平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

二尊院の三条西実隆墓所

2009年08月31日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 室町時代の公家・歌人・古典学者を多く輩出した三条西家は藤原北家閑院流正親町三条家の分家で大臣家の家格を有する公家であった。 本家の正親町三条家を凌ぎ、室町時代には多くの右大臣をだし、精華家と同格とみなされた。分家に押小路家・武者小路家・高松家がある。  応仁・文明の乱の激動期に生涯を送り、足利将軍家、細川、畠山などの有力な守護大名などの勢力争いにさらされながら生きた。 後土御門・後柏原天皇の信任も厚く、足利将軍家との関係もよく、公武両面と親交を深めたが、政治への介入は慎み、文化面へエネルギーを注いだ。 実隆の三条西家は藤原北家の末裔である。  師輔の子で閑院流の祖となった公季の5代孫の実行が三条家を興し、その曾孫の公氏が正親町三条家を興し、その6代孫の公時に始まるのが三条西家である。 公時の邸が三条朱雀の西北にあったことから家名が決まった。 兄の実連が若死にし、父・公保もその2年後になくなったことから実隆は6歳で家督を継ぎ、応仁の乱の時期には三条西家の当主としてことにあたった。 実隆の妻は勧修寺教秀の娘で、姉の勧修寺房子は後土御門天皇に入内し、妹の勧修寺藤子は後土御門天皇の皇子・勝仁親王(後の後柏原天皇)に入内し、後奈良天皇を産んでいる。 実隆の活動期は後土御門、後柏原天皇の治世であり、姉妹の婚姻により厚遇を受けたのは間違いない。

 正親町三条家の東隣、武者小路今出川に邸宅があった実隆の経済基盤は山城を中心に畿内及び周辺の国に散在する荘園などからの年貢及び、和歌・連歌の添削、古典の書写などによる謝礼であった。 荘園の年貢については戦乱の時代であり不安定であったが、古典の書写については安定しており、文化人としての面目も保てた。能書家の実隆のもとには皇室や大名かた書写の依頼が多くあり、31歳の時に完成した源氏物語の全巻書写は注目された。数年後に一条兼良に頼んで源氏物語に題名を書いてもらい櫃を新調して納めている。 しかし内大臣になった年に経済的な理由から甲斐国の大名に売却している。 また、その後にもう一度源氏物語の全巻書写をしたが、再度 能登の守護大名の畠山義総に売却している。 書写については、これ以外に古今集、史記なども行っているが、後に生活の為にやっていると、心情を述べている。

  

公時1339-1383
 ┗実清(権大納言) 
   ┗三条西公保1398-1460(正親町三条家から入って家督を継ぐ)
     ┣三条西実連1442-1458
     ┣三条西実隆1455-1537
    ┏娘        ┃ 
兼長   ┣甘露寺親長    ┣三条西公条1487-1563(歌人,古典学者)
 ┣甘露寺房長-1432      ┃ ┣三条西実枝1511-1579(細川幽斎は高弟)
 ┣甘露寺清長(興福寺別当)  ┃ ┣大久保忠員室
 ┣甘露寺経子(後小松天皇典侍┃甘露寺元長娘
日野時光娘          ┣三条西保子
                ┣正親町実胤室
                      ┏━━┛
 勧修寺教秀(1426-1496)┃
           ┣娘
          ┣勧修寺藤子1464-1535(豊楽門院)━━┓
          ┗勧修寺房子                ┃
            ┣応善女王1476-1497        ┣覚鎮女王
            ┣仁尊法親王1482-1515          ┣後奈良天皇1497-1557
            ┣今若宮                ┣清彦親王
           後土御門天皇1442-1500           ┃
             ┣後柏原天皇1464-1526      ━━┛
             ┣尊敦親王1472-1504
           庭田朝子(蒼玉門院)

コメント    この記事についてブログを書く
« 二尊院の奥にある二条家墓地 | トップ | 後楽園にて »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

陵 古墳 墓 遺跡」カテゴリの最新記事