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嵯峨 水尾の地

2009年08月03日 | 平安時代

 京都嵯峨のなかでも最も山間部にあるのが水尾の集落である。 「尾」は小高い丘の意味を持ち、水尾のほかにも高尾、栂尾などいくつもの地名がある。 都が平城であった頃に桓武天皇の父・光仁天皇が御幸したこともあり、私も清和天皇の御陵を訪ねて一度行ったことがあるが偏狭の地といってもよく、京都の嵯峨とはとても思えない。 桓武天皇自身も785年に水尾に遊猟に行き、そのときに伴をして高位に預った巨勢朝臣嶋人は桓武天皇の母・高野新笠の死に際して作路司をしたという。 桓武天皇の母・高野新笠は和乙継と土師真妹の間にうまれ、山背大枝に陵は営まれた。 水尾の地への関心はこの頃からあったのであるが、この地に最も関心を寄せていた人物が水尾帝とよばれた清和天皇である。 清和天皇は清和源氏の祖であるが、武勇はまったくなく、幼児で皇太子となり、9歳で天皇になると、藤原氏(良房)の傀儡として自分の意思を通せない人生を送っている。 摂関政治の始まりがこの清和天皇であり、外祖父の藤原良房が摂政として実務を行ったのである。 清和天皇は27歳のときに、藤原高子(藤原長良の娘)との間に生まれた陽成天皇に譲位し、30歳で仏門に入ったという。 近畿の寺を行脚するという難行の末、水尾山を終焉の地とする決心をした。 水尾での生活は短く、病弱であった清和は療養に励むことなく、早くこの世から去りたいと思っていたかのような行動をとったという。そして880年31歳のときに、西方を向いて結跏趺坐をし定印を結んで息を引き取った。 嵯峨天皇の薄葬主義と同じく亡骸は水尾山頂に置かれただけで、 現在山頂には水尾山陵が残されている。

 

こんな山深いところを延々と歩くと水尾山陵はあります

 

 水尾集落では柚子豆腐を楽しめる店があり、(わたしが行ったときには閉まっていた。森浩一先生も訪れたときにはどの店も閉まっていたと本に書かれています) 柚子だけではなく、その昔は枇杷の産地でもあったらしい。 京都府最高峰の愛宕山890mの麓に集落があって下には渓流があり、保津川下りで有名な保津川と名前を変えて京都に流れ込んでいる。 このような地形を尾というのだそうだ。 水尾には右家と左家からなる古老制度があってそれぞれ6人ずつ、あわせて12人の古老が清和天皇御陵を掌ったという。 また、水尾は柚子のほかに樒というものが茂っている地でもあり、いまでは「しきび」とよんでいる常緑樹の葉のついた枝を仏さんに供えるが、線香の材料にもなるらしい。 

━ 56清和天皇━━ 貞純親王━━ 源経基━━ 満仲━┳ 頼光━━ 頼国━━ 頼綱━┓
                          ┃   ┏━━━━━━━━━━┛
                          ┃   ┗━ 仲政━━ 頼政
                          ┗ 頼信━━ 頼義━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗┳ 義家━┳ 義宗
   ┃    ┣ 義親━━ 為義━┳ 義朝━┳ 義平(悪源太)
   ┃    ┃         ┃    ┣ 朝長
   ┃    ┃         ┃    ┣ 女
   ┃    ┃         ┃    ┣①頼朝━┳②頼家━━┳ 一幡
   ┃    ┃         ┃    ┣ 義門 ┣③実朝  ┣ 公暁
   ┃    ┃         ┃    ┣ 希義 ┣ 大姫  ┣ 千寿丸
   ┃    ┃         ┃    ┣ 範頼 ┃(義高と婚約)┗ 竹御所
   ┃    ┃         ┃    ┣ 全成 ┗ 乙姫 ┃(藤原頼経室)
   ┃    ┃         ┃    ┣ 義圓      ┃
   ┃    ┃         ┃    ┗ 義経      ┃
   ┃    ┃         ┣ 義賢━ 義仲(木曽)━ 義高
   ┃    ┃         ┣ 義憲(義広 志田)
      ┃        ┃                  ┣  頼賢
      ┃        ┃                  ┣  為朝
   ┃    ┃         ┗ 行家(新宮十郎)
   ┃    ┣━ 義国━┳━ 義重(新田氏)
   ┃    ┃(足利氏)┣━ 義康(足利氏)
   ┃    ┣━ 義忠 ┗━ 季邦
   ┃    ┣━ 為義(義親の六男、義家養子)
   ┣ 義綱 ┣━ 義時(陸奥五郎、石川氏)
   ┃    ┗━ 義隆(陸奥六郎、森冠者)
   ┗ 義光━┳━ 義業(佐竹氏)
    (新羅)┣━ 義清(竹田氏)
        ┗━ 盛義(平賀氏)  

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山城・中道子城

2009年08月03日 | 鎌倉・室町時代

 室町時代に播磨の豪族・赤松氏により建てられた山城が 中道子城です。築城年代は明らかではありませんが、赤松円心の四男氏則(氏範)が築城したとされています。父・円心と兄など赤松一族が北朝方に与するなか、氏則のみが終始南朝に与し戦い、1386年領内で叛乱を起こすと、北朝方の一族との戦に敗れ、氏則一族は自害して果てています。  氏則のあと城主になったのは赤松氏の一族である孝橋氏で、数代のちの嘉吉の乱で一時山名氏の持城になりますが、赤松再興により再び孝橋氏が治め、のちの秀吉の中国攻めにより落城しました。  中道子城は別名志方の城山と呼ばれ、周りは丘や小山が取り囲んでいる標高270mの東西に長い山で、南側の眺望は抜群で毎年初日の出を眺める絶好のポイントになっています。  登頂しようと試みましたが先の豪雨のせいか登山道はぬかるみ、とても最後までいけそうにありません。 次回にまた挑戦しようと思います。 頂上にある本丸には赤松城址の碑が建ち、土塁が周囲を囲んでいるようです。 南の神社のさらに南には二の丸が位置し、南側には加古川市・高砂市・明石市が眺望できるようです。 

 

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
          ┃         ┗季則--赤松則景-家範-重則┓
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
┗赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘  ┗赤松村秀1480-1540(庶流) 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣  ┗赤松政秀?-1570┳政広1562-1600竹田城主 
    ┣氏春      (置塩城主)赤松義村?-1521   ┏娘┛
    ┣家則           ┣赤松晴政 1513-1565
    ┣祐春           ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
    ┣季則           ┃   ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
   ┗乙若丸          ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)

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