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安珍・清姫の物語

2009年08月01日 | 平安時代

 道成寺は熊野三山への巡礼の道筋にある。 熊野街道をとおって熊野詣を行う人々はその途中で日高川の流れに出会うが、清姫が大蛇に変身するのはこの川を渡るときであった。 日高川を河口からすこし遡ったところに道成寺はある。 安珍・清姫の物語は平安時代の928年、醍醐天皇の時代の頃であるが、道成寺の歴史はかなり古く、701年(大宝律令ができた年である。)に文武天皇の勅願により創建されたという。 以降、謡曲の「道成寺」、舞踊の「娘道成寺」、長唄の「紀州道成寺」、能楽、浄瑠璃などでも広く題目に上がり物語化された。 嫉妬に狂った清姫は恋する安珍を追いかけて蛇と化し、ついには道成寺の鐘に隠れた安珍を焼き殺してしまう。 1978年以降、道成寺の発掘調査が行われて、自伝のとおり、8世紀初頭の創建で七堂 伽藍を備えた寺として栄えていたことが裏付けられた。また、平安初期の仏像が国宝として残っており千手観音像は44本の腕を持つことで知られている。(普通は1000本の腕を42本で代表する) また脇侍として日光・月光菩薩が立つのは珍しい。 一般的には薬師如来の脇侍が日光・月光菩薩なのである。 実はこの千手観音のほかに本堂には北向観音とよばれる千手観音像が安置されており、33年に一度開帳される秘仏がある。 しかも内部からもうひとつの千手観音像が発見された。 いわゆる胎内仏である。 3体の千手観音像の意味は解明されていないらしいが、千手観音は菩薩の中でもひときわ強い霊験をあらわしている。 圧倒的な存在感を持つ、本堂の千手観音像の44本の手には44種類の違った物を持つ。

 境内には安珍塚という塚があり、清姫に焼き殺された安珍が埋葬されたと伝わる場所である。928年奥州から熊野詣にきた僧が紀伊国真砂で一夜の宿を乞う。 その宿には清姫という娘がおり、僧・安珍に一目惚れをして夜中に寝所に忍び込んで一夜の契りを求めるのである。 安珍は驚き熊野権現へ詣でるというのに願は破れない。 帰りにはきっと寄るからと告げて翌朝熊野へ向かう。清姫は自分の恋の成就を信じて安珍を見送った。 ところが約束の日になっても安珍は戻ってこない。 清姫は安珍のことを旅人に尋ねると、すでにかなり先まで行っていることがわかった。 だまされたとしった清姫は必死で安珍を追いかけた。 しばらくして追いついた清姫に呼び止められた安珍はあわてて言い訳をするが清姫の形相は変わり、変わり果てた清姫は安珍に駆け寄ってくる。 恐ろしくなった安珍は熊野権現に助けを求め祈った。 眼がくらんだ清姫から一時的に逃げることができた安珍は日高川を渡り、清姫が来ても船に乗せないように頼んだ。 舟に乗せてもらえない清姫は川に飛び込むとその姿は蛇にかわり執拗に安珍を追いかけた。 川の対岸にある道成寺に逃げ込んだ安珍は僧侶に助けを求め、僧侶は安珍を鐘のなかに匿った。 火を噴く大蛇と化した清姫は鐘に巻きつき、鐘もろとも安珍を紅蓮の炎で焼くつくし、清姫も海に身を投げて死ぬのである。 幾晩か過ぎて道成寺の僧が千手観音の前で法華経の供養をすると翌晩の夢に二人があらわれ成仏できたとお礼を言って天上へさっていったという。 この物語のもとになっているのは平安中期に書かれた法華経の功徳を説く仏教説話だそうである。 従っていまもなおこの物語は美談として語られているのである。 

 能の「道成寺」では一人の白拍子が現れて妖艶な乱拍子を踏み、鐘のなかに飛び込み姿は消え、道成寺の僧侶がこの鐘にまつわる因縁を語り始める。 鐘を引き上げるとそこには蛇の姿をした鬼女が現れ日高川に飛び込み消えていく。 歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」は能の「道成寺」を舞踊化したものである。 かつての道成寺一帯は入り江でそこに住む海人の娘は海中で光るものを見つける。 それは黄金の千手観音で、庵を結んでその像を安置し願をかけたところ海人の娘は豊かな黒髪となった。 この黒髪のことを聞いた帝は娘を宮中に迎え入れ、その後娘は宮子と名乗り文武天皇の后となった。 そして文武天皇は道成寺の建立を発願したという。 文武天皇の后・宮子は実在の人物で藤原不比等の娘である。 のちに文武との間に皇子をもうける。 この皇子こそ後の聖武天皇である。 

天武天皇631-686   軽皇子(42代文武天皇) 701-756
 ┣ 草壁皇子662-689 ━┛  ┃ 
持統天皇41代645-703      ┃ 
蘇我娼子娘            ┃
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737┃ 
  ┃   ┣ 豊成  704-765   ┃ 
  ┃  ┃   ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信           
  ┃  ┃     -796  -808 ┃
  ┃   ┣ 乙麻呂         ┃
  ┃   ┃   ┗是公      ┃ 
  ┃  ┃     ┣ 吉子     ┃ 
  ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃大納言     多治比真宗769-813 
  ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃後に恵美押勝 ┃是公娘・吉子 -807    
  ┃  貞姫   ┣        ┃        ┃┣ 伊予親王
  ┃        房前娘       ┃         ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
  ┃                     ┃         ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
  ┣ 房前  (北家)681-737┃元正の内臣  ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)   
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃      和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃        ┣山部王(桓武天皇)737-806  
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂    ┃右大臣     ┃ ┃           
  ┃  ┗ 鳥養   ┗ 冬嗣 ┃       ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)  
  ┃       ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察  ┃百川娘・旅子 759-788   
  ┃       ┗葛野麻呂 ┃-818      ┃  
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃        ┃
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃        ┃  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃         ┣ 早良親王(大伴家持派)
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃      白壁王(49光仁天皇)709-781        
  ┃   ┃ 阿部古美奈     ┃       ┣ 他部親王          
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)   
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┗朝原内親王779-817(平城妃)    
  ┃  ┃  ┗ 旅子        ┃ ┣ 井上内親王717-775      
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王          
  ┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反       
  ┃       ┃ ┣ 薬子 -810┃ ┃    塩焼王    大伴家持  
  ┃       ┃ ┃  ┗娘    ┃ ┃           坂上苅田麻呂
  ┃       ┃ ┗ 仲成     ┃ ┃          
  ┃       ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃          
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744   
  ┃┣ 麻呂 (京家)695-737┃ ┃     
  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃   701-756     
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45代聖武724)   
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛ ┣ 基皇太子727-728  
  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┃        
藤原不比等 659-720          ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733                  
        ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用) 
     ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757    
      ┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737     
      ┣ 牟漏女王       
     美努王 
   栗隅王┛ 
  大俣王┛ 
難波皇子┛

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2009年08月01日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

 

 

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