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大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)

2011-06-25 17:29:39 | 歴史隠れ話

大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)




大村益次郎は、幕末期を代表する軍政家で、もと医師。実家が医者の家だが、村医者であり、特に裕福というわけでもなかったらしい。

そんな益次郎だが、緒方洪庵の適々斎塾で、医学以外に兵学や築城学、砲術などを学んで、兵法家の道も切り開いた。益次郎は、実はこの後、故郷に戻って実家の医業を継ぐのだが、幕末の動乱のなか、益次郎の才能は伊予宇和島藩に聞こえていて、やがて招かれて宇和島藩で兵法家として活躍することになる。

紆余曲折あって、37歳で故郷の長州藩に仕えてその兵法や軍政の才能を発揮する運びとなった。益次郎の兵法、軍政は素晴らしく、戊辰戦争における上野彰義隊討伐、続く会津戦争、函館五稜郭と新政府軍の本部で辣腕を振るい、新政府軍の中心人物となっていった。

益次郎が襲撃されたのは維新成った明治2年。維新が成ったと言っても、まだまだ改革の途上であった。明治維新は、根本的に世の中の仕組みを変えるという一大改革であったから、新体制で不利を得る者は、改革に反対意見を唱えるものもいた。そして、その改革を主導した人物が狙われることもあったわけである。その風潮の中で大村益次郎も襲われた。

益次郎は、軍政家であったから、改革でも兵制の改革に取り組んだ。そして、こういう方針を打ち立てた。「武士の軍隊の解散と廃刀」である。これが、旧藩士の連中に猛反対された。武士の特権がなくなるわけだから、まあ当然といえば当然である。

益次郎が襲撃されたのは、軍事施設調査のために京阪地方に来ていた時であった。
益次郎が京都木屋町に旅館に帰ると、静間彦太郎、安達幸之助、山田善次郎などが訪ねてきた。いずれも益次郎の知人で、静間は大隊司令官、安達は英学教授であった。そして、明るいうちであったが、酒宴を催しながら談笑に及んでいたらしい。

やがて暗くなり始めたころに8人の刺客の襲撃を受けたのである。刺客の目標はもちろん益次郎で、真っ先に狙われた。益次郎は初太刀で額に浅傷を負う。そして、咄嗟ににとった刀で次太刀を受けようとしたが、振り下ろされた刀は鞘を伝って、右膝に骨まで刺さる重傷を負った。しかし、益次郎はそこでは死ななかった。うまく隠れて難を逃れたのである。他の3人はあえなく斬殺されたのだが。

だが、益次郎の膝の傷はやがて破傷風となり、右大腿部を切断。その後再び悪化して11月5日に死亡した。ちなみに刺客の8人は全員逮捕されて、斬首になっている。

⇒大村益次郎殉難碑周辺の地図(livedoor地図情報)
※地図にはありませんが、この辺にあります。

※写真は『風雲児たち 幕末編 8 (8)』。表紙が益次郎です。「歴史大河ギャグ」の本作ですが、割と細かいことまで描かれています。この巻は表紙になっているだけあって、最初の方は益次郎が多めに登場。この他に『風雲児たち 幕末編 5 (5)』にも登場して、シーボルトの娘・イネにいい台詞を言ってくれます。ちなみに『風雲児たち 幕末編 (9)』にも登場。

※大村益次郎を主人公とした大河ドラマもあります。司馬遼太郎原作の『NHK大河ドラマ総集編 花神』。大河の幕末モノはヒットしないというジンクスがあるようですが、…まあこの作品も地味といえば地味ですかね…(笑)。幕末好きなら絶対面白いと思うんですがねぇ。
原作はこちらです⇒『花神〈上〉』、『花神 (中)』、『花神 (下巻)』


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●大村益次郎(おおむらますじろう)

村田良庵、村田蔵六と称し、のち大村益次郎。

緒方洪庵の適塾の門下生で、塾頭にまでなった傑物。宇和島藩の伊達宗城に招かれ出仕し、藩の蘭学推進や西洋船建造計画に力を尽くした。この頃、シーボルトの娘イネに医学を教授したという。

のち、幕府に出仕し、蕃書調所教授手伝、講武所教授。1860年には萩藩(長州)に迎えられ、66年の幕府による第二次長州征伐で、軍略の冴えを見せつけた。次いで、戊辰戦争でも軍略面で活躍し、明治維新後は、新政府の軍制改革を提案した。しかし、革新的な発言をしてきたため、守旧派からは恨まれ、69年9月、京都木屋町の旅館で襲撃を受け、11月に没した。

肖像画を見ると、やたら額が広く、頭がでかい。脳みそギッシリなのね。
⇒肖像画を見たい方はこちらへ(国立国会図書館『近代日本人の肖像画』様)。


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大村益次郎は、私は『風雲児たち』で詳しく知りました。すごいカタブツとして描かれてましたがマジなのかな…?
しかし、襲撃の様子がどことなく坂本龍馬と似ているような…。書き方ひとつで変わるというヤツですかねえ。

「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)

2011-06-25 17:26:03 | 歴史隠れ話

2006年08月12日






「君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔のむすまで」

これが日本の国家・君が代の歌詞である。君が代は、もとは祝祭日の祝礼儀式に選定唱歌が必要だったため、文部省が選定して国家となったものだという。

歌詞は「主君(我が君)の寿命(御代)が、千代にも八千代にも末永く続きますように。小石がやがて大岩となって、そこに苔が生えるようになる時までも」という意味で、つまり、主君の命(統治時代)の永遠を願う歌というわけである。

この歌詞には原型があって、それが歴史上の著名な歌集に収録されている和歌であるらしい。代表的なものとして二首が挙げられるが、その一つ目は奈良時代に編集された『万葉集』の228「妹が名は 千代に流れむ 姫鳥の 小松がうれに 苔生すまでに」。もう一つは平安時代の『古今和歌集』の巻第七賀歌343「わが君は 千代に八千代に 細れ石の いはほとなりて 苔のむすまで」。

ただし、これらの他に、平安時代の『和漢朗詠集』の下巻には、今記載した『古今和歌集』に出ている歌の「わが君」の部分が「君が代」になっている歌が記載されているらしく、「君が代」の原典はこれであるとも言われる。

要するに国家制定当時の国民感情が、この歌にぴったりであったということであろう。

君が代には、はじめ英国調の曲がついていたという。これはイギリスの軍楽長だったジョン・ウイリアム・フェントンという人が作ったもので、薩摩藩の幹部が彼の指揮する軍楽を大変気に入り、頼み込んで作ってもらったものらしい。

しかし、やはりイギリス人のつくったものでもあるし、英国調の曲であったため、和歌にはいま一つしっくりこないということで、明治9年ごろ、海軍の中村祐庸という人物が、「新たな楽譜の作成の建議を」と申し出た。そこで、海軍が依頼して宮内省が作曲にあたることになったのである。

現在もそのときに作られた曲が歌われているが、これは林廣守作曲、ドイツ人のエッケルト編曲のものである。

⇒君が代の由来となったといわれるさざれ石がある岐阜県のさざれ石公園周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は君が代を様々なバージョンで収録した最強の君が代CD『君が代のすべて』。こんなん売っていたんですね~。CDショップで3年くらいバイトしてたことありますけど、こいつは知りませんでしたよ。なんかウイリアム氏の作った君が代初期バージョンも収録されているっぽいですよ。(確認はしてないので気になる方は問い合わせてから購入してネ。)

※君が代歌唱強制問題についての本⇒『「日の丸・君が代」強制の次に来るもの』。


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君が代は、今は学校の卒業式なんかで「歌いたくない」と言って、歌わない先生や生徒もいるようです。それで処分を受けた人もいるんですよね。拒否の理由は詳しくはわかりませんが、歌詞の内容の解釈によっては、「そのような内容の歌を強制的に歌唱せねばならないというのはおかしい」ともなるのかもしれないですね。私は特に気になりませんけど…。

歌詞の内容に関することでの歌唱拒否となると、やはり根本的な問題ですからね。今後は、いろいろと協議しなくてはならないようにも思います。

ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)

2011-06-25 17:16:55 | 天武天皇崩御 

2006年08月09日







ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)

「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」とは、当時の流行り歌であるというが、江戸時代の象徴とも言うべきちょんまげを、公式に落としてもいいと認めたのが明治4年(1871)のこの日であった。

一応、法令として出されており、法令名は「散髪脱刀令」という。法令名からもわかるが、散髪の他に帯刀についても自由とされていた。ただし、帯刀についてはこれから5年後に廃刀令が出て、禁止されるようになる。

散髪自体は、実は幕末から行われていたのだが、まだ普及率は低かった。しかし、この法令が出ても、多くの人がちょんまげを落とそうとはせず、最初はあまり広まらなかった。江戸時代はちょんまげが普通なのであり、それが明治時代になったからと言ってもそう簡単には落とせない。みんなそう考えるから、街を歩いてみてもちょんまげの人が多い。周りの人と一緒なのを好む人たちは、わざわざ他の人と違うことをしようとはしないのである。

それでも、全国各地に散髪店が普及すると、新し物好きの人は早速散髪をした人もいて、「ざんぎり頭」が少しづつ普及していった。

「ざんぎり」が人々に広く受け入れられるようになったのは、明治6年(1873)のこと。なぜこの年に急に普及したかというと、この年の3月10日、明治天皇が散髪したからであるという。

明治天皇が散髪したことを聞いた国民は「我も我も」と散髪店に行って、一斉に散髪をした。街にざんぎり頭が増ええると、自動的に周りの人と一緒なのを好む人たちもざんぎり頭にする。こうして、1年もすると、ちょんまげをにしている人の方が珍しくなったのであった。

明治天皇のカリスマもうかがわれる一件である。とは言っても、明治天皇がそういうつもりでおられたかどうかは定かではないが。

※写真は『日本の髪型―伝統の美 櫛まつり作品集』。日本の髪型の変遷はそれだけでも一つの文化。古代から現代まで、様々な髪型を実際の人間で再現した写真集です。髪型の変遷がすぐわかります。アマゾンレビュアーの皆さんも軒並み高評価。写真だけでなく解説もあり。値段も内容に比してお安めですヨ。


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●ざんぎり頭(ざんぎりあたま)

漢字で書くと「斬切」、「散切」、「残切」などと書く。明治初期のちょんまげを落とした髪型のこと。

ざんぎり頭は、性格には髷を落として、中央から左右にわけた髪型である。異称は「洋髪」。江戸時代はちょんまげは義務付けられていたので、文明開化の成った明治の時代に古い時代の慣習はふさわしくないとして、わざわざ「散髪脱刀令」なる法令まで出て推奨された。

ちなみに髷を落としても、月代が残る場合は半髪、髷を落としただけだと総髪と呼ばれる。幕末から除々に普及した。
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という歌も流行ったが、同じように「半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」なども流行った。なお、総髪は王政復古の音がするらしい。


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明治天皇効果はすごいですなあ。現代も内閣府ではクールビズを推奨して、公務員の方々もそれに倣ってますね。指導者によるお手本は効果があるんですね。

…まあクールビズはね…。暑い夏に当たり前のようにスーツの上着着てる方がおかしいと私は思いますが…。このクソ暑いのに、通勤電車内で上下スーツ着用で汗だくの人見ると、気の毒だなあと思いますよ。まあ営業とかの人は仕方ないかもしれないですが、社内勤務なのに、会社でスーツ着用が決められているとしたら、実に非合理的ですな。夏は暑い!それは当たり前…ならば薄着を認めろ!…という声もあるんでしょうかね…。

それにしても、最近忙しくなってきた!更新がマチマチで申し訳ないです。

楠木正成の挙兵 元弘元年・元徳3年(1331)

2011-06-25 00:48:23 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月14日


楠木正成の挙兵 元弘元年・元徳3年(1331)


鎌倉幕府の悪政に心を痛めていた後醍醐天皇は、ついに笠置山で挙兵した。これに呼応して赤坂城で挙兵したのが、悪党としても名高かった楠木正成である。正成は、これ以降、後醍醐天皇に味方して、鎌倉幕府の滅亡に一役買い、さらに後に反旗を翻すことになる足利尊氏とも戦うことになる。

赤坂城は、特にこれといった防御施設のない小さい城だったが、正成はゲリラ戦術を展開して、幕府軍を散々翻弄した。その上で、一週間くらいしてから兵糧が尽きると、さっさと城に火を放って退却した。風雨の激しい夜の撤退劇だったという。

⇒赤坂城跡周辺の地図(livedoor地図情報)


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(その他の9月14日の出来事)

●熊谷直実没 承元2年(1208)
⇒熊谷直実は、源頼朝の御家人だったが、一ノ谷の合戦で平敦盛を討った話は平家物語などでも有名。のち出家して蓮性と名乗った。

●春日局没 寛永20年(1643)
⇒3代将軍徳川家光の乳母。実は明智光秀の家来・斉藤利三の娘である。

●山崎闇斎没 天和2年(1682)
⇒江戸前期の儒学者・神道家。垂加神道の提唱者である。

●ムシ歯の原因判明 1683年
⇒ムシ歯は、口腔内の微生物による酸化作用のためと考えられているが、これを発見したのがオランダの博物学者・レーウエンフクという人物だったという。


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楠木正成といえば、すごい戦術に長けていたというイメージですが、要は掟破りの実用的な作戦を立てて戦ったということなんですよね。あまりにも型にはまらない戦いぶりだったために、まったく予想もできずに敵は倒れていくという…。

事によっては、ルールどおりにやっていればいいというもんでもないですなあ

織田信長が比叡山を焼き討ちする 元亀2年(1571

2011-06-25 00:44:12 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月12日


織田信長が比叡山を焼き討ちする 元亀2年(1571)

ブログ村 歴史ブログ

当時ですら700年以上もの歴史を持つ鎮護国家の大道場・比叡山延暦寺を焼き討ちするとは、部下も思っていなかった。だから、信長から比叡山を焼くように命せられた時は、驚愕であったであろう。明智光秀や佐久間信盛などは、必死になってのぶながを諫めたが、一切聞き入れられなかった。

織田信長が比叡山を攻めたのは、近年激しく対立していた浅井・朝倉両家に比叡山も味方していたからであるという。
根本中堂、社寺堂塔500以上が消失、寺域内にいた3千名以上が、老若男女を問わず一人ずつ斬殺された。

明智光秀が本能寺の変を起こすきっかけになったのではないかとも言われる、信長の狂気の行動である。

⇒比叡山延暦寺周辺の地図(livedoor地図情報)


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(その他の9月12日の出来事)

●嘉吉の徳政令 嘉吉元年(1441)
⇒嘉吉の乱に伴って、出された徳政令。

●石山合戦開戦 元亀元年(1570)
⇒天下統一を推し進める信長に、決して屈しようとしない石山本願寺が抵抗。10年に及ぶ長期戦に。

●加藤嘉明没す 寛永8年(1631)
⇒ちょっと影が薄いけど、賤ヶ岳の七本槍の一人ですよ。

●塙保己一没す 文政4年(1821)
⇒目が見えないから手に書いてもらって字を覚え、膨大な巻数に及ぶ「群書類従」を編纂した超人。


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比叡山焼き討ちについて、光秀が諫めたところ、信長にブチギレされてひどい仕打ちを受けたから、この頃から謀反を考え始めたとかいう話も聞いたことがあります。

しかし、信長公も容赦ないねぇ。奈良の大仏殿焼き討ちしちゃうヤツもいるけど…。