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開国の発端はペリー来航ではない

2011年04月11日 | 幕末

 1792年、蝦夷地にロシア皇帝の名を冠したエカテリーナ二世号が来航した。 これは林子平の開国兵談が幕府に回収され焼却処分されたあとのことである。 彼らの目的はもちろん日本との交易、つまり日本に開国をせまるものであった。 いうまでもなくシベリアは厳寒の地であり、食料などの補給が大変困難である。 シベリアの南に食料豊富な国がある。 日本は幸い農業国であり、日本にとっても鎖国から開国へと動く必要があったことは何十年も前からわかっていた。 ロシアやアメリカは日本と共存共栄をはかる意図をもっていたのだから、振り返ってみれば頑なな態度が好機を逃しただけではなく、両国を敵に回すといった愚かな結果を招いたといえる。 では何故日本は開国を行わなかったのかといえば、鎖国が祖法(先祖が決めた法)であったからである。 松平定信のような朱子学信者にしてみれば鎖国は祖法であり、ましてやロシアは夷という野蛮人であって交易などありえないとなる。 したがって林子平が的確な意見を述べてロシアとの交流を推奨するのであるが、許可しなかった。 それから約10年後の1804年、ロシアは巨大戦艦ナデジュタ号を長崎に送り込んだ。 このとき長崎奉行は上陸の許可さえださなかったことから、当然のことながらロシア側の怒りをかうこととなる。 時の老中は松平定信が失脚し、その後を継いだ松平信明であったが、幕閣中枢には土井利厚などロクな人材はおらず、ロシアを刺激せずに対応する政策さえもちあわせていなかった。 ロシアの全権大使レザノフは怒りながらも長崎から母港のカムチャツカに戻ったが、その後部下のフボストフが指揮をとって択捉、礼文、利尻島などの日本人居住地を攻撃し略奪を加えた。 これをフボストラ事件という。

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