平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

鏡女王・忍坂墓

2007年10月23日 | 陵 古墳 墓 遺跡

鏡女王忍坂墓

 舒明天皇陵の奥の小路(忍坂の山と歌われた外鎌山(292m)の南ふもと)を進むと一番奥には大伴皇女(欽明天皇と堅塩姫の皇女で、敏達天皇とは異母兄妹)の忍坂内墓があります。 その畦道の途中には鏡女王の忍坂墓があります。鏡女王(鏡王を父に山背姫王が母という王族の娘 628年-683年)は額田王の姉にあたり(舒明天皇の皇女という説もある)、中大兄皇子の後宮に入っていましたが、後に安見児とともに鎌足の妻になっています。 鏡女王は鎌足との間に氷上娘、五百重を生んでいます。 五百重は天武の妃となりますが、後に藤原不比等の妻として藤原氏京家の麻呂を生んでいます。 

 

秋山のの下隠<り行く水の我こそまさめ思ほすよりは

皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)の  「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」  に答えた歌で、  「秋の山の、木々の下をひそかに流れてゆく川の水のように、おもてには表さなくとも、お逢いしたいという思いは私の方がまさるでしょう。殿下が思っておられるよりは。」

玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも

鏡王女をふ時に、鏡王女が内大臣鎌足に贈った歌で、  「お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。」

コメント    この記事についてブログを書く
« 倭彦命・身狭桃花鳥坂墓 | トップ | 大伴皇女・忍坂内墓 »
最新の画像もっと見る

陵 古墳 墓 遺跡」カテゴリの最新記事