いよいよ紅葉の時季だ。
                 
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