鏡女王忍坂墓
舒明天皇陵の奥の小路(忍坂の山と歌われた外鎌山(292m)の南ふもと)を進むと一番奥には大伴皇女(欽明天皇と堅塩姫の皇女で、敏達天皇とは異母兄妹)の忍坂内墓があります。 その畦道の途中には鏡女王の忍坂墓があります。鏡女王(鏡王を父に山背姫王が母という王族の娘 628年-683年)は額田王の姉にあたり(舒明天皇の皇女という説もある)、中大兄皇子の後宮に入っていましたが、後に安見児とともに鎌足の妻になっています。 鏡女王は鎌足との間に氷上娘、五百重を生んでいます。 五百重は天武の妃となりますが、後に藤原不比等の妻として藤原氏京家の麻呂を生んでいます。
秋山の樹の下隠<り行く水の我こそまさめ思ほすよりは
皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)の 「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」 に答えた歌で、 「秋の山の、木々の下をひそかに流れてゆく川の水のように、おもてには表さなくとも、お逢いしたいという思いは私の方がまさるでしょう。殿下が思っておられるよりは。」
玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも
鏡王女を娉ふ時に、鏡王女が内大臣鎌足に贈った歌で、 「お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。」