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ラベンダー畑にて

2009年08月15日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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物部大連守屋の墓

2009年08月15日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 八尾市 勝軍寺の東100m、国道25号線沿いに物部大連守屋の墓はあります。 ここは物部氏と蘇我連合軍が最終決戦 「衣摺の戦」をおこなった地とされています。 6世紀前半、物部氏は大連の姓を大和朝廷からもらい軍事・警察を職務としていました。それに対し進歩的な蘇我氏は大臣の姓をうけ外交・財政を職務とし、物部氏と激しい主導権争いを演じていました。 そして大陸より伝来した仏教を受容するのか否かの論議で両者の対立は頂点に達し、さらに用明天皇が在位2年で崩じた後の皇位継承争いでとうとう戦へと発展しました。 蘇我馬子は有力豪族の紀・巨勢・平群・春日・大伴・阿倍氏らを味方に付け、さらに厩戸皇子ら多くの皇族の助けも得て、物部守屋を討伐することを謀りました。587年7月、大和盆地から二上山の北側および南側の街道を経て、志紀郡(現在の藤井寺市・柏原市)の物部氏の領地を攻めた蘇我の軍勢は、さらに旧大和川に沿って北西方向に進軍し、物部氏の本拠地であった阿都の館、渋河の館(いずれも現在の八尾市)と攻略していき、最終決戦の場になったのが衣摺の館でした。 日本書紀には、「蘇我馬子、厩戸皇子らは軍兵を率いて、志紀郡から物部氏の渋河の館に至った。守屋は、子弟と奴の軍隊を率い、稲城を築いて防ぎ、衣摺の朴枝の間にのぼり、矢を雨のように放ったが、守屋軍の強盛なことは家や野に溢れる有様であり、蘇我氏率いる軍は苦戦を強いられて三度も退却しなければならなかった。厩戸皇子は白膠木を切り取って四天王の像を彫り、頂髪に載せて戦勝を祈ってから、さらに攻めた時、迹見首赤檮(とみのおびといちい)が守屋を射落とし、その子弟たちを殺し、守屋の軍を四散させて勝つことができた。」 と記されています。 

 

  587年7月、竜田川の西南の大和川沿いには蘇我馬子率いる大和朝廷軍2000人の兵士が布陣していた。敵は大連物部守屋である。 膳臣加多夫古(かしわでのおみかたぶこ) 、大伴連囓(くい) 、阿倍臣人、葛城臣烏那羅(かうらぎのおみおなら)、巨勢臣比良夫(こせのおみひらぶ)、紀男麻呂(きのおみのおまろ)などの豪族出身の舎人が集結している。 総師馬子は東漢直駒(やまとのあやあたいごま)を長とする東漢氏に護衛された屋形で全軍の指揮を執っており、同席の泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)の同母兄弟に穴穂部皇子、宅部皇子がいたが、物部守屋に通じたとして蘇我馬子に殺害されている。直接手を下したのは王家に仕える佐伯、土師、的(いくわ)の氏族であるが馬子の命令だけではなく、額田部皇女(後の推古天皇で炊屋姫ともいう) の支持もあった。 これにより諸豪族は大臣の権力を再認識するのである。馬子が東漢氏を使わなかったところに思惑がある。 額田部皇女が何故馬子を支持したかというと、昔、敏達天皇が亡くなった頃、王位を狙っていた穴穂部皇子は額田部皇女に言い寄ってきたが殯宮の警護長・三輪君逆が跳ね返した。 これに激怒した穴穂部皇子は守屋と協力して三輪君逆を殺害したが、彼は額田部皇女の恋人であった。故に馬子の穴穂部皇子殺害を支持したのである。  この守屋討伐戦に14歳の厩戸皇子も参加していた。厩戸皇子を護衛するのは秦河勝という朝鮮からの渡来系氏族で、厩戸皇子の舎人の長である。 実は厩戸皇子の父・用明天皇は3ヶ月前に亡くなっていたため、遺体は殯宮に放置されたままで、墳墓に葬られていない。母・穴穂部間人皇女を通じて参戦に難色を示したが曽我馬子に一喝された。厩戸皇子の母方の兄弟である穴穂部皇子、宅部皇子を殺害した馬子は倭の国の大臣であり誰もが恐れた男である。馬子によって蘇我氏が最高に繁栄した時でもあった。大和朝廷軍の士気を挙げる目的もあって泊瀬部皇子、竹田皇子、難波皇子、春日皇子たちも参戦している。 敏達天皇が広姫との間に設けた押坂彦人皇子が守屋陣営に捕われ、行方不明だという。厩戸皇子はどこか孤独感のある押坂彦人皇子を思う。 押坂彦人皇子の母広姫が亡くなり、額田部皇女の力が増すにしたがって押坂彦人皇子は阻害され、忍坂宮に籠もるようになった。 押坂彦人皇子は馬子や額田部皇女に良い感情は抱いていないので、物部守屋についたとも考えられる。 ところで、大和朝廷軍は苦戦をしていた。物部が1200に対して朝廷軍は4000を超えるが、豪族が率いる兵のほとんどが農民であり、戦の意味をわかっていない。それに比べて物部の兵士は倭国一と言われるように鍛えられている。馬子は士気を高めるために厩戸皇子に四天王の仏像をつかった必勝祈願をさせている。また、途中で逃げ出すような豪族長などは味方の手により殺させた。当時最も辱められた刑は穴刑といって尻の穴に槍・刀を突き刺して死刑にするという方法である。もちろんこれに怯えた豪族は勇敢に敵地へ飛び込んでいった。 翌日坂上直子麻呂は、物部守屋大連が 押坂彦人皇子の舎人・迹見赤檮(とみのいちい)の矢で殺されたと報告してきた。続いて東漢直駒も同様の報告をする。押坂彦人皇子は守屋に捕われたのか、通じていたのかわからないが、守屋陣から逃げ出そうとした時に守屋に殺された。そして主人の仇をとるべく、押坂彦人皇子の舎人・迹見赤檮は守屋に矢を向けたようである。こうして巨大豪族物部氏は曽我氏によって遂に倒れたのである。

 厩戸皇子は香具山の東にある上宮(かみつみや)に戻った。この付近には昔勢力を振るった首長の墳墓が多い。メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳(神武東征説にでてくる王者長髄彦の墓ではないか?)などである。すぐ東の鳥見山の東には忍坂山があり、中大兄皇子の父・舒明天皇の墓がある。 因みに今の舒明大王の墓の近くに、田村皇子の宮である忍坂宮があり宮の警備隊長を勤めたのが物部守屋討伐で功績のあった迹見赤檮である。 厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女や弟・来目皇子も上宮に移った。 厩戸皇子は幼少から鞍部多須奈に仏を教わり、馬子が師とした高句麗の僧・恵便から道教思想を学んだが恵便から母国高句麗の慧慈(えじ)という名僧を聞くと会いたくなった。 既に恵便からは全てを吸収しており、それ以上の師を必要とし、恵便もそう考えていた。  この頃蘇我馬子は倉梯宮の建設を進めていた。上宮から半里ほど多武峯方向の山奥に入った場所である。 至って見晴らしは悪く厩戸皇子は不思議に思っていた。また守屋との戦いで力を得た四天王の為に四天王寺を建立する計画もある。 これらの建設は倭国の技術では不可能であり、馬子は百済、高句麗から技術者、学識者を呼び寄せ、各豪族達には氏族の寺を建てるように勧めるつもりであった。曽我氏の都として飛鳥を選び、都の山も三輪山ではなく、畝傍山、耳成山、香具山の三山と考えていた。 倉梯宮には傀儡大王を住まわせ、政治は馬子の嶋の屋形で行う。 これにより政治に口を挟まない大王を作ろうとしているのである。 馬子の思惑通り泊瀬部皇子が大王になり倉梯宮に住むと、飛鳥の豊浦には馬子の屋形ができ、額田部皇女も住まいとした。この頃から額田部皇女は豊御食炊屋姫と名を変え神祇の面にも口を挟み、唯一の泊瀬部大王の権威をも脅かし始めた。作戦通りではあるが、馬子は泊瀬部大王の不安を払拭するために我が娘の河上娘を与えたりしている。 ただ、河上娘が祟峻大王を愛していなかった為、不安・反発を払拭できなかったようである。

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃ 額田王631-689       ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃息長真手王 ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子  ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┃    ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃   ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃  ┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃  ┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子                   ┃  ┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子             ┃  ┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃  ┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)      ┃  ┃  ┣ 高市皇子654-696  ┓ 
 ┣ 小姉君                     ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女                      ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)        ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂            孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┣長皇子-715
  ┃     ┣ 蘇我日向                ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃  ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女         ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇          ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
 ┃   ┃    ┣紀皇女       ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃   ┃    ┣田形皇女      ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正)
 ┃   ┃    ┣穂積親王          ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮
   ┃  ┗ 蘇我畝傍 
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
   ┣ 法提郎女
      ┣ 刀自古朗女-623
   ┗━━━━━┓
阿佐姫(弓削氏)  ┃
 ┣物部守屋-587 ┃
 ┣布都姫    ┃
 ┃  ┣物部鎌足姫大刀自
 ┣石上贄古大連(物部守屋の同母弟)
物部尾興?-?(安閑・欽明朝の大連で中臣鎌足と廃仏主張) 

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