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明治天皇に国産ビールが献上される 明治10年(1877)

2011-06-29 11:23:53 | 「ビール発祥の地」

2006年06月26日




明治天皇に国産ビールが献上される 明治10年(1877)

日本のビール発祥の地と言うと、横浜がよく知られているだろうか。確かに明治3年にアメリカ人のウィリアム・コープランドという人が、横浜に工場をつくって外国人向けにビールを製造していたらしい。しかし、これは「アメリカ人の手に成る日本初」である。

また、大阪の堂島にも「ビール発祥の地」の碑があるらしい。こちらは明治5年に渋谷庄三郎という人が建てた工場で造られたということで、まさしく「国産第一号」。ただ、やっぱり主に外国人に販売していたといい、明治天皇に献上したのも渋谷ではない。

天皇に献上されたビールが造られたのは、なんと北海道の札幌であった。

当時の北海道はまだ開拓使による開発の途上にあったが、明治5年(1872)、アメリカ人のトーマス・マンチセルという人が、北海道岩内で野生のホップを発見した。当時の開拓使長官は、黒田清隆であったが、彼がこのホップを利用してビール(麦酒)を造ろうと考えたらしい。

やがて、ビール醸造の学習経験のある中川清兵衛という者を招いて、開拓使麦酒製造所という工場を開くに至った。清兵衛は、ビールの本場・ドイツのチホリビール会社で醸造を学んできた男で、見事なビールが出来たという。

明治天皇へは一般販売に先駆けて、明治10年の6月26日、出来上がった開拓使麦酒を一箱献上。明治天皇には、当時稀少だったが現代では極一般的なものがいろいろ献上されたりしている。代表的なものにはアンパンなどがあるが、ビールもこの時献上されていたわけである。ちなみに一般販売は、同年の秋からで、大ビン1本16銭だったらしい。販売地域は主に東京周辺のみ。流通システムからいって、まあ仕方ないかな…。

もひとつおまけに、この開拓使麦酒製造所は現在のサッポロビールに前身らしい。うーむ由緒正しいのだなあ。




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今日はなんだかあんまりこれというネタを発見できなかったので、マメ知識本からセレクトした小ネタです(笑)。

明治天皇は、ビール飲んだ感想はどんなことを話されたんでしょうね~。初めて飲むとけっこう苦くて、「どこがどううまいのだろう」と思ってしまうような気がするんですが…。

廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)

2011-06-29 01:12:26 | 黄海海戦

2006年07月14日





廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)

廃藩置県といえば、明治維新の代表的改革の一つだから、学校で習う歴史でも大きく取り上げられている。改革の内容は読んで字の如く、藩を廃して県を配置した改革である。

明治政府の地方政治改革として、この廃藩置県以前に版籍奉還が行われている。これによって、藩の支配権は天皇、ひいては政府に移行したのだが、旧藩主がそのまま藩知事に就任したため、根本的にはあまり変化がなかった。また、戊辰戦争や、急激な近代化に伴い、どこの藩も財政難に陥っており、なかには自発的に政府に廃藩を訴えでる藩も出てきていた。

さらに、政府にも金がない。政府機構の樹立、維持には相当の資金が必要だったが、すべての国土と人民の支配ができなければ財源も確保できていない状態となってしまう。それに、藩も県も混在するような中途半端な状態が続くのは好ましくない。そこで、より支配体制を強化し、新政府を維持するためにも政府は廃藩の準備を進めたのである。

しかし、中には版籍奉還後の藩内の抜本的改革に見事成功し、藩政をうまくやっているところもあったし、やはりこれまでの体制を大きく変えるものであるから、反抗する者が出てくることが懸念された。だから、抵抗された場合にもただちに鎮圧できるように、事前に薩長土の3藩から御親兵約1万人が集められた。そして、明治4年(1871)7月14日、明治天皇により、東京にいる藩知事らが召集され、廃藩置県を命じる詔書が出された。全国の地方政治機関はまずは3府302県に変更された。

この廃藩置県で、藩知事だった者(ほとんどが旧藩主)は免職となり、家禄と華族の身分を保障されて東京に移住。代わって東京・京都・大阪の3府に知事、県には県令が政府によって置かれ、そのほとんどが他藩出身の者が任命された。

そして、これらの藩に納められていた年貢は新政府に入るものとなったが、各藩が抱えていた負債も政府に受け継がれる。具体的には合計7813万3千円もの負債を抱えることとなり、うち400万円は外債であったという。ちなみに7813万3千円という金額は、全国の藩の実収高の2年分であったらしい。

廃藩置県に際しては懸念された反抗はほぼなかったが、薩摩の島津久光は、「西郷に騙された」と怒り、花火をあげてウサ晴らしをしたという。

当初配置されたのは3府302県にものぼったが、年内に3府72県にまで統合され、さらにのち、1道3府43県となった。東京について、現行の「東京都」になるのは、昭和18年(1943)。軍部の圧力によるところが大きいという。

※写真は、明治維新後の政府の改革や当時の状況、背景などを詳しく書いてある『廃藩置県―「明治国家」が生まれた日』。明治初期の本はあまり易しいのがないような気がしますが、比較的読みやすいと思いますヨ。


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名前はわかりやすいのに、「はんせきほうかん」「はいはんちけん」と語句に同じものが含まれるなど、歴史嫌いな方には厄介な二政策。「はんせきほうかん」の「はん」は「版」ですが、「はいはんちけん」の「はん」は「藩」なので注意。はんはんはんはん…。

習いたて当時は何で一気にやらないんだろうとか思いましたが、いろいろ理由はあるものですね…。

黄海海戦 明治27年(1894)

2011-06-29 01:01:25 | 黄海海戦

2006年09月17日





黄海海戦 明治27年(1894)

ブログ村 歴史ブログ

この黄海海戦は、日清戦争の最中に起こった日本軍にとって無謀ともいえる戦いであった。

そもそも日本は明治に入ってから、条約を結ぶなどして強国・清と極力衝突しないようにしてきたのであったが、朝鮮問題で対立することになってしまう。やがて対立は激化し、ついに朝鮮東学党の乱発生により、清と戦闘状態に突入した。
黄海海戦時、清には当時世界最大級といわれた定遠・鎮遠という2隻の戦艦があった。さらに、その周りを固める艦隊の艦数は、軍艦82隻に水雷艇が25隻。これに対し、日本軍は速度の遅い旧式艦や、輸送船を含み、軍艦31隻、水雷艇24隻という陣容であった。

ところが、戦闘はなんと日本軍の勝利に終わる。4時間にも及ぶ死闘だったというが、圧倒的不利と考えられていた日本が勝ってしまったのであった。
日本軍の勝因は、速射砲による縦陣攻撃だったらしい。これをやると、敵艦の砲撃は当たりにくくなるのだが、こちらの砲撃も当たりにくくなる。そこで、速射砲で数を撃てというわけであった。

海戦の司令官は伊藤祐亨だったが、独断専行が功を奏したという意味では第一遊撃隊を率いていた坪井航三の功績も評価されるであろう。

※写真は『日露戦争物語―天気晴朗ナレドモ浪高シ (第14巻)』。
これは漫画ですが、黄海海戦のことが非常に詳しく書かれています。タイトルからして日露戦争まで続くんでしょうから、今後も楽しみです。


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(その他の9月17日の出来事)

●安倍貞任討ち死に 康平5年(1062)
⇒前九年の役の始まりとなった安倍頼時の子。

●正岡子規誕生 慶応3年(1867)
⇒俳人であり、歌人でもある。『ホトトギス』の主催として有名。肺結核で若くして死亡した。


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『日露戦争物語』はけっこうマニアックですが、好きな人にはたまらない作品ですよ。黄海海戦に至るまでのことも書いてあるし、オススメです。

それにしてもこの形式なら毎日書けるかもと思ったのですが、なかなかしんどいです(笑)。でもなんとかがんばります。日にち抜けても怒らないでまた見てやってください。

鳥居耀蔵没す 明治7年(1874)

2011-06-29 00:37:31 | 「妖怪」と言われた人物である。

2006年10月03日






鳥居耀蔵没す 明治7年(1874)

鳥居耀蔵は、その政界でのやり口から「妖怪」と言われた人物である。耀蔵の官職がちょうど甲斐守であったから、耀蔵の「耀」に甲斐守の「甲斐」で「ようかい=妖怪」である。

鳥居耀蔵は、洋学にきわめて強い反感を持っており、完全に敵視していた。
ある時は西洋流の砲術を取り入れた高島秋帆を目の敵にして追い落としたり、水野忠邦の命で江戸湾海防巡検で測量を行った時には、海防改革案で洋学者と親しく、その意見を取り入れた江川太郎左衛門と対立したりした(江川案が採用されたので、なおさら鳥居は怒ったらしい)。

やがて、まんまと水野忠邦に取り入って、洋学者たちを成敗することに成功(蛮社の獄)。さらには江戸の南町奉行となり、市中に平民を装った密偵を放って、苛烈な取締りを行ったりした。耀蔵の悪口を言うものも取り締まられたらしいので、さながら平安時代の平家による禿の如しである。

しかし、水野忠邦失脚後は、耀蔵の権威も弱まり、阿部正弘が老中になると、オランダ国書をめぐる評議で対立。阿部は、以前から鳥居の在任中の悪事について洗い出しを進めており、幕府の御用商人後藤三右衛門と組んでの、貨幣改悪による不当な利益を得ていた件の他、事実隠蔽、金銭横領などなど多数の悪事を指摘されて、免職改易。四国丸亀藩へお預けとなった。

と言っても、丸亀藩もいやいや耀蔵の引き取りを承諾したから、耀蔵は一室に押し込められて、ほぼ23年間の間外にでることすらなかったという。だが、明治維新で丸亀藩そのものが消滅すると、耀蔵も解き放たれる。
一応家族のもとに戻った耀蔵は、「幕府が滅びたのはわしの言うことを聞かなかったからだ」などと相変わらずの悪態をついて、明治6年にこの世を去った。享年78歳。

※写真は『妖怪といわれた男 鳥居耀蔵』。小説です。耀蔵の見方が変わるかもしれない作品。悪人耀蔵のイメージは覆されるかも。


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(その他の10月3日の出来事)

●大津皇子処刑される 朱鳥元年(686)
⇒天武天皇の皇子で、皇位継承問題や恋愛問題から讒言されて処刑された。

●北条氏康没す 元亀2年(1571)
⇒小田原後北条氏3代目。武田信玄や今川義元と手を結び、関東へ大きく進出して、北条家の名を天下に知らしめた名将。

●山鹿素行が配流となる 寛文6年(1666)
⇒山鹿素行は山鹿流兵法などで著名な兵法家。朱子学に反対的で、「聖教要録」を刊行。これが大老・保科正之の怒りを買い、赤穂藩に配流となる。ただし、赤穂藩は素行の旧主であったし、10年後には赦免されている。

●山内容堂が大政奉還を建白 慶応3年(1867)
⇒山内容堂は山内一豊で有名な土佐の大名。大政奉還については、坂本龍馬の案を後藤象二郎がまとめて、容堂に進言し、それを容堂が建白したものだという。


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鳥居耀蔵もわかりやすい悪人ですなあ。「妖怪」とか庶民に言われていた時点で、「あ、悪いヤツだったんだね」ってわかりますよね。

今回あえて「耀蔵没」をメインの記事にしたのは、個人的に昔からその悪人ぶりに興味ある人物だったからです(笑)。ちなみに参考文献は、『日本史人物辞典』とおなじみ『風雲児たち (16)』(18巻くらいまで登場します)です。興味ある人はどうぞ~。

伊藤博文暗殺 明治42年(1909)

2011-06-25 17:34:21 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日



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・伊藤博文暗殺 明治42年(1909)
・鳥居耀蔵没す 明治7年(1874)
・黄海海戦 明治27年(1894)
・大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)
・「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)
・ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)
・明治天皇崩御 明治45年(1912年)
・廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)
・明治天皇に国産ビールが献上される 明治10年(1877)
・版籍奉還 明治2年(1869)


2006年10月26日




伊藤博文暗殺 明治42年(1909)



この暗殺事件が起きたのは日本国内ではなく、満州のハルピンであった。

伊藤博文は、南満州鉄道などの権益の確認のために満州に渡っていたが、日露戦争の敗戦後もロシアは不凍港を求めて東進を狙っていたため、伊藤はこの時にロシア側の要人と会談を行って、利害関係の調整をすることになった。

伊藤博文は部下と共に奉天からの列車に乗って、午前9時にハルピンに到着。ハルピンではロシア側とハルピン駐在の警備員、ロシアの軍楽隊などが待っており、列車が到着するとロシアの使者であるココチェプ財務大臣が列車の中に入っていって、伊藤に挨拶をして連れ立って列車を出たという。

ホームで軍楽隊の演奏が鳴り、伊藤は儀杖兵を閲兵、列国外交官らの挨拶を受けた後、ロシア兵の前のさしかかった。

その時銃声が響いた。まず3発。人々がざわめく中でさらに4発。弾丸は伊藤と側近に命中しており、伊藤はうめき声をあげて崩れた。

その直後である。ロシア兵の後ろから一人の東洋人が「朝鮮万歳!」と叫んで拳銃を高々とあげると、それを捨てた。この男こそ、伊藤博文暗殺の犯人とされる安重根30歳であった。

撃たれた伊藤はすぐに列車内のベッドに運ばれた。意識はあったので、勧められたブランデー一杯を飲み干した。
「誰がやったのか?」
「朝鮮人のようです。」
それを聞いた伊藤は愕然として「馬鹿な…」と言いかけて絶命したという。

安重根はただちに取り押さえられていた。カトリック教徒だった彼は、伊藤の死を聞かされると、神に感謝の言葉を捧げた。安重根は以前から反日運動を繰り広げていた男で、今回も伊藤を狙ったものである。旅順の監獄に投獄された後、翌年3月26日に処刑された。
その行動から朝鮮では英雄として扱われている。

※写真は『伊藤博文を撃った男―革命義士安重根の原像』。暗殺事件の詳細を遺品資料と、地道な取材で追うノンフィクション。事件に興味がある方は必見。


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(補足情報)

●巻き添えで重傷を負った人
安重根の放った弾は全部で7発。伊藤の側にいた人間にも当たった。
被害者は、ハルピン駐在総領事川上俊彦、宮内大臣秘書官森泰次郎、満鉄理事田中清次郎の3人。


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伊藤をはじめ日本政府は、朝鮮のためとうたって朝鮮に介入していたんですが、朝鮮人にとっては、はた迷惑な話だったのかもしれませんね。当時の日本は日清戦争、日露戦争と意外な大勝利。ちょっといやらしい言い方をすると、のぼせていたのかもしれませんねぇ。