goo blog サービス終了のお知らせ 

うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

樹木医の資格取得と現在までの動きを振り返る。

2024年12月03日 06時10分27秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 以下の文章は、日本樹木医会千葉県支部の発足後30周年の記念誌に掲載されたものである。支部独自の年報は毎年が発刊されていたが今回は大幅な増ページで出されたもの。わたしは、この令和6年3月に南房総への一泊研修旅行の際に先輩樹木医から投稿を促されてまとめた。原稿用紙400字で1枚の予定が4枚のボリュウムになり、それを編集担当者に送ったのですが、少しの添削も含めて丸ごと認められたものです。発刊は8月であった。
 このブログを多少とも見ている方々はわたしの人生上の遍歴をご承知かと思われますが、自らのことであるにも拘わらず、なかなかまとめるのに苦労した。結果的には概観的な技術的経歴の内容になっているが、具体的に実際の事実を追った裏付けのある内容である。この手の文章は得てして無機質になりがちであるが、わたしの独特な人生行路も背景にあり読んでみて面白がる人がいるかもしれない。
 

 樹木医の資格取得と現在までの動きを振り返る。               20240320 
 わたしは一応、造園業界出身になるだろう。この世界で30歳直前の年齢上は遅いスタートであった。高卒後、東北から上京し大学の文系に入り種々の職業を経て世の中をウロチョロしている。しかし、結婚後、土いじりや植物好きなことを自覚、一念発起あらためて進むべき道は造園に決めた。地元のハローワークの紹介で見習いにて千葉市内の造園会社に入り3年と3か月在籍。  
 この時は通勤途上の不明な樹木、草花や雑草の茎、枝葉を押し葉にしてスクラップブックに集めていた。勿論、ノートもとる。わたしの関心の度合いは、植木だけではなく山林や果樹、畑の野菜から観葉植物に至るあらゆる植物である。なお庭のデザイン習得のために勤務時間後、2年近く、池坊流の生け花も習ったもの。そこでの業務は軽い営業にドラフターで設計図面を作り施工する、ハウスメーカー紹介の個人邸などの外構や庭園工事を担当した。
 次に東京新聞の求人欄を見て都内品川区の小さな造園会社に就職した。2時間程度のかなりの遠距離通勤であったが、そこに19年と3か月の期間いたが、やがて会社が業務縮小で退社する。ここでは、主にマンション開発販売会社の大きい案件の造園工事を特命で扱ったり、ゼネコン発注工事が多かった。現場的にはゼネコン相手である。計画・設計の段階では建築設計事務所やゼネコン設計部署と打ち合せをおこなう。
 樹木医の資格取得面をたどると、まず2級造園技能士、造園と土木の1級施工管理技士を取得。しかし、わたしの当初の目標は技術士や樹木医であり、何度か挑戦したものである。樹木医に合格したときは五者択一問題を別にして、小論文に林木の播種繁殖が出題されていた。
 資格取得後は速やかに日本樹木医会に加入。積極的に4ブロックを越えた県内各地の研修(現地・座学)に参加する。樹木医としての方法論に調査診断、治療の実際を学ぶ。東南アジアの国々での海外研修は物珍しさのみではなく、植物分類や系統上参考になった。
 また独自に、資格取得以前は移植に伴うイチョウ樹勢回復など2件ほど、取得直後は地元の要望に応じて郷里岩手県一関市内にて乳イチョウやカヤの5本の巨木を調査し現地説明会を開いた。
 その中で、特に二度目の会社のある東京湾沿いの運河に囲まれた『天王州アイル計画』では、実質的にわたしの社内での役割は植栽の設計と施工を一体でおこなうことであった。そこで事前に候補予定の樹木の耐潮性を調べるために、類似のロケーションである大井競馬場内余白地で試験植栽を数年間実施した。同工事の竣工後、わたしは責任者として社員による直営の常駐維持管理業務を継続的に11年間担った。このことはわたしにとっては、結果的に樹木の植栽からの成長過程を経年的に春夏秋冬にわたり観察が出来たことによって、生きた知見を得ることになった。
またわたしは、当時業界的に慣習になっていた材料検査を踏まえて現地踏査等を繰り返す。その都度国内各地の自然植生や景観に目を凝らしていた。その会社を退社してしばらくは自営。
 次いで九州の大手浄水器メーカーの新規事業人材の公募に応じて、一年間、屋上緑化計画導入に取り組む。その後、主にUR都市機構などの施工管理業務として造園職、土木職についていた。
 以上を振り返ると、第25期の樹木医としての現在は独学に偏しているが、実は今でも、公私共に植物を植え、繁殖方法を探り一年ごとの成長過程を眺めることが好きである。それに加えて維持管理的な樹木の剪定も含め補修や養生をおこなう、それはまるで実験場である。また、その後どうなったかと、身銭を切ったりして過去の植栽現場巡りもしている。そんなことで結果的には、総合的に樹木の植物生理の視点、経年的に成長を見る目が養われたことと思う。
ここでは、異色とも言うべきわたしの経歴を紹介した。
以上


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしの育った田舎

2024年11月27日 10時57分26秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 ここでは過去のブログ記事で20070625、20070629、20070701にアップした、【わたしの育った田舎1,2,3】を転載する。三つの記事を一本にまとめたがこれはエッセイに分類されるだろうか。しかし、いやはや、17年前になるのか。
 原典は 極私的造園設計経歴書-自叙伝ふうに-《緑の仕事》 から抜き書きしたものである。わたしは当時、造園会社の設計室に勤務していて一生懸命にランドスケープ、造園デザインというものを考えた時代であった。 


  2007年6月25日  *************************
 ≪朝起きると子供たちは農家の広い庭の掃除をおこない、各部屋の雨戸を開けたてて、縁側などの板敷きの床の雑巾がけをする。家畜の世話は、毎日人間と同じように二度三度牛に飼い葉を与えたり水を足したり敷き藁を取り替えたり世話をする。にわとり、うさぎにもえさをやる。乳牛を飼っていた頃は、素手で牛乳をしぼったのち原乳を井戸水の中で攪拌冷却して、ステンレス製で円筒状の集乳缶に詰め毎朝集荷場所に自転車で運ぶ。こういう作業は家族の手の空いている者の役割である。炊事の準備は祖母と母がかまどで薪を燃やし釜でご飯を炊いている。燃料である山から集めた薪(タキギ)は木小屋(キゴヤ)に積み重ねてある。
 野菜を裁板(サイバン・マナ板)の上できざみ味噌汁を手際良く作っていく。おかずは軒先とか柱につるしてある乾物を取り込み、野菜や魚を別棟になっている漬物小屋の大きな樽から取り出す。飲み水はあらかじめ井戸から汲み上げて台所の大きな水甕(ミズガメ)に満たしてあり、使うたびにひしゃくですくって鍋、釜にいれる。食事の支度がそろうと、早起きし野外で牛に与える青草刈りなどの朝仕事をこなしている父はそのままの衣服で居間に戻り、やおらに家族全員ともども集まって、箱膳(ハコゼン)なり飯台(ハンダイ・テーブル)をかこんでいる。
冬の寒気厳しい朝は庭の雪かきを行い、結氷したり凍結した水まわりには沸かしたばかりのお湯をかけて通水させあらかじめ一日の準備をする。寒い季節には、いつもは農家独特の天井のない居間の高い梁から鍋をぶら下げて煮炊きしている鋳物の自在鉤(ジザイカギ)を外し、囲炉裏端(イロリバタ)に炬燵がけをし食卓をかこむ。
 顔を洗った子供たちはアルマイトの弁当箱を持ち、近所の仲間たちと歩いたり自転車で学校へ行く。高校は遠いので、雨とか雪のときは女性車掌が添乗しているボンネットバスに乗る。下校後、農作業の忙しい時は子供たちも田畑へ親の手伝いに直行する。また当時の家庭の多くは子沢山であり、上の子供は兄弟姉妹で子守の役割をになう。
 一方、野良(ノラ)に出た親たちは正午のお寺の梵鐘が鳴るまで、こやしのにおいのする耕作地、畑で代赦色(タイシャイロ)の土くれを相手に汗水をたらし働く。昼食はいったん家庭に戻ってとり食後昼寝をし午後一時すぎにまた畑に戻る。しかし山仕事、田んぼの農繁期には白米版を入れたお鉢(ハチ)やお櫃(ヒツ)、味噌田楽(ミソデンガク)のお握りや曲げわっぱの弁当箱と、おかずに魚の煮付けと自家製の漬物を持参する。作業の休息時、冬などの寒い時期は手近かに落ちている枯れ杉葉、枯れ木などの粗朶(ソダ)を集めたり、雑穀のまめ殻などで火をおこし焚き火で暖をとる。田畑から帰った夕刻は、家族で親子ともども手分けしてせわしなく立ち働き、食事の準備、家畜の世話とマキを割り風呂を沸かす。夕餉(ユウゲ)後は、家族団欒で白黒テレビを見て過ごし戸外のうす暗い風呂に入り寝床にもぐりこむ。養蚕とか葉たばこの農繁期は夜なべ仕事になる。農作業の忙しい季節は家族総出である。集落内で人手の足りない家へは助っ人(スケット)で行く。外が雨でも屋内で作業がある。一年を通じて祝祭日も休日もない。合い間に家族が一緒に休むとすれば冠婚葬祭のとき、旧盆、正月(新、旧)の日ぐらいである。≫

 これは3年前の3月にまとめた《緑の仕事》の一節である。400字詰め原稿用紙換算200枚ほど。わたしが、数年がかりで今まで生きてきた道と造園設計の仕事を<自分史的>に振り返ってみたもの。その中の“生活意識とデザインのかたち”の章であるが、時代背景は昭和30年代後半、東京オリンピック開催直前の東北の農家の生活を思い出したものである。わが家は家族みんながそろっているし、質朴にけなげにも生きていた。これはわたしの中学生時代。しかし、なんとまあ、古風な世界であることか。単語も死語になりつつあり、語彙も意味不明。近頃の若い人には理解不能かもしれない。
 わたしの周囲の人たちに読んでもらったら、あきれられたり感心したりしたものだ。
 これは、たまたまある出版社のコンテストに出したら三次選考まで行った。ただし、意外なことに20歳代の知人には大歓迎であった。面白い話、特に読書習慣のない連中にだ。

 この冊子はぐちゃぐちゃになっていた本、書類の山の中からやっとこさ見付け出したものである。たまたま、別件で福岡県の北九州市役所から郵便があり、この9月締め切りで<自分史コンクール>があるそうで、実は応募しようかと考えている。
 なお、詳細は下記のH・P内のサイト内検索欄からお入りください。
     北九州市自分史文学賞

   2007年6月29日  *************************
 前回の内容ではどうしても中途半端の感じがしますので、引き続き、「生活意識とデザインのかたち」の後段の文章を掲載したいと思う。スタイルがかたい言い回しで恐縮ものではあるが、できるだけ筆勢を生かし原文をそのままにした。気取ったりそっくり返ったりと、わたしにとって限りなく恥ずかしい思いもするのですが。
 皆さんが読んでみて、ごく普通にふるさとのこと、または農業・民俗学など、そして造園設計・ランドスケープ論、デザイン論について面白いと感じる方はなんでもコメントをお寄せください。
 全文公開は、前回に紹介したコンクール次第になります(??)。ここでは2回目、次回の“わたしの育った田舎3”で終了予定です。

 《私がおくった昭和20年代から昭和30年代の生活風景を描写すると、農家の少年時代はこうであった。ここには日々の暮らしの原像がある。山間の地にあってそれぞれの家庭ではいつも子供は家族、親の顔の見える距離でいっしょに生活して育った。子供の遊びと言えば朝から晩まで山野を駆けずりまわっている。そこには豊饒な自然と沃野からの恵みと、継ぎあてをした粗末な衣服、好き嫌いでもなくおいしいまずいなどという食味ではなく体力をつける意味の簡素な食事、ゴミを出さず物を使い廻しする無駄のない生活、朴訥な人情とわかりやすく目に見える質素な生活形態の暮らしの繰り返しがある。
 このような農民の文字通り土着的な日常の暮らしの中で、仕事がつらい、体がきつい、好きなことができず不自由だと、当時私は内心思っていたが、しかし今となれば逆の意味合いで楽をする、自由という物事をどうとらえ、それに対しどう対処することであるかがよく分かるというものだ。生きていくことは生存感覚そのものだ。そのうえで身心とも自由な時間が持てることが真の生活だ。物質的に豊かなことは必ずしも幸せとは限らない。
 いったいにして東北の貧しい山国の農村では、春夏秋冬の季節と自然環境のもたらす生活は自然の気候、風土に左右されて成り立っており、その素朴な生活の態様はものを捨てず循環させて再利用し合理的なものである。お天道様を相手に過酷な農業労働を厭わず、またその苦労話をしない人達がいる。他人のせいにせず忍耐を美徳とした、その集合が村落共同体である。
 揺籃期を文字の世界と無文字の世界とに住む集落の人々にかこまれこのように育った少年は、当時、日本の農村の社会構造のなかで名利栄達をもとめるようにはならない。むしろ、そのトラウマをも含めた少年時代の原体験を体験に終わらせず経験と言う生きた知識に昇華させていくべく彼の十字架を背負ってゆかねばならない。たとえば、山河を復元させるという視点である。》

  2007年7月1日  *************************
 《§デザインの源泉ということ§
 どうしてこういうことをしなければならないのか?私の今までの無骨な生き方を解剖してみたらどうか?この文章の内容は、幾多の困難を経てと言うほどでもないが、私なりの逆説的な内面のストーリーを成功ではなく苦い失敗を梃子にして立て起こした創意、工夫談で裏打ちされている私の人生経験をもって描いていきたい。そしてここに若年期に怠惰な生活を送り文学青年から造園の世界に歩みを変えた者の独白をつづった。まず、表現行為としての造園設計論をくりひろげたい。
 はたして、こんな私の芸術的な資質と素養はどこからくるのだろう。創作力と着想のモチーフの源泉はどこにあるのだろう。私が原初的に刷り込まれた(Inprinting)ものは、思いおこすとたとえば、こんな象徴的な散文詩の世界が浮かんでくる。

  ∞陽春、透けて見える青空と峰々を後景に木々の瑞々しい芽吹き、
   若葉の爽気ただよう時季、暖かくなる頃の草原の草いきれの香り
   が匂い立つ。
 
  ∞アブラゼミの合唱が響きわたりげんなりする暑さの中での沢水に
   足をいれた触感とカジカのつかみ捕り。夏の夕べから夜半にかけ
   ての押韻をふむような虫のすだく音色がする。

  ∞寒さに向かう季節の凍りつく平原で爪先立って見る田園を廻る草
   紅葉、照柿と群青色の空の下で燃えたぎる木々の紅葉などの天然
   色の風景が広がる。

  ∞山あいには、せせらぎの瀬音に欹ててしんしんと降る静かな降雪
   がある。そこでは鈍重な昼の純白と夜半の漆黒の寡黙な世界が演
   出されて、清浄な空気とスタティックな厳冬の光景が現われる。

  ∞森羅万象には、あらかじめ無音という沈黙を下地にした生き物と
   自然との交歓が醸しだす、万物の生成過程のささやきともざわめ
   きとも言える微音の環境が用意されている。

  ∞自然という宇宙には、譬えれば山紫水明の世界には、様々なメカ
   ニズムを持ちドラマツゥルギーを秘めたダイナミズムと諧調美を
   引きつれた旋律を内包している。

 私の場合、自然に対峙しどうしても生じざるを得ない人間の心の動きである情緒と、それがゆえの表現である詠嘆調を排し自然の摂理による宇宙にもとづいたこの四季の心象風景を活写し復元することが芸術的な意味での独創性である・・・・。
 いつでもデザインの発想の源泉は原風景への回帰を繰り返すものと言えるのではないだろうか。
 山村のきわめてシンプルな自給自足の生活、写実的な世界そのものが、私の感性をゆり起こし叙事詩的な世界が心の内奥で胚芽し醸成した美意識に由来して、私の記憶をなしているのだろうか。》

 デザインという職能は個人を前提にしている。その能力は専門課程を修了して得られるものではない。知識を習得すれば、あるいは多方面の観念で頭の中をいっぱいにすれば良しとするものではない。人生の初期段階にある若い人たちはそこを勘違いするようだ。色々なことを知っている、上手に表現できるから才能がある、というふうに。残念なことにこの場合、成果品は絶対条件であるオリジナリティに縁遠く単に模倣である場合が多い。個人的所業であれば、その孤独な積み重ねの果てに出てくるものと思う。忍耐をともなうその個人的営為から自然と産みだされるものだ。
 ドイツがどうだとか、アメリカ東部の新しいランドスケープなどと、トレンディにないものねだりをした造園設計作品は本当に後世に残るのか。まずは、現場の設計対象をみずからの五感のみを頼りに見つめることからはじまるのに。
 多分、あとで反省点として、体のいい自己満足(瞞着)に過ぎないことに気付くはずだ。もっとも、このことはデザイナーの姿勢の問題だが、自己検証あるいは振り返りさえしないかもしれない。

 この 極私的造園設計経歴書-自叙伝ふうに-《緑の仕事》 は、わたしにとってランドスケープデザインとはなにかを、徹頭徹尾、追及したもの。そして、その緑の仕事を通じてわたしの50数年の来し方を浮き彫りにさせた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ー夏の思い出ー

2024年11月21日 15時22分45秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 わたしの過去の創作、成果品造りを振り返る●● 12月17日 ●●●
ここでは先年、朝日新聞社系列の神奈川県内のミニコミ誌に応募したコラム記事をアップする。
 既にわたしのホームページに記載されていたものを転載する。内容的には平易な表現に徹している。これは詳しい経緯は忘れたがどうなるかと思い投稿したもの。

 結婚して20年余り、二人の子供たちは共に専門学校生、高校生になり、わが家では夏休みに家族で一緒に出掛けることはなくなった。
 私自身の子供時代は岩手県南部の山あいの農村で過ごした。まち境は一級河川であり東北随一の北上川に接している。その支流である黄海(きのみ)川は当時よく洪水を起こした。夏の台風の時期に川が氾濫し道路はもとより、小さな平野部の田んぼは冠水して薄い茶褐色になる。
 子供ごころにその水の恐怖に圧倒されながらも冒険心に気持ちが高ぶりわくわくしている。そこで子供たちは、決壊場所、流れの合流地点、土のう積みの補修箇所などの場所を大人の目を盗み、近所の仲間とかけずり廻ることになる。その冠水状況を一望できる小高い丘に登り、土砂で濁った広大な水面の流れの方向,様々に寄せる波紋を観察しそれを海に擬し「うーん」と大いに納得したものだ。地理的には三陸海岸に近かったが、実は生まれてこの方まだ海を見たことがないのである。
 最近は水量も減っているが、河川改修工事により、サケが遡上する程水質がきれいになってきている。しかしその一方で、水深が浅く淀みも消滅し魚の種類が減少、河原に篠竹が繁茂し猫柳や胡桃の木があった川岸がのっぺらぼうになり、今の子供たちにとって面白味のない川になったのではなかろうか。
 既に郷愁の彼方に過ぎてしまったわが身だが、家庭をもつ親の立場を振り返り、わが家の子供たちはどういう思い出を持てたのかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行きがかりに・・・・・

2024年11月10日 08時13分21秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 わたしの過去の創作、成果品造りを振り返ると、その頃に出回ったワープロにより平成 9 年に“自分史”、また平成 16 年に極私的造園設計経歴書“緑の仕事(自叙伝ふうに)”を冊子にまとめたものである。また、当時の造園会社在社時に設計室として、北鎌倉の邸宅庭園や品川区内の天王州アイル PT を含む自作作品の設計図集を発行したことがある。変わった例では在社時の贈収賄事件の“鴨川裁判傍聴記録”がある。
 ところで、ここでは東洋大学文学部にいた頃に文学サークル会誌の「たいやき 第3号」に発表したものを思い立ってこのブログに転載する。原稿用紙12枚の分量だ。この前後と思われるが、独自にわら半紙にガリ版(孔版印刷)で雑文集「うざね博士の文集」を作っていた。
 わたしは大学生とは言え、当時は勤労学生でバイトで生活費を稼ぐのに追われて、学校の講義にはあまり出ていない。世相的には70年安保の世代、のどかな田舎から上京し自らの生き方について放浪していたのだが、社会的な問題を自らに引き付けていて頭でっかっちの時代であった。
 この短編はボキャブラリーの少なく短文で綴られているが、これはこれでわたしの20歳前半の作と言えそうだ。したがって、あえて修正していない。時代は1970代前半だろうか、半世紀前のことである。当時の東北の方言や古い言い廻しに対し、わたしは、このwordの使い方が未熟のために注釈やルビを振れずにいる。

 岩手に入ると、俺はもう来てしまった、と思った。上野駅を深夜に発ち、今はもう乾からびたような朝景色がつらなっていた。
 もう、刈り入れも終え、脱穀も終わったのだろう。朝もやを透かして見る崩れた田んぼの畝は、どの田んぼもぶんなげられたようだった。
 どうでもよいこの世のありさまであった。

 ゴトン、ゴトンとひびく。
 ふと、俺は思う、確かにゴトン、ゴトンと鳴っているんだろうな。何か、田舎の方に近づく度に、レールが段々と低くなってるんじゃないか。
 ポカンとしていると俺はやっと気付く。で、しかたなく、網棚のバッグを向かい側の席に下す。車内はがらんどうである。しかたなく、俺は散らかした酒の飲みかすやら、つまみやら、本やらを片付けた。そして、元の通りに、赤茶けた向かいの席に足をのばした。
 綺麗な女でも近くにいれば、俺はそこに目を置きたかった。いやだれでもいいから人が居れば耳を傾けたかった。
 ああそれなのに、と思う。ああそれなのに、と俺は性懲りもなく文庫本を引っ張り出した。鼻紙にも使えないな、と出鱈目に本を開く。
 途端に俺は目がくらくらした。紙の白さが俺に本だと知らせたのだ。

 この小林秀雄という著者は偉いんだと、人は云う。この近代批評の確立者(文学史において)は今の文壇でもかなりの権威者として仰がれているらしい。批評家としての初期は、フランス象徴主義の大きな影響のもとに出発したのである。そして、俺はこの二、三年、この小林に、どう生きるべきかの問題として、滅茶苦茶に振り回されていた。
 俺の兄貴が、この前、沖縄返還批准法案阻止とかのデモ、総評が各組合に全国動員をかけたのだが、町役場の代表みたいなものになって上京した。その時に、俺は御覧の通りのありさまですと、ずっと小林秀雄のことばかりしゃべりまくっていたような気がする。その時も兄貴は云ったものだ。小林秀雄ってええば、なんだおめえ、エライ人じゃないか、と。おめえも変わったなあ、終始、奇妙な顔をしていたのだが。

 俺はひとりごとみたいに、口の中で、もやもやと、何かを云ってみた。
 ほんとにひどい人にぶつかったものだ。
 このようなものが俺には秀でているなど、と口はばったくて云えないな。何がいいのか知らないけれど、全てが凡庸に見えてきゃあがる。ああほんとにおまえは。ああ、ほんとにおまえは、毒があり過ぎる。
 ふと、俺は我に返る。
 この人でなしの文学め!

 俺は例えようもなく、イライラしてくる。ああ、次は花泉なんだな、うん、降りるんだな、とまたつぶやく。

 で、俺は今、絶望している時なのかもしれぬ。だから田舎の一大事に、当然のことながら、何ができる筈もない。

 ホームにとび降りると、覚束ない足どりで閑散とした駅の改札口に向かった。屋根に瓦が葺いてある。駅全体が色褪せて見えた。まだ残っている冷気の中を雉鳩なのか、啼き声がつんざいた。
 駅員がじろじろ俺をながめた。何かあったんですかとでも云うように、切符を渡しながら、俺は見返した。途端に俺は恥ずかしくなった。日頃の無精に加えて、頭はボサボサの蓬髪であった。着るものはそんなに可笑しくもない筈なんだが、とひとり合点したらまるでべそをかいたのだ。


 「何があったのか」
 父が庭で籾殻を焼いている。冬、火持ちを良くするため、炭火の上に振りかけておくのに使う。均一に焼けるように箒でならすのだ。二メートル直径の形に拡げる。箒を左手に持ち替え、トントンとしたと思うと、こう云った。
 その泥分を顔じゅうにまぶしたような、老いた親父をを見て、俺は目の遣り場もまないままその場にかがんだ。
 「麦蒔きはやったの」
 「う、うん、なにい、とっくにやってすまったあ」
 三毛(猫)も耄けたと思った、けむくはないのか、すぐ傍で背を丸めて、ちょこんとしている。日向ぼっこに目をほそめて、澄ましている。以前は雀を取ったことがあるが、鼠でも今は無理だろう。背に手をやってなでてやると尾をパタパタと動かす。相変わらずだな、と思うと、思わず、嬉しくなった。
 「まず、えま、えぐがら、うづんなかに入ってろ」
 このごろめっきりしらがの多くなった親父を横目に見ながら、家に入った。玄関でポンポンと叩く靴音がしたのか、奥から「わあ、来たど」という、とっくの喚き声ともつかぬ声がした。
 この夏に高齢ではあったが祖母が死に、今まで母がいない後、不自由な身で台所仕事を仕切っていたが、この貧寒とした居間も至るところにちりがたまっていた。昼にはまだだとはいえ、うす暗いなかに紙くずが妙に光って散らばっている。三毛がぱたぱたと音をさせたと思うと、台所の方からニャアゴニャアゴとがたごとした。戸棚をあさっているらしい。とっくがひとりで怒っている。
 俺が帰ってきたのはバイトの都合上、死に目にも会っていなかったから、学校をうっちゃり、墓参りにきたのだった。それと実家の不如意について案じていたからであった。というより、一度とにかく帰ってみた方がいい、という俺自身に対する、いわば強迫観念からであったからかもしれない。
 何故こうなんだろう? 本当に、何故? こういう追いつめられた俺等六人兄弟には、いつ俺らの生まれた家に陽光が差しこむというのだろう。いつになってもそうだ。いつになっても、忍従しかない。
  囲炉裏につくった炬燵の上で、お土産だと云って小牛田まんじゅうを二袋、とっくにさっきバスの停留所で買った飴をやった。
 親父が出涸らしの急須に湯を注いで、茶を入れた。漬物はないかな、俺はあちこち探し、まだ、生の大根のような沢庵を皿に盛ってお茶を飲んだ。
 近所こととか、平塚の叔父のこととか、一服ごとに話していたが、やがて誰に聞かせるともなく、煙管を掃除しながら、云った。「はっぱり駄目だあ。気持ちがわけわがんなくって、春男は、はっぱり家に寄ってづかねえ。今でもこっそり会ってるって話だけんとなあ。はっきりしたことは分かんねえけんども、本家の人が云うにあ、そんなふうだあ、まつ子あ、ちゃんと俺のめえゃあで、うづに来るってえゃがって。てゃあほうつきやあがって、わけわがんなくってくるう。とっくはこんなざまだす。おめえあだって帰ってくればええんだ。」
 とっくがその間、ひとりで笑ったり、ポカンとしたりしながら、飴を手でもてあそんでいた。俺は、それをむいてやりながら、惨めな気持ちでいた。たとえ、親父が俺自身のことを、ひとことでも聞かなかったにしろ、俺は、何も、それに反発することはできなかった。
 親父と長男の兄貴と、頭の少し遅れた小児マヒの次女(姉)の三人しか今、家に残っていない。それで兄貴の嫁に来ることになっていた隣の町のまつ子が、一週間許りためしに家に来た。が、すぐにあちらの家に呼び戻されたのだ。しかしそれは二年前のことである。その間、家柄があわない、長女だから、等々でもめていたのだ。

 ひとりでお墓のあたりを掃除していたら、もう夕暮れになったのか、と気づいて、松の木の傍の石の上に腰を下ろした。山肌に這うようにつくられた墓地だが、あたりが杉松の山並みに囲まれたせいで、いっそう趣きを添えている。パサパサと音がする方に気づく。なにか小さな虫なんだろうか。見下ろす小さな田んぼの方から蜩が響いてきた。俺はなんだかせつない気持ちになった。
 母ちゃんもいないし、と思った。その時、突然、親父もいなんじゃないか、と心中でつぶやく声がした。しばし茫然としていた。いや、いや、そんなことはない-----人ってそんなもんだよ。そんなもんってどんなもんなんだ。そう思いがちなんだよ。何、云ってやがる。もっとはっきり云ってみろ。馬鹿にしやがって・・・。わかんねえんだな、とにかく、そんなもんだよ。
 俺はますますせつなくなり、集めた落ち葉に火を点けた。ぼおーっと燃え上がる。それで線香に火を移した。
 とにもかくにもと思って、まだ卒塔婆をたてたままのお墓の前に腰をかがめ、手を合わせた。

 今晩、帰ろうかとしている時、兄貴の不規則な仕事の合い間に落ち着きもなく、話し合った。俺と兄貴はいつも何故か、そうだ。互いに忙しい、忙しいといいながら、ゆっくり話し合うということがない。俺が高校に通っている時もそうだった。
 「しょうがないんだ」と兄貴。
 「あまり心配しなくたっていい。もっともな、今じゃ親類の人も俺をあんまり信用してないがな。結局、ここまでくるとわかるんだなあ、利己的だということがな。」
 「俺、考えてみたんだが、一年間だけなら帰ってきてもいい。俺にとっちゃ、小林をとるか大学をとるかっていったら小林をとる位だからな----------でとにかくその間に何とか格好をつけてもらえばいいんだが----------。」
 興奮していたのだろうか。あまり声に落ち着きがない。顔をしかめてじっと考えていたが、組んだ腕を解きながら云った。
 「えや、ずっといろってんだとさ。----------まあ、なんとかするさ。----------その代わり何かあった時には云うつもりだ。本家もあまり頼りにならねみたいだもんな。」
 少しの間、買ってきたビールを飲み合っていた。兄貴はつとめて賑やかにふるまっていた。俺は俺で、もつをつまみに気難しい顔で飲んで許りいた。


 急行第四いわて。一ノ関駅、十九時二十分発。
 夜行の汽車に乗った。混んでいる人ごみで俺はどうにか、あたふたと席を見つける。
 ああ腹減ったなあ、と弁当をとり出した。足を伸ばしデパートの包み紙でくるんだ杉折を膝の上にのっけた。親類の人がおこわを作ってくれたのだ。何はともあれ、俺はムシャムシャと食った。それから思いだして、缶ビール、四合瓶、ハイライトを買った。
 ああ家郷っていいなあ、ああ家郷っていいなあ、と無理に淋しさをかみしめながら、反芻していると、俺は自分でも驚くほど、落ち着いていることに気づいた。途端にビールをぐいぐい一息に飲む。勿論、足りやしない。酒の栓を切り、付属のお猪口で続けさまに飲んだ。その間、汽車がでているのに頓と気づかなかった。
                                        〈了〉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こちらも・・・

blogram投票ボタン