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古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

Marina@神戸-2-4

2018年07月15日 | 山口華奈 山岡ゆい 森田かほ Marina

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Marina@神戸-2-3

2018年07月14日 | 山口華奈 山岡ゆい 森田かほ Marina

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ゆん@尾道-4-3

2018年07月13日 | 優木絢 Yuri 結真 ゆん ゆな ゆきな

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ゆん@尾道-4-2

2018年07月12日 | 優木絢 Yuri 結真 ゆん ゆな ゆきな

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長篠-8 織田信長本陣跡

2018年07月12日 | 戦国時代

 「天正3年(1575年)旧暦5月長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し武田軍1万五千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも時間と共に信玄依頼の武将の相次ぐ討ち死に等損害を積み重ね遂には撤退を余儀なくされました。武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました」 説明案内より抜粋

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長篠-7 信玄塚

2018年07月12日 | 戦国時代

 信玄塚の説明板「信玄塚と火おんどり」に記載のように、信長・家康軍と勝頼両軍あわせて16000もの戦死者が出た。信長公記には餓死した者、溺れ死んだ者も含めてその数知れない、多聞院日記には「千余人討死」とある。従って設楽原の住民は、戦場のかたづけに従事し、この地に2つの塚を築いて弔ったという。それがこの「信玄塚」である。勝頼と信長家康の戦いなのに信玄塚なのは、当時いかに信玄の偉名が大きかったか、と推察できる。

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長篠-6 馬防柵と鉄砲構え

2018年07月12日 | 戦国時代

 「長篠の戦い」1575年5月21日は、長篠城攻め、鳶ヶ巣山砦の戦い、設楽原の戦いの総称で、三河国長篠城をめぐって、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。なかでも設楽原の戦いと言えば、馬防柵と、3000丁の鉄砲の三段撃ち。馬防柵は、武田軍の騎馬隊を防ぐ策であり、横木に銃をしっかりと固定できて命中する確率が上がるという意味でも重要な柵となる。

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長篠-5 甘利郷左衛門信康の碑

2018年07月12日 | 戦国時代

 甘利信康は、甲斐武田氏の家臣で信玄・勝頼2代に仕え、武田信玄陣立書では信玄本陣を守る鉄砲衆として記載されている。『甲斐国志』では信康を信忠の子弟とし、1575年5月21日の長篠の戦いで戦死したとしている。『甲陽軍鑑』では長篠合戦における左翼の山県昌景隊に属していたと記されている。地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、立ったまま切腹したという。

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神原みお@沖縄残波岬-5

2018年07月11日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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神原みお@沖縄残波岬-4

2018年07月10日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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鈴果@竹原-4-4

2018年07月08日 | 芹沢蓮 芹沢恋夢 鈴果 優まお せら

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鈴果@竹原-3-4

2018年07月07日 | 芹沢蓮 芹沢恋夢 鈴果 優まお せら

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会津 若松-12 山本家の墓

2018年07月06日 | 幕末

 1643年に保科正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山したお寺である。本堂の表には、戊辰戦争殉難殉節供養の碑があり、山本家は八重の高祖父の時代から、このお寺を菩提寺としていて、八重は1931年に、バラバラになっていた家族のお墓をここにまとめた。この大龍寺の一角にある山本家の墓には「山本家之墓」と建てられた墓標があり、これは八重が書いたものと言われています。この墓標の裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と書かれており、これを建立した翌年に、八重は88年の生涯を閉じます。

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会津 若松-11 白虎隊の生き残り飯沼貞雄の墓

2018年07月06日 | 幕末

 飯盛山で自刃し、亡くなった隊士の数は19名。しかしながら、自刃したもののその命を生きながらえた唯一の人物が白虎隊隊士・飯沼貞吉。通りすがった会津藩士の妻により助けられ、白虎隊は後世に広く知られることになる。生き残った飯沼貞吉を保護したのは長州藩士・楢崎頼三、ひとり生き残ったことを恥じ、悶々とする彼を哀れんだ楢崎頼三は長州へと連れ帰り生活の面倒をみたという。そして楢崎頼三は「今からは日本人が心を一つにして、この国を強くて豊かな国にしなければいけない」と諭したという逸話が残されている。彼が亡くなってから26年後、戊辰戦争90年祭を機に彼の遺髪と義歯は白虎隊墳墓に合祀され、碑には「君と十九人の同志は泉下に手をとりあい満足の笑みを交わしていることであろう」と刻まれている。

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会津 若松-10 白虎隊十九士の墓

2018年07月06日 | 幕末

 ここ飯盛山には 白虎隊十九士の墓がある。16~17才の少年たちによって編成された白虎隊は、戸ノ口原合戦から退却し辿り着いた飯盛山で、鶴ヶ城の天守を覆い隠す、激しい炎と濛々たる黒煙を目にする。その時、隊士の間では城に戻り戦うか、敵陣に斬り込み一人でも多く道連れにするか、激論が交わされた。結果、彼らが選んだのは自刃。捕らえられて生き恥をさらすより潔く死を選ぶ、という結論だった。ある者は腹を割き、ある者は喉に刃を突き立てる、凄惨たる光景。新政府は彼らの遺骸に手をつける事を許さなかったが、3ヶ月後、近くの村人・吉田伊惣治らによって付近の妙国寺に密かに仮埋葬された。改葬が許されたのは明治2年。その時作られた墓は拡張され、大正15年に今の形となった。

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