gooブログはじめました!古代からのウソの歴史の訂正と真実を

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ歴史の隠れ話に本物の光を、誠を伝える勇気を子孫のために、

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

2011-06-02 20:58:53 | 江戸時代のビッグ二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!






前の記事│このブログのトップへ│次の記事





2006年07月05日




小田原落城 天正18年(1590)

豊臣秀吉の統一事業の総仕上げが、なおも抵抗を続ける小田原北条氏の小田原城攻めであった。

小田原城は、城下町をもぐるりと城壁で囲み、ある程度自給自足もできる堅城であった。しかも西に天嶮箱根・碓氷の峠を備え、南は海。地の利にも優れていた。当時は4代北条氏政がまだ健在であったが、すでに家督はその子の氏直が継いでいた。

秀吉来攻の報せに、小田原城内では、軍議が繰り返されたが、敵が大軍であるので逆に持久戦に持ち込んだほうがいいと籠城するということで決した。小田原城は食糧などの備蓄量も豊富で、何年でも籠城できるという強みを持っての決定だった。

一方の秀吉であるが、これだけの巨城を前に全くの余裕ぶりを見せていた。小田原攻めを宣言し、天正18年(1590)3月1日に、秀吉は京都を出発。派手に着飾って、物見遊山にでも行くようないでたちであったという。進軍ペースものんびりしたもので、ようやく箱根山に陣をしいたのが1ヵ月後の4月1日であった。

豊臣軍には多くの大名が参加しており、東海道の先鋒として出陣したのは徳川家康である。家康は、先に山中・韮山城を落として布陣。北陸からは前田利家と上杉景勝が、上野と武蔵の北条方の城を落として着陣した。海上は中国・四国の大名の船団で埋め尽くされ、まさに小田原城の地の利をものともせぬ、数による徹底包囲であった。

秀吉は長期戦の構えで、4月6日に本陣を湯本に移して、笠懸山にのちに「石垣山一夜城」と呼ばれる城を築く。一夜城とは言うが、これは実際には城が完成するまでに2ヶ月ほどかかったという。

また、兵士の士気を衰えさせぬように、歌や踊りの会を催したり、芸者を陣中に入れたりして楽しませた。また、将には陣中へ妻を招くことを許し、秀吉自身も側室・淀殿を招いている。とにかく、包囲しただけで、特別攻撃らしい攻撃は行われなかった。城内の北条方も何年でも籠城してやるという持久戦の構えだったので、城内で囲碁や双六などをして遊んだりしていたという。

しかし、天下統一に王手をかけている秀吉の大軍に徹底包囲されているというプレッシャーは重い。やがて、秀吉は間者を放って、城内での寝返りを誘い、内部からの城攻めを開始する。さすがに数名がこれに応じ、しだいに小田原城の前衛は降参してきた。

最後の時を感じた北条氏直は、7月5日、ついに小田原城を開城。氏政・氏輝などの北条一族は死罪となったが、氏直だけは助命され、高野山に送られた。

秀吉は小田原落城後、ただちに奥州仕置を実施して同地を平定。ここに豊臣秀吉による天下統一がついに実現するのである。

⇒小田原城周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は小田原城天守閣。

※往時の姿をCG などで再現する画期的城郭雑誌シリーズ『よみがえる日本の城 (2)』は、表紙は江戸城ですが、小田原城が載っています。小田原城に関しては、復元CGはないですが、城の歴史や構造、城郭マップなどの他、城主についてなど情報も豊富です。値段もそれほど高くないのでかなりオススメです。
小田原攻めについては、『小田原合戦―豊臣秀吉の天下統一』をご紹介します。ちょっと古いですが、内容は割りと詳しく載っています。


--------------------------------------------------------------------------------

(キーワード)

●後北条氏(ごほうじょうし)
戦国時代に相模国(神奈川県)小田原に本拠を構えた戦国大名の一族。正式には単に「北条」姓なのだが、鎌倉時代の執権一族が北条姓であり、これとは全く出自も異なることから、区別するために、便宜上、「後北条氏」といわれる。

初代は早雲であるが、彼の前名は「伊勢新九郎長氏」と言う。ある時、小田原城を謀略をもって奪取し、下剋上の先駆けなどといわれることも多い。「早雲」という名乗りはよく知られているが、彼は生前にその名を名乗ったことはないらしい。従って、北条姓を名乗るのは、次代の氏綱からということになる。

2代氏綱、3代氏康は、戦国大名として申し分ない力量を持った人物で、北条氏の国力は関東一帯に広がっていった。4代氏政も国力増強に努めたが、5代氏直のころには、中央で豊臣秀吉の勢力が増大し、やがてこれの来攻を招く。

氏直は健在だった父・氏政や家臣たちと相談して、籠城戦術をとったが、秀吉に完全包囲されたうえ、重臣の離反などを招き、ついに小田原城は落城。ここに後北条一族は小田原から姿を消すのである。氏政他、北条一族はほとんどが死罪となったが、氏直だけは特別に赦されて、高野山に流罪となった。

ちなみに一族は、江戸時代には、上方の小大名として存続している。


--------------------------------------------------------------------------------

小田原城はいま、遺構の復元作業がいろいろと行われているそうですね。一度だけ行ったことがあるのですが、なぜか写真も見当たらず、記憶も薄れるばかり…。…と思っていたら、捜索の結果、ついに発見!それが冒頭の写真であります。まあ…もう7年前なので、もう一回行きたいけど…。

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

2011-06-01 20:24:16 | 江戸時代のビッグ二ユース


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!






前の記事│このブログのトップへ│次の記事





2006年07月04日




江戸幕府による鎖国完成 寛永16年(1639)

鎖国政策は、徳川幕府の代表政策ではあるが、実際はオランダや中国の王朝・明とは、鎖国中も交易が続いていたわけであるから、必ずしも徹底されていたわけではないことがわかる。

そもそも鎖国を進めた理由は国内からのキリスト教の排除と、各大名に交易によって力をつけさせないためであるところが大きかった。
1637年には島原の乱が発生しており、キリスト教の弾圧には幕府も敏感になっていたようなのである。

なにしろ、キリスト教の教義は、封建制度を確立するうえでも都合の悪いものだったからだ。おまけに、キリスト教を布教しているスペインやポルトガルには日本を植民地にする計画があるとする噂もあったらしい。だから、キリスト教の布教をしないオランダや明とは国交断絶に至らなかったのである。

鎖国は、実は複数回の海外船の来航禁止や、日本人の渡航禁止命令が出て完成に至る。

まず、元和2年(1616)、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限定。そして、寛永元年(1624)にスペイン船の来航を禁止し、寛永10年(1633)には奉書船以外の日本船の海外渡航禁止。寛永12年(1635)には、日本人すべての海外渡航と外国にいる日本人の帰国を禁止し、そのうえで、明船の寄港地を長崎に限定した。

ここに1637年の島原の乱が入り、寛永16年(1639)ポルトガル船の来航を全面的に禁止し、一応鎖国が成ったのである。ちなみにこの後、寛永18年(1641)には、平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移して、オランダ人もすべてここに移された。オランダ人はここを出ることを許されず、長崎奉行が厳しく監視したのである。
幕府は段階的に鎖国を進めていたが、海外渡航中で、帰国を禁じられた者たちは気の毒だなあ。

なお、鎖国は、よく知られるように、幕末のペリー来航による日米和親条約締結まで続いたから、およそ2世紀の間、日本は世界情勢から取り残されることになった。

その分、日本国内において、元禄文化、化政文化といった独自の文化が花開いたが、幕末の開国後にそのツケはまわってくる。しかし、明治日本に、偉大な指導者、人物がいたからこそ、日本は西洋列強の植民地になることなく、近代国家の仲間入りをできたのである。

とはいえ、鎖国中にも、熱心に海外の文化や情報を集めようとする人物はいた。

⇒鎖国中の外交窓口・出島跡周辺の地図(livedoor地図情報)
※出島資料館という施設があります。

※写真は『鎖国 ゆるやかな情報革命』。鎖国を通説とは少し違った角度から眺めた本です。介錯の仕方が斬新でけっこう評判もいいみたいですね。


--------------------------------------------------------------------------------

(キーワード)

●島原の乱(しまばらのらん)
1637年に発生した島原・天草地方の農民と有馬・小西などの牢人が組んでおこした一揆。背景には、幕府の出したキリスト教禁令に対する不満や、領主の松倉勝家や寺澤堅高などの過酷な年貢徴収に対する不満などがあったとされる。

天草(益田)四郎時貞という少年が一揆勢を率いて、原城にたてこもった。幕府はただちに板倉重昌を総大将に任じて討伐軍を派遣したが、無理攻めで重昌は討ち死にするという体たらく。ついに「知恵伊豆」こと老中・松平信綱が出張ってきて、包囲を続け、やがて乱を鎮圧した。約3万7千人の一揆加担者は皆殺しとなった。

ちなみに天草四郎は、海の上を歩いていたなどと言われ、キリスト教信者の農民達から神の子と崇められていた。


--------------------------------------------------------------------------------

いやー、何回も何回もにわけて鎖国令出しやがってよぉ!覚えるのに一苦労じゃねぇか!一気にビシッと決められねぇのか!…と言いたくなるくらい鎖国の流れについて、詳しくテストで出たことがあります…(泣)。

↓ぜひご協力お願いします。クリックするだけ!

燈明寺畷で新田義貞死す 延元三年

2011-06-01 17:57:17 | 江戸時代のビッグ二ユース

2006年07月02日




燈明寺畷で新田義貞死す 延元三年 暦応元年(1338)(閏7月2日)

足利尊氏の入京で、比叡山に逃れていた後醍醐天皇であったが、尊氏から「罪を問わない」「今後、再び公家政治をとっていただきたい」などの条件を掲示されて京への環幸を求められ、これに応じた。しかし、天皇に従う新田義貞を尊氏が許すはずはない。そこで、天皇は恒良親王に譲位して、義貞に恒良と尊良親王を連れて北国に落ちるよう命じた。

越前の敦賀につくまでに凍死する者が出たほか、尊氏の一族の斯波高経の軍勢に襲われたりしたが、なんとか生き残り、義貞らは金ヶ崎城に入る。以後、義貞は北陸での勢力確保に乗り出すが、状況は好転せず、足利軍の討手も派遣されてきた。

何度か撃退したが、やがて金ヶ崎城も完全包囲される。義貞とその弟の脇屋義助は、援軍を組織するため、一旦城を脱出。しかし、兵は集まらず、そうこうしているうちに金ヶ崎城は落城した。尊良親王と義貞の嫡子・義興は自害し、恒良は気比太郎の手で脱出したが、やがて捕らえられて京へ護送されたという。

窮地に陥った義貞であったが、中央で北畠顕家の軍勢の上洛・奮戦の影響もあってか、勢力を盛り返し、越前の国府を占領した。しかし、越前にはまだまだ斯波一族の軍勢がひしめいていて、楽観したものではなかった。

そこで、義貞は足羽の攻略を目論み、兵を進めたが、足羽攻めは難航した。そんな時に、越後の新田義貞の一族を大井田氏経らが率いて援軍にやってくる。義貞は援軍を得て、がぜん勢いづき、激しく足羽を攻め立てた。しかし、ここで、義貞に悪い知らせが入る。ずっと義貞に味方してきた平泉寺の宗徒が藤島荘寄進を条件として斯波方へ寝返ってしまったのである。

義貞は足羽への攻撃を中止しようとしなかったが、不吉な出来事も起こった。出陣しようとして、水練栗毛という馬にまたがろうとしたとき、いきなり馬が暴れだし、左右の口取りに重傷を負わせたのだ。合戦前の馬の狂乱は不吉であるとされており、部下からも諫言を受けたが、義貞は出陣した。

運命の日は閏7月2日である。この日は、義貞は本格的に足羽攻撃を行っている真っ最中であったが、藤島城の攻略が芳しくないと聞いた義貞は、勇躍軽騎50騎を率いて、藤島城攻めの方に向かった。部下達は、大将自ら出て行くような城ではないと静止したらしいが、これを義貞は振り切って出陣したのであった。

藤島に至る途中の燈明寺畷で、同じように藤島へ増援として向かう途中の敵軍と遭遇。義貞は慌てて馬を突撃させようとしたが、敵には弓兵が多かった。馬は射抜かれて斃れ、義貞も泥田に投げ出された。起き上がろうとした義貞が上を向いた瞬間である。敵兵の放った矢が義貞の眉間を射て、義貞はあっけなく戦死してしまったのである。一説には眉間を射られた後、自害したとも伝わる。

義貞の死により、足羽攻めは中止され、兵は脇屋義助がまとめて、国府に撤退した。義貞の首は京に送られ、獄門に処されたという。

⇒新田義貞戦没地の碑がある新田塚公園周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は平成3年に放映された『NHK大河ドラマ総集編DVD 太平記 3枚組』。近年不評の大河ですが、この作品はハマリ役も多く、かなり好評。平均視聴率26.0%というのも納得の作品。佐々木道誉@陣内孝則や、北条高時@片岡鶴太郎は特に見所です。
※太平記本として、全巻をダイジェストで読める『太平記要覧』は初心者にも超オススメ。年表と主要人名事典、キーワード解説もついてます。


--------------------------------------------------------------------------------

(キーワード)

●新田義貞(にったよしさだ)
上野国(群馬県)に大勢力を持っていた南北朝期の武将。鎌倉幕府を滅亡させた男。
元弘の変の時は、鎌倉幕府軍の一員として、楠木正成の籠もる千早城攻めに参加していたが、このときすでに心は幕府を見限っており、ほどなくして病と偽って領国・上野に帰ってしまった。

1333年5月8日に新田庄生品明神で倒幕の兵を挙げる。一説に後醍醐天皇の密命を受けていたものとされるが、定かではないらしい。挙兵後は、次々と送られてくる幕府の討手を撃破し、ついに鎌倉を落として幕府を滅亡させた。

幕府滅亡後は後醍醐天皇に従うが、討幕に参加していた足利尊氏とは対立するようになる。そして、尊氏がやがて天皇に叛いたため、その後は天皇軍の主力として尊氏の追討に尽力した。一時は尊氏を九州に追い払うが、軍勢を整えて戻ってきた尊氏に湊川の合戦で敗れて、敗走した。

その後も後醍醐天皇に従って北陸方面で転戦したものの、足利軍に攻められ、ついに藤島の合戦で敗死。『太平記』によると、眉間に矢を受けて討ち死にしたという。


--------------------------------------------------------------------------------

久しぶりの南北朝時代の出来事です。
新田義貞は、後醍醐天皇の軍の中心人物で、勇猛果敢な武将でしたが、戦術面ではいまひとつ思慮に欠けるところがあったようです。まあ失敗談だけを取り上げるとそういう評価になりますが、功績もいろいろと多いですよね