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2009年08月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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百人一首に見る藤原忠平

2009年08月23日 | 平安時代

 百人一首に名を列ねた藤原氏の中で栄華を極めた人は何故か極めて少ない。かの絶頂を極めた道長の名は無く、僅かに藤原忠平、忠通のみであり、それ以外はどちらかというと悲運の人々である。

 まずは三条右大臣・藤原定方(父は藤原高藤)と中納言・兼輔(父は利基)であるが、ふたりは藤原良門の孫で従兄弟同士にあたる。 良門は栄華を極めた長良とは年の離れた弟にあたり、早死にしたために子息は将来有望ではなかった。 ところが定方(873-932)の同母妹・胤子(-896)が宇多天皇女御となり、醍醐天皇(885-930)をもうけたのである。 これにより一躍、高藤は三位となり内大臣に任ぜられた。 高藤の次男・定方も右大臣まで昇ったのであるが、この親子は温和で、従兄弟の中納言兼輔(877-933)とともに風流を好んだ。 中納言・兼輔に臣従した歌壇の第一人者が紀貫之である。 面白いことに、この3人を中心とした風流に集まった連中には、伊勢姫と醍醐天皇の弟・敦慶親王(二人の間には中務が生まれている)などがいる。 伊勢姫は、藤原基経の娘・温子(七条の后)が宇多天皇の女御になった前後に出仕し、温子の相手をすることになります。 定子と清少納言、彰子と紫式部のような関係です。 伊勢姫は、女御・温子の弟の藤原仲平と兄の時平からも愛されますが、温子の夫である宇多天皇の寵愛を得て皇子・行明親王を産んだことにより伊勢生涯の名誉を得ることになります。 しかし後に、皇子を幼くして亡くし、伊勢がもっとも敬愛していた温子皇后が崩じ、その娘の均子内親王も世を去ってしまう中、敦慶親王(宇多天皇皇子)の寵を受け、一女・中務をもうけます。 彼等の中心はなんといっても醍醐天皇であったが、930年に醍醐天皇崩御のとたんに、定方、兼輔ともに相次いで亡くなっており悲しみの淵に暮れた結果の死のような気もします。 兼輔の死を土佐の任地で知った紀貫之はその後、不遇の老境に沈んだといいます。 因みに兼輔の曾孫が紫式部であり、兼輔の子・雅正と定方の娘が結婚して紫式部の父・藤原為時が生まれた。 また、定方の曾孫が藤原道長の妻・源倫子であることを考えると、紫式部が源倫子の長女・彰子に出仕したのは偶然でもなんでもなかったように思われます。 また紫式部の源氏物語は、曾孫・兼輔や三条右大臣の時代を設定して執筆されており、この頃の風流が源氏物語に受け継がれていることは云うまでもない。

三条右大臣・定方:名にし負わば逢坂山のさねかずら人にしられでくるよしもがな

中納言・兼輔:みかのはらわきてながるる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ

伊勢:難波がたみじかきあしのふしの間もあはでこの世を過ぐしてよとや

 源倫子の母は藤原穆子といって定方の五男・朝忠の娘である。中納言・朝忠も百人一首に「逢ふことのたえてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし」 がある。 朝忠はある人妻と密かな関係を続けていたが、人妻は国司の夫と地方に下ることとなった。 そのときの気持ちを未練たっぷりに表現したものである。

 さて、930年に醍醐天皇が崩御となったのであるが、その直前に清涼殿に落雷し天皇の目の前で公卿が死傷する事件が起こった。衝撃により病臥した醍醐天皇は、8歳の朱雀天皇に譲位し、伯父の藤原忠平に摂政として政務を委ね、数日後に崩じたのである。 この時の落雷が菅原道真(菅家: 此の度は幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに)の怨霊の祟りによるものであると後に云われるのであるが、実は923年、藤原時平の妹・穏子と醍醐天皇の皇子で皇太子の保明親王が21歳の若さで他界した時や、909年時平が39歳の若さで他界したとき、はたまた亡き時平の娘と皇太子との間に生まれた慶頼王が5歳で亡くなった時も云われていたようである。 菅原道真を追放した首謀者・藤原時平の周りにはことごとく怨霊の祟りが現れ、936年には時忠の嫡男で大納言の保忠までが47歳で亡くなったから衝撃であった。結果的には、この死により庶流の忠平が太政大臣に昇格し、嫡男・実頼、次男・師輔が左右大臣となり忠平が「貞信公」と呼ばれて繁栄することになるのである。

 道真の祟りがなければ、全盛を迎えていたはずの時平の子・顕忠、敦忠も祟りに萎縮せずに政権に加わっていたはずである。敦忠は在原業平の孫で美貌の女性・在原棟梁女を母とし、和歌・管弦の才に恵まれたから色恋の道に走ったという。 恋の相手はまずは右近。 彼女は忠平の妹で醍醐天皇太后・穏子の女房である。 また参議・源等の娘とは助信という子をもうけ、次は醍醐天皇の第十皇女で斎宮の雅子内親王である。雅子内親王は後に忠平の次男・師輔の妻となり為光・高光を産んでいる。因みに師輔は雅子内親王の姉妹・勤子内親王や康子内親王をも妻とし、康子内親王は藤原公季を産んだ。 没落していく時平系の敦忠が雅子内親王と結ばれなかったのに対して、繁栄する忠平系の師輔が天皇の皇女を3人も妻に迎えたのはあまりにも対照的である。

権中納言・敦忠:あひ見ての後の心にくらぶればむかしはものを思わざりけり

右近:忘らるる身をば思はずちかひてし人のいのちの惜しくもあるかな

参議・源等:浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき

 さて、没落した敦忠を偲んで「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」と詠んだ人がいる。 それは繁栄の右大臣師輔・嫡男の謙徳公・藤原伊尹である。師輔には異母兄・実頼がいたが、娘・安子を後宮にいれ憲平親王(後の冷泉天皇)、守平親王(後の円融天皇)を産み出した。兄の小野宮流・実頼は女子に恵まれなかったために、師輔の九条流が後に栄えたのである。ところが九条右大臣・師輔は兄に先んじて亡くなったため、藤原伊尹よりも先に時平側の顕忠、源高明、伯父の藤原師尹らが左右大臣の地位を占めた。 しばらくして村上天皇が崩じ冷泉天皇が即位するも2年後に安和の変で源高明が追放されると、皇太弟・円融天皇が即位後に摂政・藤原実頼がこの世を去った。このときに47歳の藤原伊尹が幼帝の摂政として始めて政権に就いたのであるが、僅か2年後に糖尿病ではかなくも亡くなるのである。神経質で人を近づけなかった兄とは違って、鷹揚な伊尹には権力争いの渦中には不向きな人柄であったのかもしれない。  長きに渡って政権を握った藤原氏のなかでも一際歌人としての才覚を表し、色好みにも生きた謙徳公の逸話として、才媛・本院侍従との恋がある。 本院というのは時平の娘・藤原善子で保明親王の妃を云い、善子に出仕し、善子が没した後は、村上天皇中宮・中宮藤原安子、同じく承香殿女御・徽子女王(醍醐天皇の第四皇子重明親王の子で母は太政大臣藤原忠平の娘・寛子)などに仕えた。 本院侍従はもともと伊尹の弟・兼通と通じていたが伊尹が割り込んで交渉を持ったようである。伊尹の「あかつきになりやしぬらんほととぎすなきぬばかりもおもほゆるかな」に、侍従は「ふたしへにおもへば苦し夏の夜のあくてふ事なわれにきかせそ」と二股の恋に苦しんだ返歌をしている。

     ┏為時━紫式部 
    ┏□ ┏朝忠 ━藤原穆子 
  ┏兼輔定方(三条右大臣)┣倫子
 ┏利基 ┣胤子  伊勢姫 ┃ 
 ┃   ┃ ┣醍醐┣中務 ┃  婉子972-998(為平親王娘,花山女御) 
 ┣藤原高藤 ┣敦慶親王  ┃   ┣資平(養子)かぐや姫   
良門     ┣敦実親王-967┃ ┏実資サネスケ957-1046(小右記)実頼三男・斉敏四男 
順子    宇多 ┣源雅信-993 ┣頼忠924-989┳公任966-1041━定頼 
長良802-856   ┏娘      ┃      ┗遵子957-1017(円融妃)
  ┣国経  ┏時平871-909   ┣敦敏912-947━佐理スケマサ944-998
   ┃        ┃┗保忠┏実頼 ━╋斉敏928-973━懐平
  ┣基経 ━╋仲平 ┃(九条殿)┗述子933-947(村上女御)
  ┃836-891 ┣忠平━╋師輔-960┳伊尹コレタタ(一条殿・謙徳公)┳懐子(花山帝御母) 
  ┣淑子  ┃-949 ┗師尹モロタタ┣為光942-992       ┣挙賢
  ┣高子  ┃    ┣芳子   ┃ ┣誠信964-1001    ┣義孝━行成
  ┃842-910 ┃    ┃(村上妃┃  ┗斉信967-1035    ┣義懐ヨシチカ
 乙春┣陽成帝┃    ┗済時995┃  タダノブ      恵子女王 ┗成房
   ┃     ┃     ┗通任┃(堀川殿)  ┏媓子(円融中宮)947-979   
   ┣貞保 ┃    (三条妃)┣兼通925-977╋顕光┳元子(一条帝女御)┓
   ┣敦子  ┣頼子(清和女御) ┣登子       ┗朝光┗延子(敦明女御)  ┃
   ┗━━┓┣妹子(清和女御) ┃キンスエ     ┗姚子(花山帝女御)  ┃
良房804-872 ┃┣温子      ┣公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
 ┣明子  ┃┃ ┣均子内親王  ┃(母:康子内親王)           ┃
潔姫 ┣56清和┃宇多天皇    ┣兼家929-990(東三条殿)  ━━━┓   ┃
 55文徳帝  ┃        ┣安子927-964          ┃   ┃
   ┣恬子 ┗穏子885-954 盛子-943┣憲平親王(冷泉帝63代967年) ┃   ┃
  紀静子   ┣保明親王     ┣資子内親王        ┃   ┃
        ┃         ┣守平親王(円融帝64代969年) ┃   ┃
   淑姫   ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚)  ┃   ┃
    ┣源兼明┃         ┣選子 ┣    源頼定     ┃   ┛
       ┃16皇子┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ?      ┃
  60醍醐天皇885-930  ┃┣具平親王┣広平親王    綏子(すいし) ┃
    ┃       ┃┣楽子  ┣緝子内親王              ┃
    ┃       ┃荘子女王 祐姫(藤原元方娘)            ┃
    ┃       ┣規子内親王949-986                  ┃
    ┃       微子女王                        ┃
    ┣源高明914-983(第十皇子)                   ┃
    ┣雅子内親王(斎宮,師輔室)                          ┃
      源周子                                        ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃   藤原守仁娘・(伊予守) 
┃   ┣ 道頼971-995(兼家養子) 藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆953-995(中関白家)        ┣ 
 ┃        ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
 ┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃        ┣大姫
 ┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044  ┗小姫 
 ┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃     ┣明順  ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻) 
 ┃     ┗光子  ┣原子姫980-1002(居貞親王女御) 
 ┃      (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条 
 ┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王   996-1049
 ┃             ┣兼綱     ┣敦康親王    999-1018
 ┃          ┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
 ┃   繁子(師輔娘)┃    ┃
 ┃  66一条帝980-1011(乳母は橘徳子) 
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)
 ┃┃(鷹司)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)   ┣信長  
 ┃┗時中 ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)      公任娘 
 ┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御)         
 ┃  重信┃-995         ┃延子(藤原頼宗娘)
 ┃    ┃             ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039 1076-1103
 ┃    ┣ 彰子988-1074上東門院┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王  藤原苡子
 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子    賢子┣鳥羽
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条)┣堀河天皇
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129  
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃┃藤原茂子(公成娘) 
  ┃        ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┃
  ┃974-1004┃ ┃                ┣馨子内親王1028-1093斎院
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027(枇杷殿)      ┣章子内親王1026-1105 
 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┣- ┣ - 
 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母) 
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀                 ┣ - 
 ┃954-982       ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘)   藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院
 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣敦貞親王
 ┃  ┃    ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63冷泉帝
 ┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。 
    ┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992

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石鎚山

2009年08月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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