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希実@神島-3

2018年07月31日 | Sena 希実 松島夏子

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日光東照宮-3 国宝・陽明門

2018年07月31日 | 池波正太郎 江戸時代

 2017年3月10日、50年ぶりの修復を終えてその光り輝く姿を見ることができました。創建は1617年、徳川家康、2代目将軍・徳川秀忠の発願によるものである。施行は甲良豊後守宗弘、総指揮は天海で、現在の日光東照宮の陽明門は、徳川家康公の21回忌にあたる1636年に徳川家光公によって造り替えされたものである。陽明門は508体の彫刻で埋め尽くされおり、中国の歴史上に存在した22人の著名人を含んでいる。

平安時代の武装した格好の随身像

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日光東照宮-2 三猿の由来

2018年07月30日 | 池波正太郎 江戸時代

 日光東照宮は、江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。その歴史は源義朝による日光山造営までさかのぼり、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、東国の宗教的権威となっていたという歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。

 神厩舎の猿の彫刻は猿の一生を描くものであり、「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿は有名である。礼節にそむくことは、見てはいけない、言ってはいけない、聞いてはいけない、行ってはいけないという孔子の四つの戒めの意味があると言われている。ということで、四つ目の行ってはいけないことを8枚のパネル彫刻として残しているようで、作者は不明です。

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希実@神島-2

2018年07月30日 | Sena 希実 松島夏子

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Marina@神戸-2-5

2018年07月29日 | 山口華奈 山岡ゆい 森田かほ Marina

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会津 若松-16 白虎隊士が出陣の命を受けた滝沢本陣

2018年07月29日 | 幕末

 参勤交代や領内巡視などの際の殿様の休息所であり、戊辰戦争の際に本営となり、白虎隊もここで命をうけて戸ノ口原戦場へと出陣していった。茅葺きの屋根におおわれた書院づくりの建物は、国の重要文化財に指定され、歴代藩主の愛用品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されている。戊辰戦争時には、藩主松平容保の出陣によって陣屋となり、座敷には当時の戦闘による弾痕や刀傷などが残る。

 

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夏子@淡路・阿万浜-2

2018年07月28日 | Sena 希実 松島夏子

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会津 若松-15 皆鶴姫の墓と暦応の碑:藤原成道の側室(鬼一法眼の後妻)の娘

2018年07月28日 | 平安時代

 皆鶴姫の解説の前に、平治の乱で平氏敗れた源氏の状況について語らねばならない。源氏方は、頼朝が伊豆へ流され、義経は京都洛北の鞍馬寺に預けられた。この時の名は遮那。成人するに付け平家の追求の手が身辺にも及ぶ様になったので、知人の金売り商人の吉次の手引きで奥州に逃れたのである。途中、1172年名古屋の熱田神宮で元服し、義経と名を改めると平泉の藤原氏を訪ね、1174年に義経は、京都へ戻った。平氏の動向を探っていた義経は、兵法に通じた吉岡・鬼一法眼が所有する兵法書を手に入れようとしたが叶わず、娘の皆鶴姫(母は、藤原成道の側室で皆鶴はその娘、後に皆鶴を連れ吉岡鬼一法眼の後妻となる)に近づき、密かに書き写したという。その時、帽子丸という男子が生まれている。皆鶴姫は、正一位大納言藤原成道卿の側室である桂御前の一人娘、彼女が生まれて直ぐに父である藤原成道卿が亡くなってしまったので、母は皆鶴姫を連れて里に帰りその後、鬼一法眼吉岡憲海と再婚し、姫も鬼一法眼の養女となった。その後義経は、四条の上人正門坊の元に身を寄せていたが、それを訴え出た人があり、上人は捕らえられ義経は奥州へ逃れるのである。皆鶴姫は驚き後を追ったという。1176年、会津若松市柳原に皆鶴姫が2歳の帽子丸を連れて来た時、敵に帽子丸が捕まり沼に投げ入れられ溺死したという。皆鶴姫も18歳で難波池に投じた。その時、義経は報を聞き急ぎ戻り、この池の傍らに皆鶴姫を葬り、墓を築いた。   

暦応の碑の左側には、義経が奥州平泉に下向する際に愛馬を繋いだと伝わる「駒繋石」がある

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会津 若松-14 西郷頼母、妻の墓

2018年07月27日 | 幕末

 善龍寺には西郷頼母の妻・千重子をはじめとする一族21名が眠っている。1868年8月23日、新政府軍は戸ノ口原で白虎隊らを破り、土佐藩の板垣退助らを先頭に若松城下に進攻した。西郷頼母邸では、千重子の長女ら5人をはじめ、一族21人が城に入らず屋敷で自刃した。千重子の義母の律子(58歳)、妹の眉壽子(26歳)、妹の由布子(23歳)、長女の細布子(16歳)、二女の瀑布子(13歳)は、辞世の歌を残し自刃。千重子は、三女の田鶴子(9歳)、四女の常盤子(4歳)、五女の李子(2歳)を刀で刺し、母と妹らは互いに刀を刺して亡くなる。その他、支族の西郷鉄之助夫婦、母の実家・小森家の祖母や婦女子、親戚で江戸藩邸から避難し、西郷家にいた親戚ら21人が亡くなった。『西郷隆盛一代記』によると、薩摩藩士の川島信行が、西郷邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り、奥の部屋に進むと、男女が丸く座って自殺していたという。細布子はわずかに息があり、「その所に参らるゝは、敵か味方か」と尋ね、敵ならば、戦おうとするしぐさをしたが、川島が「味方だ、味方だ」と叫んだ。細布子は、その場に倒れ、懐剣を出し、咽喉を刺そうとするが出来ず、川島が不びんに思い介錯したという。

 西郷頼母は、家督を継いで藩主・松平容保に仕えた。1862年、容保が京都守護職就任を要請されたとき、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さなかったことで家老職を解任され蟄居させられる。1868年、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は会津へ帰還する。このとき頼母ら家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの容保親子の斬首要求に態度を一変、新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失う。若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めたが、会津藩士の多くは新政府への徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は、長子・吉十郎を伴い城から脱出。家老・梶原平馬の命令で刺客が差し向けられたが、刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったという。会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。西郷家は藩主である保科家の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し保科頼母となる。

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夏子@淡路・阿万浜-3

2018年07月27日 | Sena 希実 松島夏子

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夏子@淡路・阿万浜-1

2018年07月26日 | Sena 希実 松島夏子

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会津 若松-13 会津藩主松平家墓所

2018年07月26日 | 幕末

 会津若松城の東に2kmほどのところに津藩主松平家墓所がある。初代保科正之の墓所はここではないが、2代保科正経から9代松平容保までが葬られている。

保科正俊1511-1593     
 ┣保科正直1542-1601       
 ┗保科正勝   ┗□□・・□□
   ┗□・□        ┗西郷頼母1830-1903 
      ┗初代保科正之1611-1673(会津松平家初代、陸奥会津藩初代藩主) 
        ┗2代保科正経1647-1681    
         ┗3代保科正容1669-1731    
          ┗4代松平容貞1724-1750    
           ┗5代松平容頌1744-1805     
            ┗6代松平容住1779-1806     
             ┗7代松平容衆1803-1822     
              ┗8代松平容敬1804-1852    
               ┗9代松平容保1836-1893(陸奥国会津藩の第9代藩主)
 

 初代の保科正之は高遠藩の名君と言われた。父は2代将軍徳川秀忠である。しかし母は正室・お江与(お市の方の末娘)ではない。秀忠の乳母の侍女で北条氏の家臣の娘・お静である。つまり侍女に手をつけたのである。将軍・秀忠は恐妻家で有名であり、正妻・お江与にお静の妊娠を知られないように見性院(武田信玄の次女)に預けられ養育された。見性院の縁で旧武田家臣の信濃の高遠藩主・保科正光に預けられて正光の子として養育され、後に高遠藩の藩主となっている。お江与は秀忠に側室を許さなかったほど気の強い女性であったから、お静の子の存在を知らせるわけにはいかなかったのである。しかしお江与は正之がいずれ将軍の子として認められるときのために秀忠の子であることの証文を取っている。お江与が亡くなり正之が18歳のときに初めて秀忠との対面を果たし、松平姓を名乗るように勧められたが、正光の弟が保科家を立てて大名になるまでは保科姓を通し、やがて会津松平藩主となったのである。保科家に恩義を感じてのこの姿勢に人々は好感をもち、同母弟・忠長を切腹に追い込んだ新将軍・家光も正之をかわいがった。やがて家光は幼い子(後の4代将軍・家綱)を残してこの世を去るときに正之に将軍家を頼む、と言い残したという。感極まった正之は後に会津藩の掟となる「家訓15か条」を作り、将軍家への絶対の忠誠をうたっている。また、会津藩は旗本とは違って武を重んじる藩となっていった。幕末の時代にあっても京都守護職を引きうけ、武芸に長けた新撰組の後ろ盾となったのは、そのへんに理由がある。保科正之は家光の死後、4代将軍家綱を補佐し善政を敷いた。大名取り潰しの要件を緩め、大名が亡くなった際の殉死の禁止を徹底させた。

 実質的に最後の藩主となる松平容保は、幕末期に京都守護職として新撰組を率いた人物である。松平容保は美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれたが、会津藩松平家の養子となった。会津藩の家格は実家よりもずっと上の23万石であるから幸運といえる。しかも養父の死とともに18歳の若さで会津藩主となったのである。その翌年、黒船来航という事件が起こり、この脅威から国を守るのに徳川幕府では役に立たない、天皇家を中心とした新しい政府を作る必要があるという討幕運動が起こる。中心となったのは関ヶ原の戦いの敗者である長州藩 毛利家であった。こうして京都の天皇のもとには勤王の志士たちが続々とあつまり、攘夷を唱え様々なテロ活動を繰り広げたことから京都の治安は乱れた。そこで幕府は京都の治安を回復し天皇家を守るために京都守護職を設立して松平容保を抜擢したのである。徳川家の名門であり武勇を重んじる会津藩主・松平容保ではあったが、守護職は本来徳川将軍家の役目であり、最初は固辞していた。しかしとうとう幕閣の要職にあった一橋慶喜らにより口説き落とされ、松平容保はやむを得ず藩兵を率いて入京すると、黒谷の金戒光明寺に本陣を構えたのである。1862年12月のことである。こうした中、江戸で集められ供与に入った攘夷浪人たちが幕府のためにと、会津藩に願い出てきた。近藤勇、土方歳三をリーダーとした新撰組がそれである。ところが、新撰組の働き・忠義は勤王の志士たちの憎しみを集中させる結果を招いた。時の孝明天皇は松平容保を篤く信頼し、倒幕などは考えていなかった。1863年、長州藩が天皇を担いでクーデターを起こそうとしたときも、松平容保は薩摩藩と連携をとり未然に防ぎ、孝明天皇は松平容保に直筆の礼状を与えたという。ところが状況は孝明天皇の不可解な崩御によって急展開することとなる。孝明天皇の後継者である明治天皇は討幕派を支持し、同志と思っていた薩摩藩は坂本竜馬の仲介により長州藩と同盟を結んだことから、天皇より倒幕の密勅が発せられた。このとき徳川将軍は15代慶喜である。慶喜は勤王家である水戸徳川家の出身である。天皇の命令で進軍してくる薩長藩と戦えば、朝敵となってしまうことから、大阪城から江戸城へと逃亡をはかったのである。これによって、江戸城無血開城が実現したともいえるのである。慶喜の降伏によって薩長藩の矛先は京都で勤王の志士を散々殺した松平容保に向けられた。もはや松平容保には戦意はなかったが、官軍は松平容保を許さず、その本拠地である会津の地に攻め入ったのである。このとき藩を守るために結成されたのが白虎隊である。官軍は容赦なく攻め入り、多くの藩士が殺され、妻娘は自害した。このときの黒煙を見た白虎隊は、城が落ちたと勘違いして次々と自刃したのである。松平容保からすれば徳川の命令で京都守護職となり、勤王の志士を制圧することで京都の治安を守ってきたが、孝明から明治天皇へ変わったことで、攘夷から倒幕の波にかきまわされ、徳川家に裏切られたかたちとなった。松平容保は孝明天皇から与えられた直筆の礼状を死ぬまで首からさげていたという。

 

会津藩 : 最前線親藩  浦賀港の警備 

1854 松平容保 第9代会津藩主になる18歳 養子で会津にはいる

   長州藩、攘夷派浪士は入京テロ

1862 松平容保26歳 京都守護職就任、12月上洛@光明寺 京都の治安維持

   このとき、会津の財政は困難中

1863 234人の浪士組が京都へ 新選組局長近藤勇は光明寺にて容保と面会

   上覧試合@光明寺 

   京都の治安回復 容保は陣羽織を孝明天皇より

   5月 長州藩が外国船砲撃@下関海峡 by 久坂玄瑞一派

      天皇の名のもと宣戦布告@神武天皇陵

      薩摩藩から尊王攘夷派追放の協力要請に容保は呼応 

   8月18日会津は御所を取り巻いて攘夷派公家を阻止排除 → 長州藩と共に西国へ追放

   公武合体に進む

1864 7月長州藩京へ進軍:禁門の変 で会津は出陣、一橋とともに長州を撃退 久坂玄瑞戦死

   一会桑勢力拡大

   7月23日 長州征伐の勅命

   容保は将軍家茂の上洛を求めるが江戸幕閣が阻止(将軍の権威失墜経験あり)

   これは容保の経緯の念が幕府から天皇に移り変わっていることを示す

   11月 第一次長州征伐:尾張藩徳川慶勝が総督

      参謀の西郷隆盛は長州と密約(長州3家老処刑恭順で征伐取りやめ) → 解兵

      容保の守護職継続:実権握る 長州への処分は??

1865 4月 高杉晋作決起  

   5月 幕府の出陣(将軍の上洛)

   11月 長州の陰謀を糾弾 → 老中上洛:長州への寛大な処置 一橋慶喜は批判 

1866 1月薩長同盟締結(長州の汚名払拭、一会桑と決戦)

   2月寛大な処分案を容保は長州藩に伝達(藩主引退、領地10万石没収のみ)→長州はこれを無視

   6月第二次長州征伐 長州の最新式武器が幕府を圧倒(会津は出兵せず)

 

   【最新鋭武器】エンフィールド銃といってミニエー銃の改良型である。これらの銃はグラバー商会から入手。その量は1万丁にも及ぶと言われている。不思議なのはこの最新式銃を幕府側も少なからず所有していた。ということはグラバー商会は新政府側と幕府側の両方に販売していたのである。彼らのことが死の商人と言われる所以がここにある。

   

   7月将軍家茂が病死 → 幕府敗北

   12月孝明天皇崩御 → 容保窮地

1868 1月鳥羽伏見の戦い → 徳川慶喜戦意喪失 → 慶喜江戸へ逃避

   容保の小姓の手記:浅羽忠之助遺録 → 慶喜の逃避を諫言

   4月 会津戦争勃発 鶴ヶ城開城 容保は隠居

   会津にとって主君は将軍であり天皇であったが、会津戦争では会津は賊軍、朝敵となったことは想像外だった

1893 容保死去 58歳

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夏子@淡路・炬口-3

2018年07月25日 | Sena 希実 松島夏子

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夏子@淡路・炬口-2

2018年07月24日 | Sena 希実 松島夏子

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夏子@淡路・炬口-1

2018年07月23日 | Sena 希実 松島夏子

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