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勾当内侍供養塔

2009年08月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 勾当内侍は、南北朝時代の公家・一条家の女性で後醍醐天皇の後宮に入り、新田義貞の妻となった。 一条経井の三女、一条行房の妹である勾当内侍は、鎌倉時代に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績を挙げた上野国の新田義貞の妻となったが、建武の新政を開始した後醍醐天皇が新田義貞への恩賞として後宮にいた勾当内侍を与えたとされる。 勾当内侍は、後醍醐帝に仕えた女官であり和歌の名手としても伝えられている。 秋の夜、勾当内侍が琴を弾いていた時に近衛師団長であった新田義貞がその音に魅了され、勾当内侍の姿にも心を奪われる。 意を決して勾当内侍へ歌を贈るが勾当内侍は後醍醐天皇をはばかり歌を手に取ろうとしなかったが、後醍醐帝はこの噂を耳にし、義貞と勾当内侍の仲をとりもったという。 

 世が動乱となり足利尊氏と新田義貞の戦いは、足利軍と後醍醐軍との争いとなり、京都は足利軍に制圧され、 義貞は北国に逃がれる。 勾当内侍は都に近い琵琶湖畔の漁師小屋に身をひそめて迎えを待ち、やっと届いた「今は道のほども、しばらく静かになりぬれば」 によって越路の旅にでるが義貞はいなかった。 生きた義貞と逢うことが出来なかった彼女は、京に戻り仁和寺のほとりに隠れるが、義貞はすでに越前藤島で戦死し、三条河原でさらし首になっていた。 勾当内侍はその首をもち帰り、髪をおろして尼となり義貞の菩提を弔ったという。 この勾当内侍の供養塔は滝口寺にある。

 

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